【急】



「いってらっしゃーい」


 元気な子どもたちの声が聞こえ、瑠璃るりはふと我に返った。

 声がした方を見ると息子の長太郎ながたろう正次郎せいじろうが熱心に夫の作業を見ていた。夫の与三郎よさぶろうは猟で使うための罠を作っており、ときどき手元を息子たちに見せながら作り方の手順を教えていた。

 瑠璃はとても懐かしい気持ちを覚えた。いつもの日常を過ごしているだけのはずなのになぜだろう。不思議に思いながら夫と息子たちを眺めていると、だれかが手を握った。とても小さな手だった。


かかさん、どうしたの?」


 女の子の声。〝ちとせ〟という音が一瞬浮かんだが、瑠璃が気づくまえに消え失せた。

 下を見れば末っ子の千代ちよが瑠璃の手を掴み、りすの仮面越しにつぶらな瞳で見上げていた。同時に瑠璃は膨らんだ自らの腹を目にして、もうすぐ産まれてくる命のことを

 千代もお姉ちゃんになるはずだったのに……――――のに?

 脳裏に浮かんで妙な考えを瑠璃は頭を振って消し去った。どうしてだろうか、家族の元気な姿や千代の手の温もりが懐かしすぎて嘘のように思えた。


「だいじょうぶ?」


 千代が小首を傾げて瑠璃の顔を覗いていた。丸い大きな瞳が仮面のなかで不安そうに潤んでいた。


「大丈夫よ、千代。行こっか」


 千代に優しく微笑んで、その小さな手を引いて家をでた。

 与三郎が猟師をしており獲物を解体することもあったため、瑠璃たちの家は村の外れに一軒ぽつんと建っていた。買い物などをするには村まで出向く必要があり、その日もいつもと同じように千代を連れて村へ買い物に向かった。ときには談笑を挟みながら買い物を済ませると、帰路についたころには夕暮れが近づいていた。

 家まであと少しというところで瑠璃は違和感を覚えた。空が暮れ始めてはいたが、家のある方角の空だけがなぜかより赤く染まっていた。そのとき辺りを漂う焦げ臭さに気づき、違和感は確信に変わった。

 瑠璃は荷物を投げだして千代の手を引きながら駆けた。重い身体からだで息を荒げながらようやく家のまえに辿りつくと、燃えあがる家屋をの当たりにした。


「与三郎さん! 長太郎! 正次郎!」


 皆の名前を叫びながら家に近づけば、瑠璃は地面に横たわる複数の人の姿を見つけた。後方から炎に照らされ、全身に暗く影が差している。駆け寄ってみれば手前で長太郎がうつ伏せており、後ろに正次郎と与三郎も倒れ伏していた。息があるか確かめるために長太郎の身体をひっくり返すと、瑠璃は驚愕のあまり飛び退いて転倒した。

 仮面がないどころか、。ただの黒い穴に闇ばかりが満ちていた。

 瑠璃は恐るおそる正次郎と与三郎の顔も確認するが、同じく顔がなかった。いったい何が起こっているのかまったく見当がつかず動揺するばかりだった。


「みんな、どうしてねてるの?」千代が瑠璃のとなりに立って聞いた。「かお、まっくろだよ」

「そう、ね……」


 瑠璃にはそれだけしか答えることができなかった。

 パチパチと爆ぜる音が続いていたが、ついに屋根がくずれ落ちた。開け放たれた戸口から火花が吹き出ると、それを浴びる人影がいつのまにか立っていた。

 黄昏の薄暗さのなか、燃え落ちる家を背にして全身が陰に塗りつぶされていた。小柄な背格好で長い袖が風に揺られていることから女性のようだが、何者なのかは判然としない。しかし家族以外でこの場にいるのだから無関係であるはずがないと瑠璃は考えた。


「あなたが……やったの……?」


 詰問するつもりが声は震えてしまっていた。

 相手は何も答えず、代わりにしずしずと歩いて近づいてくる。誰なのか見定めるべく瑠璃は睨みつけていたが、ふと奇妙なことに気がついた。家から離れて近づいてきているはずなのに、女の背後に火が張りついていた。いやよく見れば背中そのものが燃えていたのだった。そのことに気づいたとき、女の背中から火が噴きあがった。

