令嬢、察する


貯めていたお金が底をつき、わずかな仕事を見つけてはすぐに失うという生活を繰り返すうちに、私は徐々に貧しい暮らしというものを理解するようになった。


本質的に、貴族も貧民も似たような社会構造の中で生きている。

緻密に組まれた人脈という網の目の中で、誰もが生き延びるために必死に立ち回っているのだ。


貴族社会の社交界が華やかな表舞台だとすれば、その下に広がる貧民層の生活もまた、別の意味で入り組んだ人間関係で構成された裏の社交界だった。

役人や軍人、学者の代わりに、盗賊や闇商人、犯罪者たちが主役となっている点だけが違っている。


それでも、生活のための利益をめぐって駆け引きや交渉が行われる点においては、全く同じだった。


その埃っぽく、薄暗い世界――言うなれば裏社交界――は、私にとって未知の領域だったが、そこに参加するしか道はなかった。

この街では真面目に働くだけで生きていくことなど到底不可能だ。

ましてや私のように労働に慣れていない者にはなおさらだった。


幸い、その世界の住人たちにとって私は、十分に利用価値がある存在だった。

名ばかりとはいえ、元貴族――しかもかつてはそれなりの影響力を持った家門の出身という経歴は、彼らにとって非常に稀少なメリットだった。

目を向けてみれば、私を必要としている仕事はいくらでも存在していた。


財力はあるが、出自が卑しい者たちに上流階級の作法を教える仕事。


闇市場に流れ込んだ骨董品や魔道具などの鑑定作業。


上流階級の事情に疎い流れ者たちのための広告塔。


家門の名誉や品格など、とっくの昔にあちこちに売り飛ばしてしまったが、その残り滓を売り歩けば、それなりの報酬が得られたのだ。

最初こそ抵抗感も強かったが、考えてみれば皿や燭台を売るのと大差ないのだと思うと、心も徐々に鈍感になっていった。


今思えば、あれが最悪の油断だった。


発端は、ある書類を届けてほしいという依頼だった。

差出人も受取人も不明だったが、封筒や封印の形状からして、私のよく知る貴族が関わっていることはすぐに分かった。

何度か仕事を紹介してくれたことのあるブローカーからの依頼でもあり、私は何の疑いもなく指示された通りに書類を届けた。


それからちょうど三ヶ月後、私は治安判事の前に立つことになったのだ。


いったい何が起きたのか、私がどう関与していたのか、今でも詳しいことは分かっていない。

分かっているのは、私の無実の訴えはまったく受け入れられなかったということ。

そして、私をここまで追い込んだのが、「探偵」などという胡散臭い肩書きを持った女――ヴァイオレット・ラブデイだったということだけだった。


それが、戻る前の記憶。


「おはよう、アンナ」


そのヴァイオレット・ラブデイが、今、テーブルの向こうから爽やかな笑みを浮かべている。


――整った顔立ちに、冷静さを湛えた瞳。まるで氷の彫像のような美人だ。


それだけなら取っつきにくいと言われたかもしれないが、私が知る限り、ヴァイオレットほど話しかけやすい貴族令嬢はいない。

相手が誰であれ丁寧で親切な態度を示しつつも、馴れ馴れしく近づきはしない。

マナー講師ならば、誰もが自分の生徒たちに『ヴァイオレットのように振る舞いなさい』と教えたくなるだろう。


だからといって教養が足りないわけでもない。むしろ過剰なほど豊富だ。

詳しいことは知らないが、何やら論文めいたものを執筆して世間で大きな話題になったこともある――いや、これからなるのだったか。何しろ私は“時間を巻き戻った”身だから、細かい時系列は曖昧だが……。


とにかく、美貌・社交性・知性。そのどれもが完璧な人物である。

身分の高い貴族や裕福な商人が求婚に殺到しても不思議じゃないし、本人が望めば学者や官僚になる道も開かれていただろう。


それなのに、なぜ妙な肩書きを掲げて、あんな道を選んだのか。


その話を少しでも聞き出しておきたい。今後のためにも、きっと役立つかもしれない。


「ごきげんよう。こんなところまでわざわざ、ありがとう」


「こんなところ、なんて。友達に会いに来ただけだよ」


誰でも言えるような社交辞令のはずなのに、ヴァイオレットが言うと不思議と説得力を持つ。


簡単な挨拶と軽い雑談が交わされたあと、すっと身を乗り出したヴァイオレットは声を落とし、囁くように言った。


「ラッフルズ伯爵は、何らかの陰謀に巻き込まれたのかもしれない」


彼女は慎重な様子だったが、私は特に動じなかった。 ただ静かに、紅茶をひと口。


「恥ずかしい話よ」


詐欺に遭ったのなら、それは確かに陰謀と言えなくもない。

父は自信過剰な人だったから。 損失を埋めようと焦る中で、どこかで騙されるのはあり得る話だ。 リスクの高い事業に手を出し、失敗した。それだけのこと。


「それは違うわ、アンナ」


ヴァイオレットの目が鋭く光った。


「もし騙されたのだとしたら、悪いのは騙した側。騙された側じゃない。 たとえ貴族であっても、それは変わらない。誰だって被害者になりうる。 アンナ、世の中って、犯罪に対してあまりにも無関心だと思わない?」


「判事や執行官の仕事でしょう?」


そう思いかけたが、それこそヴァイオレットが問題視している点なのだろう。


「そうよ。それに、もし貴族が絡む事件が起きたら、大抵は密室で処理されたり、決闘裁判になるでしょう? 名誉を守るためだと言うけど、僕からするとあれこそ野蛮だわ。ぼくはそんな状況を変えたいの」


なるほど。


彼女は“犯罪”や“法”というものに興味を抱いているらしい。


ヴァイオレットが自称する『探偵』なるものは、ただ犯人を見つけるだけではない――

事件の裏に潜む不正や理不尽を暴き、被害者を救おうとする活動だという。


夜警や雇われの追跡者と何が違うのか、私にはいまいち分からない。

けれど、聡明なヴァイオレットがわざわざその道を選んだのだから、

きっと彼女なりの理想があるのだろう。


そしてそれは、ある日突然空から降ってきたような思いつきではなく、

普段から追い求めてきた目標を力強く押し通した結果でもある。

――私のように天から与えられた地位に縛られ、流されるだけだった者とは、

まるで次元が違う話だ。


少しうらやましく思う一方で、正直、悔しさも感じる。

どうして彼女の熱情が、私を追及する形で向かうことになってしまったのか……。

そんなわだかまりを噛みしめていたら、いつの間にか表情がこわばってしまっていた。


でも気付いてはいないのか、ヴァイオレットは熱のこもった口調のまま続けている。

いつもは冷静な彼女が、まるで夢中で語る少女のように生き生きとしていた。

少し可愛らしい。


「だから私は、この件を徹底的に調べたいの。もし伯爵に無実や誤解があるなら、それを証明したいわ」


「本当ならありがたい話だけど……どうしてそこまで?」


そうだ。そもそも、どう考えても、貴族令嬢が興味を持つような話ではない。

ヴァイオレット何でこんなことにこだわるようになったのだろう?


「そんなの、聞くのもないでしょう?」


ヴァイオレットは、普段は見せない仕草で髪の先を弄りながら、小さく顔を赤らめる。

いつもなら決してしないようなお行儀の悪い動作だけれど、そこには微妙に照れた様子がにじんでいる。


「貴方を守りたいからよ、アンナ」


私?


貴方を探偵にしたの、私?

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