令嬢、裏をかく

私はそっと息を整え、何でもないふうを装って、箱に視線を落とした。


「かえって気になりますね。開けていただけますか?」


「ええ、まあ……真鍮のブローチですよ。」


彼はゆっくりと手を伸ばし、ダイヤル錠に指を添えた。

けれど、その指が動き出す前に――


カチリ。


あっけないほど滑らかに、箱の蓋が開いた。

まるで最初から鍵なんてかかっていなかったかのように、音ひとつ立てずに。


彼の瞳が一瞬揺れた。

そして、あわてて箱の中をもう一度のぞき込む。


「……何か、ありましたか?」


「いえ……いえ、なんでもありません。」


「もしかして、鍵の調子でも?」


逃げ場はもうない。私は自然な笑みを浮かべたまま、彼の動きを見守る。


「できれば、他の箱も拝見できますか?」


動揺は明らかだったが、それを断る理由は見当たらない。


カチャ、カチャ、カチャ……。


彼が持ってきた五つの箱は、どれもすでに錠が外れていた。

彼は静かに蓋を持ち上げ、そっと中を確認する。

中身は整然と収まっていたが、その目が向かっているのは装飾品ではなく、鍵と蝶番。


指先がわずかに震えていた。

呼吸がほんの少しだけ早くなっているのが、私にも伝わってくる。


「……おかしいですね。確かに昨日、自分で閉めたんです。何度も確認しましたから……」


額に滲んだ汗が、そっと頬を伝って落ちていく。

彼は視線だけで店内を見回した。

もしかしたら、侵入の痕跡を探していたのかもしれない。


あるいは、監視魔法を再確認したい衝動を、今にも抑えきれずにいるのか。


「ほかのお客様が……いえ、監視魔法はずっと作動していたはずですし……」


でしょうね。

でも、監視魔法が作動するのは、“何かが持ち出されたとき”だけ。


私がニナに頼んだのは、たった一つ。


――――「錠だけ開けて。中身には触れないで」


何も盗まれていないなら、魔法が反応するはずもない。

――それが、私の狙いだった。


「でも、こうして今、開いているのは……どうしてでしょう?」


私はほんの少しだけ首をかしげて、優しく微笑んだ。

疑うでもなく、責めるでもなく、ただ不思議に思っているだけのように。


「……もしかして、誰かが先にいらっしゃったのかもしれませんね?」


「まさか……泥棒が……?」


「だって、ちゃんと鍵をかけたはずなのに開いていたら……そのくらいしか、思いつかなくて。」


ようやく、ロヴニールは自分の過失を認めたようだった。

一度でも「おかしい」と言ってしまえば、あとはもう――こちらのペースだ。


私は自然な仕草で箱を開いた。

ベルベットの上にちょこんと乗っていたのは、まさに探していた品だった。


アンティーク風の真鍮製ブローチ。

中央には鈍く光る多面カットのクリスタルが埋め込まれている。


たしかに、お金持ちのお嬢様が好みそうな品ではない。

ロヴニールがあまり見せたくなさそうにしていたのも納得できる。


地味で目立たず、誰かが興味を示す可能性は低い。

売れたとしても、高額を期待するのは難しかっただろう。


でも、それが今回の私にとっては都合がいい。


「そうですね。じゃあ、こういうのはどうでしょう。こちらの品、私に貸していただけませんか?」


「……え?」


「だって、この箱が開いていたということは、本物かどうかもわからないじゃないですか?」


「い、いえ、それは……」


ロヴニールが再び私の顔を見つめた。

今まで管理してきた品が偽物かもしれないという暗黙の示唆――それは、ただの手違いでは済まされない話だ。


「もちろん、断定しているわけではありません。ただ、念のために鑑定士に見せてみたいんです。」


私はあくまで丁寧に、穏やかにそう申し出た。

脅しでも、押し売りでもない。ただの確認行為のつもりで、と聞こえるように。


「……なるほど。おっしゃる意味はわかります。ですが、鑑定でしたら、こちらでも承れますが?」


「まあ、それって……信じて大丈夫なんでしょうか?」


その言葉に、彼の瞳が一瞬揺れた。

すでに保管ミスを指摘された後で、信頼を損なうような真似は避けたいだろう。


迷い、不信、損得――そして、降参。


ロヴニールは唇を結び、目を伏せた。

そして、静かにうなずいた。


「……ええ。問題ありません。正当な手続きですから。」


口ではそう言いながらも、頭の中はきっと大混乱だ。

仮に中身が偽物でも、彼の責任ではない。

けれど、それで責任が免除されるわけでもないのだ。


ここで、ほんの少し彼を慰めてあげることにした。


「ご理解ありがとうございます。もちろん、私もあまり強く出るつもりはありません。このブローチひとつだけ鑑定に出します。もし本物なら、ほかの品も信じますから。」


この真鍮ブローチは、どう見てもいちばん価値の低い品。

ロヴニールにとっても、気軽に手放せるはずだ。


「ご配慮に感謝します。はい、ではそのようにいたしましょう。」


「詰め寄るような形になってしまって、すみませんね。悪意は一切ありません。ただ――開いていた、という事実だけがあって……それだけです。」


「いえいえ、むしろありがとうございます。おかげさまで、こちらも気づけましたし。」


ありがたくもないくせに。

せっせと残りのケースを片付けるロヴニールを横目に、私は心の中で舌打ちした。


見え見えだ。

どうせ何も知らなかったふりをしてに売るつもり出猩々。


とはいえ、それを咎めるつもりはなかった。

さっきのやり取りで、彼と私の間には「まあ、そういうことで」っていう合意が成立したのだから。


しかも、あの品はまぎれもなく本物。

結果として、詐欺になるわけでもない。


むしろ――


「では、また改めて伺いますね。もし本物だったら、何点か買わせていただきます。」


本当の詐欺師はこっちのほう。


彼は、まっとうな真作を私に渡し、代わりに偽物を受け取ることになる。


結果:骨董屋、ブローチ一個損。


以上。

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