 女が一気に距離を詰めてくるさまを目にして、瑠璃は千代を守らなければと身を挺して庇った。視界の端では迫る女の手を捉えたが、その速さになんら反応できず掴まれることを覚悟したとき、突然女の身体は横に吹き飛んだ。


「無事か」


 不意に男の声が届き、目の前に黒装束の男が現れた。男は吹き飛ばした先から視線を外さずいてくる。


「歩けるか」

「は、はい」

「ならすぐこの場から離れろ」


 男はそう告げると駆けてゆく。瑠璃は千代の手を取り、少しでも早く離れようと来た道を走って戻るが、急に下腹部に痛みを覚えた。陣痛かと思ってしまうほどの痛みに足が動かなくなりその場にうずくまる。臨月はまだ少し先のはずだったが、家族の死という衝撃が悪影響を及ぼしたようだった。

 千代が心配して「母さん母さん」と泣き叫ぶなか、瑠璃はこんなときに産むわけにはいかないと、お腹の子に出て来ないでと懇願することしかできなかった。どこからか激しい戦闘音が聞こえてきたが、その場から動くどころか立ちあがることすらできない有様だった。


 そのとき、黒装束の男が吹き飛ばされ地面を転がった。すぐさま身を起こして持っていた刀を構えたが、そこで瑠璃たちがまだ逃げ去っていなかったことに気がついた。それは同時に、相手にも知られるところとなった。

 背中から火を噴く女が与三郎たちの死体に近づき軽々と持ち上げると、三人の死体を次々に黒装束の男に向かって投げつけた。単なる投擲であれば避ければ済む話だったが、男に人の情があったばかりにそうはできなかった。

 男はわざわざ死体を受けとめて地面に寝かせた。が、そのわずかな時間の浪費が瑠璃たちへの接近を許した。

 女が瑠璃たちの正面に立ち塞がった。背中からは火炎がほとばしり、その火先ほさきねじれ千切れると燃ゆるかんざしに変じ、火矢のごとき速さでくうを切って男に襲いかかった。近づけないための時間稼ぎらしかった。

 千代もお腹の子も守らないと……。しかし瑠璃の決意に反し、両手を広げた小さな壁が目の前に立った。


「母さん、にげて!」


 突然のことに瑠璃は動揺を隠せず、怒声にも似た声を絞りだして応じた。


「何してるの! 千代こそ逃げなさい!」


 瑠璃は千代の服を掴もうと手を伸ばすが、下半身に力が入らず届かない。地面に血がにじむほど爪を立てて這いずれど指先は空を切るばかりで、逃げてと必死に叫ぶ声も虚しく響き渡るだけだった。


「わたしね」千代が震える声で言う。小さな肩が小刻みに揺れていた。「おねえちゃんに、なるんだから」


 小さな娘の、叶うはずだった夢――。それが千代の最期の言葉だった。

 瑠璃の眼前で千代の身体は女に掴まれ、りすの仮面が弾き飛ばされたかと思うと、次の瞬間には顔が剥ぎ取られていた。女の長い袖が舐めるように千代の顔を奪えば、女のあごの辺りで消え去った。ぽっかりと暗い穴がいた千代の身体は塵芥ちりあくたのごとく放り捨てられ、次は瑠璃の番だった。

 燃えあがる火炎に明々あかあかと照らされ、陰に隠れていた女の〝顔〟が露わとなった。その顔を目にして瑠璃は吐き気が込みあげてきた。赤々あかあかと照らしだされた顔には見覚えのあるものばかりが浮き沈みしていた。それらは与三郎の目であり長太郎の鼻であり正次郎の口だった。まるで三人の顔を刻んで鮮血で煮込んだ寄せ鍋を覗かされているようだ。絶望の叫声を喉が焼けるほど瑠璃はあげ続けた。

 瑠璃の反応をあざけり笑うように女の顎下がっかが開かれた。鉄漿おはぐろを見せて笑っているかに見えたが、実際は口内に暗い闇ばかりが充ち満ちていた。その闇のなかに千代も眠っていると考えると、擦り切れた瑠璃の心にはにも思えた。


「いま行くからね、千代」


 瑠璃は涙をはらはらと落としながらつぶやいた。

 だがそこに男が駆けつけた。男は燃えあがる女の背の炎を物ともせずに、刀を上段から真下に振りおろして女を両断した。縦に割られた女の身体からは炎が掻き消えたが、なかから黒いもやが溢れでて、分かたれた身体を繋ぎとめていた。

