令嬢、舞台に

夜の帳が下りる頃、私は指定された邸宅の前に立っていた。

隣には控えめに黒いマントを纏ったクラリスが、沈黙のまま数歩うしろに従っている。


ニナはこの場所には向かないと判断し、離れた路地の茶屋に待機させてあった。

あの子の能力は、最も必要な瞬間に使うべきだから。


《夜のオークション》。

王都の裏通り、忘れ去られたような廃館の地下にて密かに開かれる、影の舞踏会。


公式記録には存在しないこの場所で、

誰にも知られずに〈何か〉が売られ、〈誰か〉がそれを手に入れていく。


入口の扉には家紋も看板もない。

ただ一人、無表情な執事風の男が立っているだけだった。


「招待状を」


低い声でそう言われ、私は躊躇わずそれを差し出す。


男は無言で紙を受け取り、目を通す。

そして一瞬だけ私とクラリスを見て、何も言わずにうなずいた。


通された階段は意外なほど整っていた。


旧図書館の廃墟に通じると言われる地下空間──

その奥は、まるで別世界だった。


広いホールには、円形の黒檀の床が磨かれて輝いた。

天井からは金と瑠璃で装飾された魔導ランプが星のように吊るされていた。

その光は直視すればまぶしいほどだが、魔法によって柔らかく拡散され、全体にうっすらと霧のような光の膜をかけている。


空気はやや重い。

香水と煙草、そして濃いベルモットのような芳香が漂い、人々の視線と呼吸すら濾過されていくようだった。


絨毯は濃緋色で、足音が吸い込まれるように響かない。

まるで誰も歩いていないかのように、静かだった。


会場の周囲には、円形の観覧席が配置されており、全てに目隠しの結界が張られている。


参加者たちは皆、仮面をつけ、互いに面識のないふりをしている。

まるで「自分はここに存在していない」と信じているかのような振る舞い。

息遣いすら計算され尽くした沈黙だった。


中央の円形台座には、金属製の回転ステージがあり、四方の視線を浴びながらゆっくりと回っている。


既にいくつかの小箱や布で覆われた品々が並べられており、それぞれに小さな番号札が添えられていた。


「おひとり様で?」


ふと、甘く澄んだ声が背後からかけられる。


振り返ると、そこにいたのは──深紅のドレスに身を包んだ黒髪の女性だった。


背筋はまっすぐで、歩くたびに裾がゆるやかに揺れる。

仮面は深い群青に金の縁取り、目元は仄かに光を反射していた。


表情はほとんど見えないのに、その存在だけで会場の空気が少し変わる。

周囲の会話が自然と途切れるのを、私は確かに感じた。


「初めてのお顔ですね。あなた……ご招待で?」


「ええ、仮の紹介状ですけど」


「まあ。それはそれは。」


彼女は口元に柔らかな笑みを浮かべた。

だが、笑っているのは唇だけ。


その声には、舞台上の役者が持つような抑揚がある。

感情ではなく、計算された抑制と演出。

彼女はおそらく、ここにいる誰よりも“自分”を演じている。


「ようこそ、《夜の舞踏》へ──いえ、《夜のオークション》へ、ですわね」


私の胸に、ひやりとした感触が走る。


──なぜ、わざわざそう言ったのか。


ここが“仮面舞踏会”のような場所であることを、彼女はわかっている。

だがそれを口にしたのは、“舞踏”に来た客──つまり私への、薄い含みがあったからだ。


「ここでは、顔も名前も関係ありません」


彼女はそう続けながら、仮面の下から私の目を覗き込むように言った。


「必要なのは、見る目と、払う意思」


「……それだけ?」


「それだけですわ。でも、それが何よりも難しい」


声はあくまで優雅なのに、言葉の一つ一つがまるで刃のように鋭い。

“見抜かれているかもしれない”という直感が、理性より先に背筋を冷たくさせた。


──この女、ただ者じゃない。


「わたくしの名前はセレナ・ノワール。ご案内役を務めております。ご用の際は、どうぞお気軽に」


そして一礼もせず、ふわりと踵を返す。


深紅の裾が黒檀の床をすべるように流れていく。


その背を、私はしばらく目で追っていた。


「お気軽に、ね……」


つぶやきが、仮面の裏に溶けた。


その直後、背後から小さな声が落ちてくる。


「……今の方、相当、手強いですね」


クラリスだった。


周囲に聞こえないよう、わずかに身を寄せて囁いてくる。


「気づいていたと思います。……あれは、お嬢様に興味があります」


「うん。なんとなく、そんな気はしてた」


「対応、どうなさいます?」


「対応……?」


私は、軽く肩をすくめて、口元だけで笑った。


「好かれてるうちが華って言うでしょ。距離は保ちつつ、楽しんでみるわ」


「……楽しむなんて言葉、使っていい相手じゃないと思いますけど」


「だからこそ、逆に好奇心が湧くのよ」


私がそう返すと、クラリスは小さくため息をついて言った。


「……お嬢様がそう仰る時は、たいてい後悔する時です」


会話はそこまで。


私は無言で場内を探るように歩いた。

その後ろに、クラリスがってくる気配があった。


仮面の下で私の横顔をうかがいながら、何も言わずに歩調を合わせてくる。

この距離感が、今の私たちにはちょうどいい。


場内は静かだった。表面的には。

だが、仮面の奥からは密やかな声がいくつも交わされていた。


「……例の"髑髏の指輪"、今夜出るらしいわね」


「出品者は黙ってるけど、北方辺境伯の……」


「本物なら即決でいく。うちの旦那、彼には借りがあるから……」


仮面の中から漏れる囁き声。

声色を抑えていても、言葉の端々から漂う熱気は隠しきれない。

値打ち、影響力、出自、売却経路。誰もが“目の前のもの”だけを見ていない。

その先に、何を手にするか──それだけを考えている。


私はそのざわめきに、わずかな笑みを浮かべた。


この場所は、ただの闇市場ではない。欲望と虚構が交錯する、洗練された舞台。

誰もが欲にまみれている。

もっと高く、もっと遠くへ行くための“何か”を、この場所に探しにきている。


私と、同じように。


この場にあるのは、過去の遺産じゃない。未来を変えるための触媒。


私はラッフルズ家の亡霊を追っているのではない。

“明日”を切り拓くための、価値ある品を奪いに来た。


中央の円形台座では、既に最初の品が運び込まれていた。

青い布に覆われた長方形の箱。その前にセレナ・ノワールが静かに立ち、観客席に視線を向ける。


仮面の下の目が、私を一瞬だけ捉えたような気がした。


──さあ、幕が上がる。

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