令嬢、退場する
「《プランB》ですか」
クラリスが私を見る。
その声には僅かな困惑が混じっていた。
「……初耳ですが」
うん。
「言ったことないから」
「なのに何が《プランB》ですか」
ごもっとも。
プランBなんて、たった今、頭の中でひねり出したものだ。
ほぼ反射。意地、と言ってもいい。
でも、このまま黙って引き下がるなんてありえない。
私の貴重な時間と労力をかけた計画を台無しにされて、おとなしく「残念でした」なんて言ってられるほど、私は出来た人間じゃない。
《
あれがあれば、私の変装はもっと完璧になったはずだった。
誰にも疑われずに、もっと大胆に動けた。
二度と誰にも私を惨めな底辺に引きずり下ろさせないための切り札。
そう、私のためのもの。私の自由と、未来のための鍵。
ラッフルズ家の財宝? 一族の無念?
……そんなことを考える余裕なんて、今の私にあると思う?
まずは私が生き延びること。二度とあんな惨めな思いをしないこと。
それが何よりも優先されるべき当然の権利だ。
あのブローチは、そのための大事な、大事な道具だったのに。
それを、なぜ。
よりにもよって、ヴァイオレット、あんたが奪うの?
あの《47番マスク》は、絶対に彼女だ。
仮面で顔を隠したって無駄。あの雰囲気、あの立ち姿、そして何より、あの視線。
競り落とした瞬間、確かに私に向けられた、冷たく、全てを見透かすような紫色の瞳。
間違いない。あれは偶然じゃない。
彼女は私がここにいることを、そしてあのブローチを狙っていることまで、どこかで嗅ぎつけていたんだ。
確信がある。
だとしたら、一体どういうつもり?
私を助けたい、守りたいと言った甘い言葉は全部嘘?
それとも、もっと厄介な、私には想像もつかない目的がある?
どっちにしろ、今の私にとっては『敵』でしかない。
怒りなのか、呆れなのか、それとも裏切られたことへの鈍い痛みなのか。
ぐちゃぐちゃになった感情が胸の中で渦を巻く。
けれど、仮面の下で、私は完璧なポーカーフェイスを保っていた。
ここで取り乱したら、それこそ相手の思う壺だ。
ステージ脇では、ヴァイオレットが寄越したらしい侍女が、《虚ろなる鏡》の受け取り手続きを進めている。
その手際の良さが、無性に腹立たしい。
まだだ。まだ終わっていない。
クラリスに、ごく僅かな視線を送る。
一瞬のアイコンタクト。
それだけで、彼女は私の意図を正確に読み取った。
さすが、私の右腕。
クラリスは音もなく動き出し、近くのテーブルに置かれた装飾用の燭台へ、ごく自然な仕草で手を伸ばす。
あれを『うっかり』床に落とせば、カーペット敷きの床でもそれなりの音がして、一瞬、周囲の注目が集まるはず。
その刹那。
ヴァイオレットが、ほんの僅かにそちらへ視線を向けた気がした。
気のせい? いや、違う。
クラリスの手が、一瞬ためらうように速度を落とす。
……見ている。私たちの動きを、正確に。
背筋に冷たいものが走る。
焦りが生まれる。でも、止まるわけにはいかない。
もう一度、強くクラリスに視線を送る。
クラリスは意を決したように、再び燭台へと手を伸ばす。
今度こそ、確実に注意を引く。ほんの一瞬でもいい。あの手続きを邪魔できれば――!
その、まさに指先が燭台に触れるか触れないかの瞬間。
すっ、と。
人影が、まるで霧の中から現れるように、クラリスのすぐ横に立った。
《47番マスク》――ヴァイオレット本人だった。
いつの間に席を立ったのか、その動きは目で追えなかった。
ただ、気づけばそこにいた。音もなく、気配もなく。
そして、彼女はクラリスに視線を向けることなく、ただ一言、吐息のように囁いた。
他の誰にも聞こえないであろう、しかし明確な意志のこもった声で。
「――おやめなさい」
空気が凍った。
クラリスの動きが、完全に止まる。
彼女の手は燭台の数センチ手前で固まり、まるで意思を失ったかのようにゆっくりと下ろされた。
だが、それだけではなかった。
クラリスは硬直からすぐに立ち直ると、微かに眉をひそめ、そっと自分のマントの留め金に指を触れた。
――私たちの間で決めてあった、即時撤退と最大警戒を示す合図。
……完全に読まれてた。
私の浅はかな抵抗も、クラリスの動きも、その意図さえも。
しかも、あの余裕。あの言葉。
まるで全てが彼女の掌の上だと言わんばかりの。
冷たい汗が、今度こそはっきりと背中を伝う。
計画は実行前に、あまりにもあっけなく、そして静かに潰された。
これはもう、単なる邪魔じゃない。明確な『警告』だ。
ヴァイオレット、あんた、一体……!
競売はまだ続いている。
けれど、もう私の意識は完全にここにはない。
「お嬢様、退路は確保しました」
クラリスが、周囲に聞こえない声で冷静に告げる。
「……ええ。撤退するわ。今すぐ」
私は短く応えた。
これ以上ここにいても得るものはない。
ヴァイオレットにこれ以上こちらの動きを探られるのは避けたい。
彼女の目的が何であれ、今の私にとって最も警戒すべき相手であることは間違いないのだから。
幸い、会場の大部分の客は次の出品物に夢中で、私たちの退席には気づかないだろう。
だが、出口に向かうホールを横切る途中、ふと視線を感じて足を止めた。
人混みの向こう、少し離れた場所に立つ《47番マスク》。
ヴァイオレットが、こちらを見ていた。
目が合った。ほんの一瞬。
彼女は、仮面越しに、ほんの僅かに、顎を引いた。
それは肯定なのか、嘲笑なのか、それとも別の何かか。
読み取れない。
けれど、その微かな動きが、妙に私の心に引っかかった。
すぐに私は視線を逸らし、クラリスと共に足早に出口へと向かう。
背後では、案内役のセレナ・ノワールが、相変わらず優雅な笑みを浮かべているのが気配でわかった。
あの女狐も、この状況を楽しんでいるのだろう。
後に残ったのは、打ち砕かれた計画の残骸と、胸を焼くような裏切りへの確信、そしてあの忘れられない紫色の瞳だけ。
ヴァイオレット。
あんたの真意が何であれ、ただじゃおかない。
私が欲しいものは、必ず手に入れる。
それが誰の手にあろうとも。
仮面の下で、私は静かに、しかし固く決意を固めていた。
これは、あんたが仕掛けてきた戦いだ。望むところよ。受けて立つわ。
そして、必ず後悔させてやる。
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