 男は何かを取りだし、火打ちのような音を打ち鳴らすと、一瞬にして辺りはまばゆい閃光に包まれた。しばらくして光が収まると、女の身体にあった黒い靄は霧散し消え去っており、一刀両断された肉体がばたりばたりとその場に倒れた。

 静けさが取り戻され、燃え尽きた家屋からパチパチと爆ぜる音が漏れ聞こえていた。瑠璃はその場にくずおれたまま身じろぎひとつ取らなかった。


 すべてを喪い、絶望に打ちひしがれた瑠璃の心こそ、暗い闇に呑み込まれた心地だった。ただ独り自分だけが生き残った。その事実が震えあがるほど恐ろしく、身を引き裂きたいほどおぞましかった。瑠璃は爪が食い込むほど自らの肩を抱きしめ、怨嗟えんさあえぎをえずいた。殺してほしかった。あのまま千代と一緒になりたかった。この苦痛から絶望から解放されたかった。生きていることにもう意味なんて――

 そのとき、と腹のうちを蹴られた。悲痛のあまり最初は何が起こったか分からなかった瑠璃だったが、ふたたび蹴られるのを感じて遺された家族のことを思い出した。

 すべてを喪ったわけじゃない。ただ独りになったわけじゃない。あなたがいる。あなたは必ず守るから――。

 瑠璃は自らの腹を優しく撫でて抱きしめ、泣きながら穏やかな笑みを浮かべた。そしてようやく訪れた安堵感に揺られて意識を手放した。




   ◇◇◇◇




 とても長い夢を見ていた気がした。懐かしくもあり恐ろしくもあった夢。けれど目を覚ましたときに夢はもろくも崩れ去り、いったい何の夢を見ていたのか思い出せなくなっていた。

 瑠璃は布団に寝かされていた。柔らかな感触から安物でないことは明らかだった。周囲を見回せばそこは見知らぬ場所で、板張りの部屋には瑠璃ひとりきりだった。

 戸が静かに横に引かれ、ひとりの男が現れた。黒色の狩衣かりぎぬ狩袴かりばかまを着ており、顔には見たことのある灰白色の仮面をつけていた。そこでようやく、あのとき感じた既視感の正体に気がついた。かつて瑠璃を救ってくれた男が着ていた黒装束もこれと同じものだったのだ。

 瑠璃は身を起こしながらたずねた。


「ここは、どこですか」

「目を覚まされたんですね」


 男の声には聞き覚えがあった。どうやら村で会った男のようだった。

 男は瑠璃の傍らに腰をおろすと正座した。村で会ったときには感じなかったが、長身なのかとても大きい印象を受けた。


「ここは『羽振部ほうりべ』という組織の拠点です。私はシデ方の一人を務めております、比義ひよしと申します」

「私は……瑠璃、です」


 瑠璃はなんとなく名乗り返したが、聞き慣れない言葉に加えてどうしてここにいるのかが分からないために混乱していた。霧がかった山中を彷徨さまようように記憶を探ることでどうにか、怪物に襲われ千歳ちとせを守ろうとしたことを思い出した。


「千歳は……娘は無事ですか」


 瑠璃の質問に比義と名乗った男は何も答えず、立ちあがって部屋の隅に向かった。そこには布が掛けられたものがあったが、比義がその布を取り払うとよく磨きあげられた立派な銅鏡があらわになった。人の頭より少し大きく、顔を映すには丁度良さそうだった。比義はその銅鏡を両手で抱えると、瑠璃の傍らに戻った。


「落ち着いて聞いていただきたいのですが」


 比義は深刻そうな声色こわいろで話すため、瑠璃は嫌な考えが浮かんでしまった。


「千歳は……死んだのですか……?」


 知らず瑠璃の声は震えていた。脳裏をあのときの光景がよぎっていた。与三郎、長太郎、正次郎、そして千代。顔を取られた死体のなかに、新たに千歳が横たわる様が思い浮かび、一気に血が冷めていく心地がした。


「……」比義は妙な沈黙の間をつくったが返答した。「……いいえ。ですが見ていただいた方が早いかもしれません」


 そう言って比義は銅鏡の鏡面を瑠璃の顔に向けた。瑠璃はそこに映った自身の顔を見るが、仮面をつけていない自分の顔が映っているだけだった。何を見れば良いのか困惑していたとき、おかしなことに気がついた。

