第17話

「若菜さんは妖に詳しいのですね」

「もちろんよ。母から聞いているもの。珀弧様が妻を探していることもね」


 ふふ、と笑うその顔は優越感に満ちていた。

 胸がぎゅっと締め付けられるよう苦しくなり、知らず胸に手を当て息を吐く。


(こんなことで動揺してはダメだわ。そうだ、妖に詳しいのなら人魚について教えてくれるかも)


 人魚の話をすると、珀弧が言葉に詰まることに凍華は気がついていた。凛子も同様に急に歯切れが悪くなる。何かを隠されているような違和感を持ちつつも、気のせいかと今までやり過ごしてきたのだ。


「それなら、人魚についてもご存知ですか」

「人魚? もちろん。私の中にも水の妖の血が流れているから、それらを纏めていた人魚の種族については母から聞いているわ」

「纏めている? 水の妖を纏めていたのは竜ではないのですか?」


 凍華の問いに、若菜は口元を袖で隠し、くすくすと笑う。


「本当に何も知らないのね。人魚は生涯に一度、つがいとの間に男女の双子を授かるの。女児は人魚、男児は竜となり、ゆくゆくはその二人がまた子をなす。妖の中でも特殊な生態系を持つのよ」

 

 番の話は聞いたことがある。そうだとすると、人魚である母親は種族の禁をおかしてまで凍華の父親を選んだということだ。


(小さい時、お父さんが話してくれた人魚と人間の恋物語は、自分のことだったのね)


 内容は今となっては思い出せないけれど、悲しくも美しい、激しい恋だったことは覚えている。


「他の種族と子供を成した人魚の話を聞いたことはないですか?」

「そんな人魚いるはずがないわ。だって、人魚にとって異種族の男は食事でしかないのだから」

「……食事?」


 どういう意味かと眉を顰める凍華。その背に冷たい汗がツツッと流れた。

 何かが自身の中で引っかかる。

 それは、あの飢餓にも似た喉の渇きと関係がある気がして、知らず、ごくりと喉がなった。


「そうよ。人魚は十六歳になると、その美しい声で男を惑わし食らうの。その力が一番強くなるのが満月だから、男が満月の夜に出歩くときは『惑わし避けの花』を持つそうよ。あら、あなた、もしかしてその花を持っているの? あなたから惑わし避けの花の匂いがするわ」


 指摘され、凍華は胸に手を当て後ずさった。

 珀弧に言われた通り、『惑わし避けの花』で作った匂い袋は今も懐に入っている。


(私が男を食らわないように、人魚としての力を封じるために珀弧様はこれを肌身離さず持つように言ったの?)


 頭が混乱する。


「満月の夜に一番力が強くなる……」


 廓に売られたあの夜に感じた激しい飢えが、人魚の血によるものだとしたら。


(――私はいつか、人を、妖を食らうかも知れない)


 廓の客の喉を掴み持ち上げた感覚が蘇る。

 全身が震え、足に力が入らない。

 

(私が食らう相手は、もしかしたら珀弧様かも知れない……)


 今にも座り込み泣き出したいが、そんなことをしたら珀弧に迷惑が掛かる。


「少し外の風に当たってきます」


 震える声を絞り出し、凍華はそれだけ言い残すと店を飛び出した。

 どこへ向かえば良いかなんて分からない。

 ただ、逃げたかった。人間からも、妖からも、珀弧からも、そして何より自分自身から。

 

(私は人を食べる。妖を食べる。珀弧様や凛子さんが人魚について言い淀む原因はそれだったんだ)


 混乱する頭に加え、初めてきた帝都だ。どこをどう走ったのか分からないが、気がついたときには、凍華は古びた神社の境内にいた。

 周りを森に囲まれたそこには人の気配がなく、木々が長い影を地面に落としている。

 凍華は息を切らしながらふらふらと、賽銭箱前の石階段にへたりと座りこんだ。


「これからどうしよう」


 楠の家には帰れない。

 廓には戻りたくない。

 もちろん、珀弧にこれ以上の迷惑をかけられない。


(人間と妖の血を引く私は、人間の里、妖の里どちらでも生きていくことができない。まして、人を食らう私は……生きる価値すらない)


 それならいっそう、死んでしまおうかと思う。

 今夜は満月。あの喉の渇きに耐えられず誰かを食べる前に、せめて過ちを犯す前に自分自身を……。


「どうして、私なんかが生まれたのかな」


 涙が頬を滑り落ち、着物にシミを作る。


「お母さんとお父さんはどこで知り合ったの。どうしてお母さんはお父さんを食べなかったの。どうして私なんかを生んだの?」


 次々と湧いてくる疑問を口にしても、答えは返ってこない。

 ぽたぽたと零れる涙が眼鏡を濡らすので、凍華は眼鏡をはずし手拭いで丁寧に包んで袂に入れた。

 

 そのとき、ざっざっと砂利を踏む足音が聞こえ、俯く凍華の視線の先に可愛らしい草履が現れた。

 見覚えのあるその柄に、えっ、と顔を上げれば、やはり雨香が目の前に立っているではないか。


「雨香? どうして……」

「凍華!! こんなところにいたのね。あんたが廓から逃げ出したせいで私達がどれだけ迷惑をしているか分かっているの? お父様は新規事業を諦め、今日、女学校へお金を払いに行ったのよ」


 雨香は凍華の腕をひっぱり強引に立たせると、その頬を思いっきり引っ叩いた。


「十年も私達家族に迷惑をかけておきながら。よくこんな仕打ちが出来たわね」


 罵られ殴られ、このひと月で凍華の心に芽生えた暖かいものが急速に冷えていく。

 背は丸まり、俯き、目を伏して地面をだけを見る。


 幸せを感じた日々が幻で、男を食らう自分にはこの扱いこそふさわしいのではないかと思えてくる。

 それは長い年月をかけて凍華に染み込んだシミのようなもので、反抗する気力が失せ、心が閉ざされ、考えることをやめただひたすら命令に従う。


「今日はお父様と一緒に女学校へ入学の手続きをしにきたの。帰り道、お父様が少し御用があるというので、待っている間に覗いた呉服店であんたを見かけ、後を追ってきたわ。あの呉服店で一緒だった男性はいったい誰? 後ろ姿しか見えなかったけれど、きっと廓で出会ったのね。そうか、あいつの手引きで廓を抜け出したんでしょう」

「ち、違います」

「じゃ、どうしてあんたが、あんな立派な洋装に身を包んだ男と一緒に、廓の外を出歩いているの! とにかく、帰るわよ。詳しい話はそれから聞くわ」

「帰るって……」

「楠の家に決まっているでしょう。お父様からきつい折檻を受けたうえで、遊郭に戻ればいいんだわ」


 凍華の足がぶるぶると震え出す。

 京吉は、酷いときには凍華を縄で縛り上げ、気を失うまで木刀で殴りつけてきた。

 そのときの恐怖と痛みを思い出し、足が竦んでしまう。

 すると、また雨香の平手が頬に飛んできた。

 

「何をじっとしているの。さっさと歩きなさい。まったく、愚図で馬鹿で本当使い者にならないのだから」


 罵倒する雨香の手がまた振り上げられた。

 凍華は身を竦め両手で頭を覆う。

 しかし、いつまで待っても痛みはやってこない。

 恐る恐る顔を上げると、そこには雨香の腕を掴んだ珀弧が立っていた。

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