怪盗令嬢は時を遡り、奪われたすべてを取り戻す

月谷アラン

没落令嬢は忘れない

令嬢、現実を見る

「アンナ、このペンダントを常に身に着けておきなさい。これはラッフルズ家の誇りであり――」


――いつも、あなたを守ってくれる。


15歳の誕生日に、家紋の刻まれたペンダントを渡しながら、母はそう言った。


このペンダントはラッフルズ家に代々伝わる家宝で、内部には精巧な時計仕掛けが施されている。

いくつかの伝説めいた話があると聞いたが、実際にその力を見た者などいない。


そんなお守りのような効能を本気で信じたことはなかったけれど、今はそれに縋るしかない。


どうか私を守ってちょうだい。

頼むから、いいになって、ペンダントよ。


追われるように屋敷を出るときに辛うじて持ち出したお金や貴重品は、

とうの昔に底をついてしまった。


最後まで守り抜きたかったこのペンダントさえも、手放すしかない状況だ。

明日の食事代にも事欠くのに、貴族のプライドなんて贅沢な話。


「頭ではわかっているけれど……」


ため息をつき、顔を上げて看板を見つめる。



『質屋』。



ここに至るまで、何度も選択肢はあった。


そのうち一度でもまともな選択をしていれば、

今こんな窮地に立たされることはなかったはずだ。


最初の頃は、すぐに元の生活に戻れると楽観していた。

貴族の面目を保つため、高級なティールームに通い、今まで通りに振る舞った。


気がついた時には手遅れだった。

私が現実から目を背ける間に、わずかな資産さえもすり減り、とうとう底をついた。


周囲の人々も私に呆れ、次々と離れていった。


ようやく深刻な状況を悟り、働こうとしても、私は名ばかりの貴族令嬢。

皿洗いひとつ満足にできない私を雇う場所などあるはずもなく、

街を彷徨い、危険な目に遭ったことも数知れない。


結局、ブローチやイヤリングをひとつずつ売りながらなんとか生き延びてきたが、

今や私の手元に残されたのは、このペンダント一つだけ。


現実的に、私が取るべき行動は「ペンダントを売る」ことしかない。


売ったとしても、元の価値の一割でも手に入れば上出来だが、

質屋でならそんな期待すら甘いことになるはず。


売る以外の選択肢はないことを知りつつも、未練という愚かな感情を、捨てきれなかった。


何か奇跡的なことが起こり、以前の生活を取り戻すことができれば。


流石にそこまで望むのは欲張りでも、せめて生活に余裕ができたら。


その時は堂々とこの扉を開けて、気品ある微笑みで、


「私のものを取りに参りましたわ」


そう言える日が来るかもしれない。

そんな夢みたいな希望を捨てられるわけがない。






「シリング銀貨十枚、といったところですな」


その希望はたった一瞬で打ち砕かれた。


数年の貧乏暮らしで現実感覚は身についたつもりだった。

ここはギャンブラーや酒飲みが日銭を借りる程度の小さな質屋。

そもそも大金なんて期待していなかった。


しかし、10シリングとは?


もちろん、今の私には決して軽視できる額ではない。 節約すれば2ヶ月は生活できる。


でも、だからこそ認められない。


「何かの間違いではありませんか?」


感情を抑えようとしても、声が微かに震えた。 店主の目が軽く細まる。


「では、どの程度をお考えでしたか?」


丁寧な口調の裏に、優位を確信したような響きが感じられた。


負けを自覚しても、引き下がれない。

ここまで来ても、私はまだプライドという厄介なものを捨てられない。


「せめてその十倍、フローリン金貨一枚はいただきませんと」


店主は静かに微笑んだ。


「そうでしょうな。いや、ご謙遜なさいますね。むしろ3フローリンでも安いくらいですな」


え?


一瞬、胸が高鳴った。 しかし、それが甘すぎる言葉だというのはすぐに気づいた。


店主が実際に提示したのはたった10シリング。

その真意はただ一つ。


「ですが、この品は壊れていますね」


店主は手馴れた動作でペンダントの蓋を開いた。


内部の繊細な時計仕掛けは小さな歯車がずれ、中心軸も歪んでいた。

秒針は力なく震えるだけで動きを止めている。

いつからこうなったのかさえ分からない。


「外見は美しいのですが、時計というのは繊細です。これでは修理費の方が高くつきます」


店主の視線に哀れみが混じる。


「ですが外観はまだ使えますでしょう? 装飾品としてなら……」


「最初から時計がなければ別ですが、これは不良品です。壊れた時計を身に着けたい方などいませんよ」


反論の言葉も失った。


「しかもここ数年、この紋章が刻まれた品が随分出回っております。没落貴族が手放した品々でしょう。もう希少性もありません」



「……ですが、この品にはそれでも価値がありますわ。これは――」


「貴族のものだから、でしょう?」


店主は私の言葉を軽く遮り、皮肉げな口調で続けた。


「いくら『貴族の物』とはいえ、全部が同じ価値を持つわけじゃありませんよ。落ちぶれた貴族が使っていた装飾品や食器なんて、時間が経つほどに価値は下がる一方。どうせ誰かの手を渡り歩き、最後には私のところにまで流れてきますからね。要するに、希少価値が急落するわけです」


言われなくても、その程度の理屈は理解できる。


没落した貴族の物は、盗賊にとって格好の標的だと聞いたことがある。

そもそも、所有権を主張する者がいなくなったか、それを守る余裕すら失った状況なのだ。


たとえ誰かの手に渡ったとしても、気にかける人すらいない。つまり、こんなに手っ取り早い盗品もないということ。


そんなことは、私だって百も承知だった。


でも、まだ納得できない。


この人はいったい何を言いたいのだろう。


あれは、私の家――ラッフルズ家の家宝のはずなのに。


確かに、そこにはラッフルズ家の紋章が刻まれているはずなのに。


「特にここ数年、この紋章が入った品がずいぶん出回ってますからね。お客さんも、わかるでしょう?」


あ。


「 実際、こうしてお客さんにまで流れてしまったから ……よくお考えになれば分かることでしょう?」


そうか。


「それでも、お客さんがお気の毒ですのでね。気前よく20シリングくらいでしたら――お客さん? 聞いておられますか?」


私はもう貴族でも何でもない。

誇りも名誉も、世間には何の価値もない。


私がこれまで大切にし、敬い、守ろうとしてきたもの全ての価値は、たったの――。



10シリング。



私は、人生の果てにようやく現実を見たのだった。

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