 髪が違っていた。それは瑠璃がくしいてあげていただった。視線を下に向ければ、小柄で華奢な身体が――が映しだされていた。


「なにこれ……いったい、どうして……?」


 千歳の身体にがついていた。艶のある髪の毛も愛らしい耳も千歳のものだが、顔だけが瑠璃になっていた。まるで瑠璃という仮面がくっついているかのようだった。


「詳しい話はあちらで致します。お身体に支障がなければ付いて来てください」


 そう言って比義は部屋の外を指し示した。





 瑠璃は不思議な心地で板張りの外廊下を歩いていた。視線の高さは以前の半分ほどしかなく、歩幅の小ささから歩けど歩けど思ったほど前に進めなかった。視線を落とせば小さな手が他人のもののように視界で揺れ、床を踏む足は聞き慣れない軽い音を返した。

 現実から目を背けるように視線を外に向ければ、どれくらい寝たのか分からなかったがとっぷりと日が暮れていた。星も月もない闇夜あんやの暗幕に覆われ、中庭に置かれた無数の篝火かがりびだけが辺りを照らしていた。べられたたきぎがパチパチと爆ぜた。沈鬱な気分にさせられる音だった。


「こちらへどうぞ」


 比義が戸を引いて入るように促した。そこは拝殿のように広い板張りの空間で、磨きあげられた床は灯火を飴色に反射していた。


「『治道ちどう』様、『酔胡王すいこおう』様、お連れしました」

「あんたが人面じんめんをつけた娘っ子かい」


 老いた女の声が瑠璃にかけられた。見れば部屋にはふたつの人影が立っており、そのうちのひとり――天狗のように高い鼻が特徴的な『治道』の仮面をつけた方が話しかけてきたようだった。


「ひひひ、いったいどっちがめたんだぁ?」


 もうひとりが愉快そうに老いた男の声で話した。酒に酔ったような赤ら顔で冠を被った『酔胡王』の仮面をつけており、杖を突いていたが当人も酔っ払っているかのように左右にゆらゆらと揺れていた。


「人面になった母親の方でございます」


 比義がかしこまった様子で答えた。


「そりゃまた難儀な話だねえ」

「ひっひひ、長く生きてぇととんでもねぇことが起こるもんだ」


 治道が瑠璃に近づいた。身体の軸が揺れず肩の高さも変わらない、滑るような足さばきだった。


「ちと見せてみな」


 治道はその場に屈みこんで瑠璃と目線を揃えた。瑠璃の顔の輪郭を治道の骨張った指がなぞった。境目となるわずかな段差でもあるかと指先がはださすったが、僅かにすら引っかかるものはなかった。


「こいつはあたしらじゃあどうしようもないね。顔剥ぎにでも剥がさせてみるかい」

「ひひ。そいつぁ笑えねぇ冗談だな。顔剥ぎにやらせりゃが混じり合っちめぇだろ」


 乾いた一笑を付して酔胡王が反論した。酔胡王は杖を突きながら瑠璃に近寄ると顔を覗きこみ、穴が開きそうなほどじっと見つめた。が、不意に肩をすくめて「ひひひ」と弱弱しい笑い声を漏らし、首を左右に振った。

