令嬢、目が合う
──その時だった。
「さて、次は少々、趣のある一品をご紹介いたしましょう」
セレナ・ノワールの声が、一際ゆるやかに落ちた。
その響きだけで、空気が変わったのが分かる。
待っていた者がいる。噂を信じ、欲を燃やしている者がいる。
「ある地方貴族の家系に長らく伝わっていたとされる、銀製の装飾ペンダント。工房の刻印は消えていますが、細工の繊細さと魔力の残香から見て、王国上級工房の製である可能性が高いと見られています」
……来た。
台座の上にそっと置かれたのは、私のもの。
ラッフルズ家が華やかだった頃、式典のたびに身につけていた、あのペンダント。
かつては当然のように胸元にあったものが、今や“別人の品”として競りにかけられようとしている。
奇妙な背徳感と、演技の快感が同時に喉をくすぐった。
「ふふ……皆さまの直感に期待しております」
その一言で、仮面の下の視線が一斉に動いた。
ざわめきはない。けれど、魔力の気配がじわりと膨らむ。
誰かが一度、息を呑む音が聞こえたような気さえした。
予定通り──このペンダントは“目立つ”。
でも、私は手を出さない。何も語らず、何も動かず。
誰よりも遠くから眺める者として、舞台の端に立つだけ。
そう、それでいい。
──その時。
視線を感じた。
それまで商品に集中していたはずの誰かが、明らかに“私”を見ていた。
気のせいかと思ったけれど、冷たい何かがうなじをなぞるような感覚が消えない。
私はそっと、観覧席の向こうを横目でなぞった。
──いた。
仮面をつけてはいるものの、確かにこちらを見ている人物がいる。
見つけられるはずがない。仮面越しだし、私も誰でもない顔でここにいる。
視線の先を、ほんの一瞬だけ確認する。
目が合った。
一瞬だけ、確かに。
その目は、静かで、冷たく、それでいて底に微かな熱を孕んでいた。
── 紫色.
そんな目の色、そうそう見ない。
「……うそ、でしょ」
声にはならなかった。
けれど、その色、その眼差しを私は知っている。
ヴァイオレット。
ここにいるはずがない
でも、だったら、あれはいったい。
──オークションは、止まらない。
私の中だけ、時間が歪んでいた。
あの視線に気づいた瞬間から、頭の片隅に焼きついて離れない。
紫紺の瞳。仮面の奥からでもはっきりわかる静かな眼差し。
こちらを――“私”を――まっすぐに見ていた。
セレナの声が、遠くの水面から響いてくるように聞こえた。
鎖が擦れる音。微かに弾ける魔力の火花。
誰かが小さく息を呑み、別の誰かが札を入れる。
今まで通りの流れ。むしろ、会場はますます熱を帯びている。
なのに、私だけがそこにいない。
──動揺しては、いけない。
これは舞台。私は観客じゃない。
静かに、優雅に、すべてを読み切る“主役”でなければ。
……それなのに。なぜ、こんなに指先が冷たいの?
「入札、確定です。落札者は……仮面番号13。おめでとうございます」
会場のざわめきが一瞬高まり、またすぐに収束する。
誰も私の乱れには気づかない。仮面の奥で、演技を崩していない限りは。
深く息を吸い、ゆっくりと椅子に背を預けた。
まだ、幕は下りていない。
舞台に立ち続けるなら、表情を捨てるわけにはいかない。
落ち着け、アンナ・J・ラッフルズ。
平然を装って、舞台に立ち続ける。
それが、あなたの選んだやり方だったでしょう?
心臓の鼓動が、まだ速い。
でも、呼吸は整えられる。視線も、口元の角度も、いつも通りに戻せる。
ヴァイオレットの姿に動揺した。それは確か。
けれど、今夜の計画は何ひとつ狂っていない。
囮は既に出品された。
本命の品はまだ。クラリスも、ニナも、それぞれの持ち場で動いている。
変える必要はない。
むしろ、ここで予定通りに進めることこそが正解。
私は、自分にそう言い聞かせるようにグラスの水を一口だけ含んだ。
静かに、ゆっくりと。舞台の中心に立つ覚悟を、もう一度心に据えるように。
──変数なんて、考えない。今はまだ。
セレナ・ノワールの声が、再び静かに響く。
「では、次の品をご紹介しましょう。これは……ふふ、少々面白い経緯があるようですわ」
彼女が手をかざした先、白布に包まれた平たい箱が魔導台の上に乗せられた。
そこに何が入っているのかは、まだわからない。
けれど、私の中のどこかが──ほんのわずかに、ざわりと揺れた。
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