令嬢、時を遡り

10シリング。


質屋を出ると、私の手の中にはわずかな銀貨があった。


たったこれだけ。


私は何度もその銀貨を見つめ、それがすべての価値だと改めて実感する。

目の奥が熱くなり、視界がにじんだ。


「情けない……」


そのつぶやきは、夕闇に溶けて消えた。 ペンダントを手放した喪失感が胸の奥で重く響く。

もう行く場所もない。


ふらつく足取りで路地を歩き始めたとき、急に胸元が熱を帯びた。


「なに?」


胸元を見ると、売ったはずのペンダントがそこにあった。


「どうして……?」


驚いて立ち止まると、ペンダントはまばゆい光を放ち始めた。 家紋がまるで脈打つように揺らめき、壊れているはずの時計仕掛けが微かな音を立てて動き出す。



「これは、一体……?」

意識が朦朧として、身体がぐらりと傾く。


時計の針が急激に逆回転し始め、周囲の風景が歪み、光の粒が視界を埋め尽くしていく。


――まさか、母が言っていたことは本当だったの?


目の前が眩い光に包まれ、私は意識を失った。



◇◇◇



柔らかなベッドの感触。

温かな陽射しが瞼の上に降り注ぎ、私はゆっくりと目を開けた。


「……ここは?」


懐かしい天井の模様。見覚えのあるカーテン、馴染んだ調度品の数々。


「嘘……」


私は信じられない思いで身体を起こす。

そして、ふと鏡台に映った自分の姿を見て息を飲んだ。

そこにはまだ何も知らず、何も失っていない――貴族令嬢の私がいた。


「これは、一体……?」


分かるのはそこまで。


感覚的な情報だけが入ってきて、状況をまだ完全に理解できていない。


これは夢なのだろうか?


もし夢なら、どちらが夢なのだろう?


今が夢で、あの悲惨な方が現実?


もしくは、父が家運を賭けて投資した商船団が暴風雨に巻き込まれて全て沈没し、莫大な損失を出し、補填のために手を出した事業も次々と失敗し、遂には違法なことにまで巻き込まれ、ラッフルズ家は風前の灯となったこと全てが――


夢ではない。


その記憶、その後悔、その絶望は、骨身に染みついている。


だとすれば、この状況は悲惨な現実からの逃避か、それとも――。


「……過去に戻った?」


とんでもない考えだが、まず浮かんだのはそれだった。


気を失う前、ペンダントが光り、時計の針が逆回転するのを見た。

その光景から「時間回帰」を連想するのは自然なことだ。


問題は、そんなことが本当に可能なのかということだ。


ペンダントにまつわる物語を思い浮かべようとしても、不確かな伝説に過ぎず、細部は思い出せなかった。


「いえ、何を悩んでいるのかしら?」


どうせ下り坂の人生だ。これが幻想だとしても損することはないし、考えるだけ無駄。


だが、もし本当なら、全てを取り戻すチャンスが来たのだ。


胸元を探り、ペンダントがぶら下がっているのを確認する。

深呼吸して開けると、ちゃんと動いている時計が見えた。


「最悪でも、時計は直ったようですわね」


自分の冗談に思わず笑ってしまった。さっきまでの絶望が嘘のように、前向きな感情が湧き上がった。


母の言葉は本当だった。


ペンダントは最悪の時に私を守ってくれた。


「失礼いたします」


その時、丁寧なノックと共に声が聞こえ、私は反射的に布団を引き寄せた。

長年の経験で身についた哀れな癖だ。 誰かが部屋に入ろうとすれば、家賃の催促か強盗か、ろくなことがなかった。


「お嬢様、どうなさいました? 布団をかぶられて……」


「……クラリス?」


「はい、クラリスですが?」


懐かしい声に、私は恐る恐る布団から顔を出した。


不思議そうに首を傾げているのは間違いなくクラリスだった。

幼い頃から私の世話をしてくれ、給料を払えなくなった時も残ってくれたクラリス。

だが結局、私が追い出したも同然だったクラリスだ。


彼女が今目の前、私を「お嬢様」と呼び、起こしに来た。


「お嬢様、どうしたんですか?」


クラリスが私に近づいてきた。表情が少ない彼女にしては、目に見えて戸惑っている様子だった。


「昨夜、怖い夢でもご覧になりましたか? 大丈夫ですよ、何も怖いことはありません」


彼女がそっと私を抱きしめ、その温かさに私はようやく自分が泣いていることに気づいた。


「クラリス……ごめんなさい……」


「何をおっしゃいます。お嬢様は何も悪くありませんよ」


彼女は優しく私の背中を撫でてくれた。クラリスを強く抱きしめ返し、私はしばらく涙を流した。


だが泣いている場合ではない。

今はまず、確認すべきことがある。


「クラリス、私は今何歳?」


「……十七歳でございますが。どうかなさいました?」


「え?」


うっすらと、そんな気はしていた。認めたくなかったでけだ。

鏡に映った自分自身の姿。それが何歳頃の自分なのかくらい、すぐに分かる。


しかし、本当に戻ったのなら十五歳のはずだ。母がペンダントをくれた、その頃に戻るのが筋ではないのか?


そして、十七歳。


胸に冷たい不安が広がり、私は小さくため息をついた。


十七歳なら、


「……クラリス、使用人はあと何人残っているの?」


クラリスは少し困ったように視線を落としてから答えた。


「私を含めまして、三人でございます」


「壁に掛かっていた絵はどうしたかしら?」


「……一部は売却し、残りは保管しています。もう掛ける余裕もなくなりまして」


そうだろう。もはや財産と呼べるものなどほとんどないはずだ。


「庭は、まだ手入れできている?」


クラリスは申し訳なさそうに首を振った。


「申し訳ありません。庭の管理まで手が回りませんでした」


完全に、手遅れだ。

家計は完全に破綻している頃だ。あと一年も経たないうちに、ラッフルズ家の屋敷は二束三文で手放されるだろう。 私たち家族が路頭に迷うのも時間の問題だ。


せっかく奇跡が起きたというのに、どうしてよりによってこの時期なのだろう。

これでは、時間を遡ったところで意味がない……。


「やはり、具合が悪いご様子ですね、お嬢様。今日は安静になさったほうが……」


「いいえ」


「ですが、お嬢様……」


「いいえ!」


強く遮った私の声に、クラリスが目を見開く。


諦めるのはまだ早い。 状況は最悪かもしれないが、絶望するほどではない。

失った全てを取り戻すことは難しくても、少なくとも今できることはまだ残っている。

私は拳をぎゅっと握りしめた。


強い口調にクラリスが驚いた顔をする。


そうだ。まだ諦めるのは早い。 このままなら地獄が待っているだけ。 今までのやり方では何も解決できないのなら、別の方法を考えるしかない。


そう、他人が私の家宝を簡単に手に入れて売りさばいているなら――逆もまた可能ではないか。


質屋で聞いた話を思い出す。所有権を主張する余裕のない貴族は、泥棒にとって都合の良い標的なのだ。


……だったら、奪われる前に、こっちから奪う。


「私のものを――取り戻しに行きますわ!」


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