 瑠璃はさきほどから使われている知らない言葉について訊ねた。


「『顔剥ぎ』というのは私を襲った怪物のことですか」

「ああ。人の顔剥いで『人面』にして食っちまう、ろくでもねぇ奴らよ」


 酔胡王は厭悪えんおを滲ませた声で答えた。


「娘はもう……助からないのですか」

「なんとも言えんね。人面が他人に定着するなんざ前代未聞さね。それこそ人面に詳しいやつでもなけりゃ……」


 そこまで言って治道は誰かのことを思い出した風だったが、諦めたようにゆっくりと頭を振った。


「ひっひひ、まさかあいつかい? 裏切もんだろぉ。どこぞで顔剥がれて野垂れ死んでんじゃあねぇか?」

「そうさね、生きてるかも怪しいねえ」

「嬢ちゃんには悪いが、あきらめて普通に暮らすんが一番じゃあねぇかな」

「でもそれだと千歳はどうなるんですか。私はどうなったって構いません。どうか千歳を、娘を助けてください。お願いします」


 瑠璃はその場にひざを折り、額が床につくまで頭をさげた。治道と酔胡王は互いに顔を見合わせたが、何の言葉も返しはしなかった。

 そのとき比義が進み出て、瑠璃のとなりに立った。


「では私の弟子にするというのはどうでしょう」

「ほう? のらりくらりと弟子取りを逃げてきたあんたが、急にどういう風の吹き回しだい」

「ただの気まぐれですよ。シデとして現場に出れば、顔剥ぎから何か得られるものがあるやもしれませんし、思わぬ出会いもないとは言い切れぬでしょう」

「思わぬ出会いねぇ……まぁええんじゃねぇか。弟子取り問題も解決して一石二鳥やろ」

「そうさねえ」治道は考えこむ様子で自身の仮面を指で数回叩いていたが、視線を落として瑠璃へと向けた。「あんたはそれでいいんかい? 『シデ』は顔剥ぎを滅する役廻やくまわり、命懸けの務めになる。あんただけならまだしも、娘の命も賭することになるんだよ」


 治道の問いに瑠璃は背筋を伸ばして居住まいを正すと、迷いなく答えた。


「いまのままでは私が千歳を殺しているも同然です。救える道があるならば私は賭けたいと思います」


 そして瑠璃は比義の方へと向き直り、深く頭をさげた。


「比義様、どうか私を弟子にしてください」

「師らしくできるか分かりませんが、よろしくお願いします」


 比義の穏やかな声色に、瑠璃は緊張がほぐれて目頭が熱くなった。このままでは泣きだしてしまうと思い、額を床に押し当てて涙声で感謝した。


「ありがとうございます」






 比義は瑠璃とともに退室した。元の部屋に案内すべく瑠璃を連れて外廊下を歩く。静まり返った中庭には虫の声ひとつせず、篝火の薪が呼吸するように爆ぜる音だけが聞こえていた。

 ふと比義の後ろを歩く瑠璃が問いかけてきた。


「どうして私を弟子にすると申し出てくれたのですか」


 比義は歩みを止めた。中庭へと目を向け、どこか遠くを見る様子でぽつりぽつりと話しはじめた。


「かつて、私の師が悔いていたのです。ある村での任に就いた際、自身が間に合わなかったばかりに、村の外れにある家が顔剥ぎに襲われ、身重の女性ただひとりしか救うことができなかった。彼女には酷な人生を送らせてしまうことになった、と」


 比義は顔剥ぎを退治した事後処理を村で行っていたとき、村人たちが口々に瑠璃の話をしているのを聞いた。死人に口なしと言わんばかりに好き勝手なことを言っていたが、おかげで瑠璃の過去について少なからず知ることができていた。師の話と共通する事柄の多さに気づいてはいたが、〝彼女〟が瑠璃であるかをわざわざ特定しようとまでは考えなかった。師が救った相手かどうかは関係ない。瑠璃は比義自身が救えなかった相手であるのだから。


「今回は私が間に合わなかったばかりに、瑠璃殿たちを救うことができませんでした。ですが思わぬ巡り合わせでふたたび力になれる機会を得た。ならば、もうこれ以上後悔せぬためにも、そうすべきだと思っただけですよ」


 発した言葉は静寂に包まれて暗夜の闇に溶けていく。比義は自然と心根からの言葉を話してしまっている気がした。不思議とおのれの弱さを晒してしまった気がしていた。

 瑠璃の方に振り返り、今度は比義が問いかけた。


「瑠璃殿こそ、本当によろしいのですか。娘さんを救うということは、あなた自身が死ぬことになる可能性が高い」


 瑠璃が比義のとなりに立ち、中庭に置かれた篝火へと目を向けた。まるで過去を見ているように遠い目をしている。その横顔は少女の背格好から想像つかないほど母親の顔つきだった。


「比義様のお師匠様のお話に似ていますが、私は以前顔剥ぎに家族を奪われました。夫に子どもたち……すべてを喪った気がして、そのときに一度、私は命を手放したんです。けれど千歳がその命を手の内に留めてくれました。だから、あのとき失うはずだった命を……千歳が救ってくれた命を、千歳のために使うだけなんです」


 パチリと爆ぜた薪から火花が空へと飛んでいった。夜は依然として暗く、いまだ明ける気配はなかった。



【終】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

はふりたまふるふゆしづめ あろん @kk7874

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