春雷の形見
縦縞ヨリ
春雷の形見
「あなたを妊娠した時、
死んだ母はいつもそんな話をしていたっけ。
今日の空は鮮やかな水色で、時折吹く強い風も温かかった。だから私は涙を拭いて、家とは逆方向の電車に乗った。
私は性格が悪いので、病院は皆幸せそうじゃないから少し気が楽だ。それで一歩病院から出ると居場所が無いように感じてしまう。そんな自分に失望する。
早く夫に連絡しないといけないのに、どうしても気が進まなかった。きっとがっかりするだろう。
住宅街の只中にある小さな駅を降りて十五分くらい歩くと、亡き母の言う所の「伏姫様の御堂」があるらしい。スマホでGoogleマップを確認しつつ、とぼとぼと歩き始める。
一方通行であろう細い通りで、向こうから女の人がベビーカーを押しながらゆっくりと歩いている。
私と同い年くらいだろうか。
すれ違い様、結構なスピードを出したプリウスが来るのが見えて、無意識にベビーカーを庇ってしまった。変な目で見られるかと思ったが、あんまり酷い速度違反だったからベビーカーのお母さんもびっくりしていて、ぺこりと頭を下げてくれた。私も慌ててベビーカーから離れて頭を下げ、逃げる様にまた歩き出した。
何となく、今赤ちゃんの顔は見たくなかった。
『日蓮宗
参道の少し寂れた商店街を通り過ぎ、赤い欄干の橋を渡る。万葉集に出てくる「真間の継橋」というものらしい。随分と古い土地だ。
橋の脇には桜が植えられている様だが、枝振りはまだ寒々しく、花もほんの少し綻び始めた所だった。お花見しながら歩いたら気が紛れるかと思ったけど、なんだか余計に落ち込んで、一人寂しくため息を吐く。
橋を渡ってやっとそれらしい所に着いたかと思ったら、「
少し迷って入って、お賽銭を投げ手を合わせた。
――赤ちゃんができますように。
顕微鏡受精の結果をさっき聞いてきた。全滅だ。何度も病院に通い、毎日自分で腹に注射を打って、朝から飲まず食わずで全身麻酔をして採卵して、その後も何日も体調を崩して、痛くて苦しくて、それでも受精卵は一つも育たなかった。
「今回は全部破棄になりました」
先生だって最善を尽くしてくれたんだろう。
「夫と今後どうするか話し合ってみます……」
そう涙を耐えて言うのが精一杯だった。
不妊外来のフロアは気が楽だ。皆辛い思いをしながらがんばってる。私もがんばらなきゃ、と思えた時期もあったんだけど。
不妊治療というのは終わりの見えない地獄である。痛い思いを何度もしながら、絶望を毎月繰り返す。
結婚してもう十年になる。
石段をえっちらおっちら登っていく。一段一段が高いから結構必死だ。
晴れているのに、一つだけ目に見えて湿った石がある。「涙石」。かつてお侍さんが切腹した場所だというそこは、今なお決して乾く事が無いらしい。他の石より磨り減りじっとりと濡れた石は、不気味と言うよりむしろ神秘的だ。
ここから別世界の様な気がする。
木漏れ日を縫うように、緑色の小さなメジロが上に向かって飛んで行く。それを追うようにやっと石段を登り切り、年季の入った赤い門を会釈して潜った。
明るい境内は整備されていて、存外新しくも感じる。
入ってみると結構人が多い事に驚いた。春彼岸でも無いのに何があるんだろう。
しかし人が居るのとは逆方向にとぼとぼ歩いて、元々当たりをつけていた人気の無い一角に辿り着いた。
『里見龍王大善神』、ものすごい名前だが、これが「南総里見八犬」の伏姫様が祀られている御堂らしい。
――
江戸時代に書かれた日本最古の長編小説である。私も小学生の時に一冊にまとめられたのを読んだけど、今読んでも流行りそうなストーリーじゃないだろうか。
もちろん南総里見八犬伝は創作なのだが、里見氏の伏姫が実在したという伝説もあり、ここに祀られている。
