とりいさん

くわばら

とりいさん

 今年最初に何を願ったのか、どうしても思い出せない。


 毎年、元旦には決まって近所の神社に初詣に行く。鳥居をくぐり、手水舎で手を清め、賽銭を投げて手を合わせる。そして心の中で願い事を唱える。幼い頃からの習慣だった。習慣があることは覚えているのに、今年の初めに、一体何を願ったのか、思い出せない。


 そんなことを考えながら、いつもの鳥居の前に立っていた。今日は大晦日。年が移り変わる日だ。


 鳥居は朱塗りで、ところどころ剥げかけている。数えきれない程の参拝客の手に触れられたせいなのか、それとも長い年月が経ち、雨風ですり減ったせいなのか。台石にはかすかに苔がつき、足元の石畳は冷え切っていた。境内の奥からは、焚火の燃える匂いがかすかに漂ってくる。風が吹くたび、境内の奥に群がる木々がざわめき、乾いた枝がこすれ合う音がした。


 私はいつものように、鳥居をくぐった。


 ――と、その時、違和感が走った。


 私は今、鳥居の真ん中を歩いている。


 なぜだろう、昔はこんなふうにくぐらなかった気がする。


 鳥居の下に立ち、見上げる。


 「とりいさん、とりいさん」


 幼いころ、私は鳥居のことを「とりいさん」と呼んでいた。神社へ行くたびに、「とりいさんの下はくぐっちゃダメよ。脇を通るのよ」と母に言われた。理由を聞いても、「神様の通り道だからね」母はそう言いながら、私の手をぎゅっと握るばかりだった。


 その頃の私は、まっすぐ鳥居の下を通りたかった。まるで特別な門をくぐるような気がしていたからだ。でも、私は母に手を引かれるまま、鳥居の脇を歩いた。何度もそれを繰り返しているうちに、やがて疑問も持たなくなった。そういうものなのだと、ただ受け入れていたはずだった。


 だというのに、今、私がこうして鳥居をくぐってしまったのは、どうしてだろう。私はなぜ忘れてしまったのだろう。なぜ、くぐった後に思い出したのだろう。


 社の前に立ち、ポケットから硬貨を取り出す。冷たい金属を指先で転がしながら、しばらく迷う。今日は何を願うべきだろうか。健康、仕事、恋愛……。どれも悪くはないが、決定的に「これだ」と思うものがない。


 小さく息を吐き、硬貨を賽銭箱に落とす。カラン、と乾いた音が響き、すぐに静寂に溶けた。


 ふと目を上げると、社殿の屋根にうっすらと霜が降りていた。木造の社はひっそりとそこに佇み、長い時間の流れをその身に刻んでいるように見える。


 「とりいさん、とりいさん」


 私は、何を願えばいいんだろう。


 鳥居の向こうから冷たい風が吹き抜け、枝の先についた名残の葉がひとひら、ふわりと落ちる。くるくると舞い、砂利道に静かに触れた。

 

 葉が落ちるまでの間、これが最後と思いながら、思い出せない願い事を探していた。けれど、頭を過るのは祈り、願ったこと。そして手を合わせることだけだった。

 

 ただ、祈りの形だけが、静かにそこに残っていた。


 願いの言葉は忘れてしまったのに、ここで拝んだことだけは覚えているんだ。


 目を閉じると、遠くで鐘の音が鳴る。誰かが新しい一年に向けた願いを託したのだろう。


 「とりいさん、とりいさん」


 (来年も、私はここに来るよ。)


 私は、静かに手を合わせたあと、社殿を離れ、鳥居へと向かった。


 私はそっと鳥居の柱に触れた。冷たく、ざらついた木の感触が指に伝わる。


 そして、ゆっくりと鳥居の脇を抜けた。

 

 長い年月の間に、多くの祈りと願いがこの場所で費やされてきたのだろう。


 私の願いがいくつも消えていったように、いつかの私は手を合わせる事も忘れて、鳥居の下をくぐってしまうかもしれない。


 けれど、とりいさんは、ただ静かにそこで待っている。


 帰り際、とりいさんをもう一度横目に見る。


 それでも変わらずに、とりいさんは、そこに立ち続けているのだから、せめて形だけでも忘れたくないねと、両手で顔を覆ってしまった。

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