令嬢、潜り込む

クラリスが用意してくれたローブを羽織って、鏡に映してみた。

これなら確かに顔は隠せるけれど。


「生地が良すぎない?」


「ただの綿布でございますが」


「だめよ、だめ。麻織物のようなもっと粗末なものはない?」


「お嬢様」


クラリスが厳しい表情を見せた。


「僭越ながら、まだそこまで落ちぶれてはおりません。それに、仮にそうだとしても、お嬢様にそのようなお召し物をお着せするわけには参りません。このローブですら、かなり妥協したつもりです」


確かに、このローブも相当に質素だ。

私が着るのはもちろん、クラリスが着ても周囲から何を言われるかわからない程度の代物。


これ以上質を落としたくない気持ちも当然だろう。

しかし、こちらも引き下がるわけにはいかない。


「このままじゃ、本当にそこまで落ちぶれるわよ。クラリスも分かっているでしょう?」


クラリスは今、財務まで担当しているはずだ。

あの迅速なリストの作成ぶりを見れば分かる。

悠長なことを言っている場合ではないと、一番理解しているのは彼女自身のはず。


私の言葉が図星だったのか、クラリスは困惑したように目を閉じた。


「……それと、お嬢様がわざわざ貧民街のような格好をなさることと、一体どんな関係が?」


一歩引いた。話を聞く気にはなったらしい。


「霧溜まりに入るつもりなの。こんなものを着ていったら、即座に強盗に目をつけられるわ」


「どこに入られると仰いました?」


そして十歩押してきた。


「絶対にいけません。汚くて危険な場所です。お嬢様が足を踏み入れるべきところではありません!」


クラリスの声に怒気が含まれている。

彼女がここまで大きな声を出すのは初めて聞いた。


「大げさよ。目立つことさえしなければ問題ないわ」


「今ご自身で仰ったことをもう忘れたんですか?」


「それは目立つ格好で行く場合よ。上手に変装すれば大丈夫」


「何が大丈夫ですか!そもそもお嬢様は、そのような場所について何をご存知だというのです?」


当然の疑問だ。箱入り娘だった私が知っているはずのないことだから。

麻織物の存在を知っていること自体、クラリスには驚きだろう。


「少し調べたのよ」


今はこの程度に誤魔化しておくしかない。


『実は私は十年後の未来から戻ってきたのよ。しかもその半分以上を貧民街で暮らしたから詳しいの。今すぐ地図を描けるほどね』


突然こんな話をしても、信じてもらえるわけがない。

そもそも、それを明かしても何も得るものはない。


クラリスは今の私の変化を喜んでくれている。

それをうまく利用すれば、ほとんどのことは納得してもらえるはず。


「今は私を信じてちょうだい。危険なことはしない。約束する」


クラリスは私を試すように目を合わせた。

長くは続かった。すぐにため息が聞こえた。


「……布地は探してみます。ですが、危険を感じたらすぐに逃げてください」


「ありがとう、クラリス!」


「それから、私も同行いたします」


「え? ダメよ、危険だもの」


「どの口でそれを仰いますか!」


「あ、わかったわかった」


正直、一人のほうが身軽だが、言い争いをする時間が惜しい。

ここは譲歩したほうが得だ。


「ただし、私のメイドだとわかるようなことはしないでね。裕福……ではないけど、とにかくそう見えてしまうから」


「承知しました。ローブは二着用意しましょう」


「あ、それと甘いお菓子も用意してくれる?」


「承知しました。どんなものを?」


「適当に目についたものでいいわ」


これはただの餌だから。


少しずつ胸が高鳴ってきた。


◇◇◇


王宮のある中心部から外れるにつれ、風景はグラデーションのように変わっていく。


洗練された新市街。

賑わう旧市街。

南に向かって進むにつれ、建物は徐々に小さく、素朴なものに変わっていく。


それでもここは王都。庶民の区域でさえ、決して貧しくはない。


だが、そんな王都でもすべての場所に光が届くわけではない。


入り組んだ細い路地を進んでいくと、やがて低地への坂が現れる。

湿った空気と薄暗い影が足元に這い寄る。


ここから先は霧溜まり。

公式な名前ではないが、誰もがそう呼ぶ場所。


低地ゆえ頻繁に霧が立ち込め、かつては洪水も珍しくなかった。

人々は自然とこの陰鬱な場所を避けるようになった。


他に行く場所がない人々を除いて。


「今からでもお戻りになりませんか?」


半歩後ろからついてくるクラリスが囁いた。

声には慎重な警告が込められていた。


私だって、好きでこの場所に足を踏み入れたいわけではない。

むしろ、二度と戻りたくない場所だ。


だが、今はここでやるべきことがある。


「今日は長居するつもりはないわ。探したい人が一人いるだけ」


「辞めた使用人のことですか?ここにいるのですか?」


もちろん彼らが盗み出したものは、ここに流れてきているはず。

盗品を捌くなら、霧溜まりの闇市場が一番だ。


「違うわ。彼らだってラッフルズ家の使用人だった人たちよ。この場所に詳しいわけないでしょう」


けれど、このような場所に初心者がいきなり出入りできるはずもない。

おそらく彼らは旧市街の仲介人を通しただろう。


今頃は多少のお金を手に入れて、故郷や別の都市に向かったに違いない。

既に見つけることも難しいだろうし、そもそも見つける理由もない。


「では、いったい誰を探されているのですか?」


「女の子」


「はい?」


「今ならおそらく十歳くらいかしら」


私は霧の向こうを見据えた。


この先は悪臭と秘密に満ちているが、それだけではない。

貴族社会では得られない情報と能力を持つ者たちが、この奥にはいる。

今の私にとって、切実に必要な人々だ。


もちろん、いきなり大物たちに接することなどできない。

財力も名誉も経験もない私に、彼らが簡単に手を貸してくれるはずもないからだ。


けれど私には、『未来の記憶』という武器がある。


どの『種』が最も価値ある成長を遂げるかを、誰よりも先に知っている。


「……お嬢様、仰りたいことがよく分かりません」


よ」


私は包みを取り出し、軽く振った。


包んであるのはクラリスが用意してくれた菓子だ。

薄切りのリンゴを蜂蜜で煮ただけの素朴なお菓子。


なんてお安い対価だろう。


「こういうのを、『お得』って言うんだったかしら?」


私はこれから、彼女の運命を買いに行く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る