令嬢、仲間を得る

夕陽が屋根を赤く染める頃。

ニナはあらかじめ教えられた通り、旧市街の複雑な路地裏を抜けていった。


ニナは霧溜まりの外に出たことが、ほとんどなかった。

住人ですら迷うこ迷路のような路地は、彼女にとって未知の世界そのものだった。

だが、ニナは一度も迷わずに進んだ。


「たのし〜い!」


ニナが《解錠アン・ロック》を使える理由――

それは、構造を直感的に捉える天性の感覚。

その特性は、道を読む力にも応用されていた。


他の人にとっては迷宮でも、ニナにとっては楽しい冒険に過ぎなかった。


しかも今日は、クラリスが用意してくれた新しい服まで着ている。


乞食や浮浪児には見えない程度の素朴な服。

けれど彼女がいつも着ていたボロ布とは比べ物にならない。


美味しいお菓子。可愛い服。わくわくするお仕事。


――まるで空を飛んでいるような気分だった。


「ここかな?」


ひらひらと歩みを止め、ニナは目的地を確かめた。


『ロヴニール骨董店』──旧市街の路地裏の端にある、古びた石造りの建物の店。

外から見ればただの骨董品店だが、裏の世界に繋がりがある仲介人の一人だ。


「うん、このマーク……合ってる気がする!」


ニナはアンナに渡された紙片の文字と、看板の模様を見比べた。

文字は読めないが、形が一致しているのはわかった。


息を殺して裏口に回る。

扉には銅製の錠前がかかっていた。

耳を澄ましても、中からは人気が感じられなかった。


「かんたん、かんたん〜」


錠前にそっと手を当てる。

魔力が指先に集まる。


ひらけアン・ロック!」


カチリ。


見えない鍵が錠前を解くように、扉は魔力に反応し、静かに開いた。

中はまだ静かだった。主人は二階で夕食の準備でもしているのだろう。


ニナはそっと身体を店内へ滑り込ませる。


古びた木材の匂い。革と埃、そしてどこか異国風の香辛料の香り。

馴染みのない匂いなのに、なぜか心地よい。ニナは一瞬うっとりした。


「だめだめ!お姉ちゃんのお願い!」


両頬を軽く叩き、意識を戻すと、周囲を見回す。

古い家具、飾り気のない陶器。がらくたと骨董が無造作に積まれている。


ここは、陳列されない商品を保管するストックルームのようだった。


ニナはアンナに言われたことを思い出す。


「てのひらサイズの、はこ……てのひら、てのひら……」


幸い、部屋はあまり広くない。

すぐに、探していたものが目に入った。


左手の壁際に、装飾棚が並んでいる。

その一角に、いくつかの木箱が列になっていた。


迷うことなく近づき、ひとつひとつを確認する。

全部で五つ。普通の回転式のダイヤル錠だ。


ニナにとって、それは開いているも同然だった。


カチ、カチ。


錠前は《解錠アン・ロック》の魔力に素直に従い、音を立てて外れた。

ニナはそっと息を吸い込み、蓋をほんの少しだけ開いて中を覗く。


五つすべての箱が問題なく開いた。


それだけだった。ニナは中身には指一本触れなかった。

ただ、箱は──もう開いている。


「開けるだけでいいって……どういう意味?」


ニナも、盗みがどういうものかは知っている。

最初にたのまれたときは、当然、何かを持って帰るものだと思った。


なのに、鍵を開けて戻ってこいとは。


「ヘンなお姉ちゃん……」


少し唇を尖らせて考えたが、すぐに思考が途切れた。


――そうだ、お菓子がもらえるんだった。


「じゃあ、ばいば〜い!」


保管室には再び静寂が訪れた。

何も盗まれたものなどないままに。



◇◇◇



社交界に初めて足を踏み入れたとき、私はその舞台がすべてだと信じていた。

ドレスを着て、音楽に合わせて笑い、適当な言葉を選ぶ。

ただそれだけの人形劇。


その型にさえ従えば、未来は自然に保証されるものだと思い込んでいた。

けれど、その未来は、呆れるほどあっさりと崩れ去った。


そして今日。


あのときよりも遥かに狭く、遥かに静かな場所で、もう一つの舞台が幕を開ける。


今回は招待状も、ダンスパーティーもない。

けれど、その重要さは決して劣らない。


失敗は許されない。


そのための準備は、すでに終えている。


背筋を伸ばし、肩を張る。

今、私に必要なのは品格と威厳。

それさえあれば、失われた十年を取り戻すことだってできる。


「いらっしゃいませ」


ロヴニール骨董店の主人、マルセル・ロヴニールが丁寧に頭を下げた。

物腰こそ穏やかだが、その目には獲物を見定める狩人のような光が宿っている。


私の外見と所作を値踏みするのに、彼が使った時間は一秒にも満たなかった。

かつて貴族家の使用人をしていたといったか。

さすがに手慣れている。


「装飾品をいくつか見せていただけますか?」


声は静かに、上品に。

名前も身分も明かさず、あくまで品のある“通りすがりの客”として振る舞う。

押しすぎず、引きすぎず――距離感こそが肝心だ。


「珍しいものは少ないですが……お見せできる物はございます」


男はゆっくりと、まるで演技でもしているかのように動いた。


ショーケースの奥から、いくつかの箱とトレイを取り出す。

私は古びたケース一つ一つ確かめるように手に取った。


「これは、かなり古そうですね。三世紀前のものでしょうか?」


「正確な年代は鑑定してみないとわかりませんが、貴族領から流れてきた品であるのは確かです」


「この紋章、あの伯爵家のものに似ていますね」


私はあくまで興味本位のように呟いた。

男は少しだけ間を置き、わずかに頷いた。

はっきりとは言わないが、少なくとも近い筋から来た品だということだろう。


目の前に並べられた品々は、私の予想通りだった。

それなりに価値のあるものもあるが、中にはおそらく盗品も混ざっている。


だが、本当に危険な品は出てこなかった。


普通の客に見せても問題がなく、裏の市場に流しても大きな騒ぎにはならない――

そういう“安全な範囲”にある物ばかり。


私が探しているのも、まさにその種のものだった。


もし推測が正しければ、目的の品はこのあとに出てくるはず。

内心で高鳴る鼓動を抑えながら、私は静かに待った。


――ここで性急になってはいけない。

目的地が見えていても、それを急ぎすぎれば足をすくわれる。


「最後にこちらを」


男が差し出した箱は、他のものとは明らかに扱いが違っていた。

手に取る動作が一瞬だけ鈍く、視線が箱に二度も留まった。

まるで“本当に出していいのか”と、自分に問いかけているようだった。


「どうかされましたか? 何か問題でも?」


「いえ……大した品ではないので。お客様のお気に召すかどうか……」


箱が、目の前に置かれた。


黒いベルベットに包まれた、古びた木箱。

縁には真鍮の装飾が施され、中央には小さく紋章が刻まれている。


ラッフルズ家の紋章だった。

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