第9話
喉が凍りついたように動かない。
叫ぼうにも声が出ず、ただ沈黙が重くのしかかるだけだった。
「──!」
俺は必死にカタリに呼びかけるが、その能力は完全に沈黙している。いつもは鬱陶しいほど喋り倒すくせに、こんな時に限って何の反応もない。
──完全な沈黙。
その中心に立つ少女は、冷たく無表情な瞳を俺に向け続けていた。
沈黙院ねねとは似ているが、その瞳に宿るのは無感情というよりも、明確な拒絶の意思だった。
「ねね、お前なのか……?」
辛うじて唇を動かし、音にならない声で問いかける。
しかし少女──黙示院空白はただ無言で、何の反応も示さなかった。
その沈黙が、言葉以上に俺を圧倒する。
次の瞬間、彼女がゆっくりと右手を掲げた。
その指先が動くと、部屋の空気から音が完全に消失する。壁掛け時計の秒針が止まり、耳鳴りすらしない、完全な静寂に包まれた。
──これが、『沈黙支配(サイレント・ドミニオン)』。
あらゆる音と言葉を否定する絶対の沈黙領域。
頭がぼんやりと霞んでいく。
まるで俺の存在そのものが、徐々に薄れていくような感覚だった。
(このままじゃ、まずい……!)
俺は焦ったが、身体は金縛りのように動かない。
空白の瞳に映るのは、完全な拒絶。
彼女が本気で俺を──いや、『言葉』そのものを消し去ろうとしていることが伝わってきた。
その時だった。
部屋のドアが荒々しく開き、詞音が駆け込んできた。
「一騎くん!」
彼女は驚愕の表情で空白を見つめ、唇を震わせた。
「ねねさん……! やっぱり、あなたが黙示院空白だったのですね」
だが、空白は何も答えない。ただ視線を詞音に向け、その口元に小さく冷たい笑みを浮かべたように見えた。
『邪魔をするな』
言葉ではなく、視線だけで空白がそう告げる。
詞音もまた、言葉を奪われたように喉元を押さえ、その場に膝をついた。
空白がさらにこちらへと一歩踏み出す。部屋の床板が軋む音すら消され、静寂だけが濃厚に広がっていく。
(このままじゃ、本当に消される──!)
そう思った瞬間、俺は空白の表情の奥にかすかな揺らぎを見た。
そこには間違いなく『ねね』がいた。
無表情の仮面の奥で、必死に何かを訴えている。
(お願い、一騎──沈黙に飲まれないで……)
言葉ではなく、表情だけで伝わるねねの叫びに、俺の胸が熱くなった。
(ねね、お前、まだそこにいるのか……?)
俺は歯を食いしばり、自らの手を握り締める。
言葉が出ないなら、それ以外の方法で抵抗するしかない。
俺は力を込めて、指先で強く掌を傷つけた。激しい痛みが意識を鮮明にする。
──俺は絶対に沈黙なんかに負けない。
その強い意志に呼応するように、俺の内側でカタリがかすかに震えた。
『……やっと起きたか』
(カタリ!)
『一騎くん、君は相変わらず面倒くさい奴だよ。だけどね──君のそういうところ、僕は嫌いじゃない』
次の瞬間、俺の口から言葉がほとばしった。
「黙ってたまるか!」
沈黙が一瞬で破られ、俺の叫びが部屋中に響き渡る。
空白は驚いたように瞳を見開き、一歩後ずさった。
「なぜ、言葉を──」
その時の彼女の声は、初めて俺の耳に直接届いた。その響きはねねと同じで、けれども絶望的に冷たかった。
「言ったはずだろ、俺は絶対に黙らない。言葉を否定するお前に、俺は絶対に負けない!」
空白の顔に動揺が走る。だが次の瞬間、彼女は激しい拒絶を瞳に宿した。
「言葉は、傷つける。沈黙こそが世界を救う唯一の道──」
「違う! 本当にそう思ってるなら、なんでお前は今、俺と言葉を交わしてるんだ!」
俺の言葉に、空白の瞳が大きく揺れた。その隙間に、再びねねの表情が垣間見えた。
『あなたって、ほんとバカですね。でも──』
俺はその筆談の続きを心の中で読み取る。
(でも、それがあなたの魅力なんでしょうね──褒めてませんけど)
瞬間、空白の人格が揺らぎ、その表情が少しずつ『ねね』のものに戻っていく。
ドレスの黒が薄れ、灰色の瞳が再び元の色を取り戻す。
ねねが無表情ながらも、安心したような複雑な顔で俺を見つめた。
『あなた、やっぱり最低ですね』
彼女の筆談はいつもの毒舌に戻っている。
俺は苦笑しながら、それに応えた。
「ああ、俺もそう思うよ」
そのやり取りを見て、詞音が疲れたようにため息をついた。
「二人とも、本当に面倒な人たちですね……」
部屋にはいつものざわめきが戻り、静寂は跡形もなく消えていた。
俺はねねの顔をもう一度見る。
彼女は少し困ったように視線を逸らしたが、俺にはその仕草すら可愛らしく思えた。
そして俺は思った。
言葉は時に残酷で、時に傷つけ合うものだけれど──それでも、言葉がなければ、こんな風に誰かと繋がることもできない。
その事実を、俺たちは今、この瞬間に理解しつつあったのかもしれない。
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俺のチートが「喋りすぎる」件について 千歳ミチル @hutuunohitoninaritai
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