とは言えこの御堂自体は新しくて、昭和二十六年に青森で祀られていたのがなんやかんやあって故郷に戻された……看板を読むとそういう事らしい。
「里見の伏姫の精霊が宿ったという白蛇……」
故郷に戻されたのは白蛇の遺骸で、遺骨が戻ったという訳では無いらしい。そもそも伏姫様自体本当に存在したのかという感じだが、母の見た「白蛇」は合致する。
小さな池の中に、『里見龍王大善神』こと伏姫様は祀られていた。
お賽銭を投げて、祈るのはいつだって「赤ちゃんができますように」。
しかし、白蛇は居なかった。しっぽの先も見えやしなかった。
お母さん、私じゃやっぱり無理なのかなあ。
また鼻の奥がツンとして、一人の家に帰りたくなくて、散歩がてら境内を歩いてみる。結構広い。必然人の多い方に足が伸びる。
途端、一気に景色が色を帯びた。
なんで気が付かなかったのだろう、境内の奥は写真を撮る人や談笑する人が沢山居た。
随分と早咲きの、大きな枝垂れ桜だ。
黒々とした龍のような巨木が、まるで口から煙を吐くように、僅かに残った枝振りから何千何万もの可憐な花をつけている。
樹医の手が入っているのか、朽ちた枝を切り落とした所は黒く塗られ、何とか後世にこの桜を残そうという気迫すら感じた。
「伏姫桜」
人の声にハッとする。つい見入ってしまった。
「私が子供の頃はうんと花が咲いてね」
「もういつ咲かなくなってもおかしくないんだから」
慌ててスマホで検索する。弘法寺を調べた時に「伏姫桜」という言葉は見ていたのだが、まさかこれ程の規模のものだとは思わなかった。
樹齢四百年。今にも命を終えそうな大木だった。見るとあちこちに添え木がしてある。最早自らの力で立つこともままならない老木は、品の良い老女が杖を突く姿にも見える。
そうか、伏姫様はここに居たのか。
本堂にお参りしてから、お守りをいただこうかと社務所に入った。伏姫桜の保存に使うという募金箱があったので、少しだが小銭を入れる。
子宝祈願のお守りは無かったが、ちょっと迷って、安産祈願のお守りを手に取る。
「お願いします」
壮年のご住職はにこやかで優しそうな人だった。
「……何となく立ち寄ったんですけど、桜が咲いていると思わなくて得しちゃいました。とっても綺麗で」
「ああ、もう少し遅いかと思ってたんですよ。急に温かくなったから」
「樹齢四百年って凄いですよね。ソメイヨシノだと寿命って六十年くらいですよね?」
「ええ、昔お寺が大火事になっても残ったくらい気丈な木なんですけど、流石に御歳ですから……最近は種を取って若木を育てたりもしてるんですよ」
種。若木。次世代に続くもの。
そうか伏姫桜にも赤ちゃんが居るのだ。背中を刺された様な、目に見えないものに責められる様な冷たい感覚が襲う。
「そうなんですか……私も、がんばらないと……」
その時突然、背後からゴロゴロと大きな音がした。
振り返ると今しがたまで晴れていた空がみるみる曇って、真っ黒な雲があっという間に天を覆い尽くす。唖然としている私を他所に、ご住職は冷静だった。
「春雷だ」
途端、バケツをひっくり返したような雨が降り注いだ。桜を見ていた人達が慌てて屋内に避難して来て、社務所の中は大勢の人で騒然となった。
「こんな急に降るなんて!」
「夜まで降らない予報じゃなかった?」
動揺する人々の中で何もできずに固まっていると、開け放たれた引き戸の向こうの空が光った。
光が落ちてくる。
龍が咆哮するが如く、地を揺るがす轟音が響き渡る。
反射的に目を閉じてしゃがみ込むと、ご婦人達の悲鳴が聞こえた。
「落ちたぞー!」
落雷だ。
恐る恐る目を開ける。音はかなり近いが、寺の境内の中に落ちた訳では無いらしく、ほっと息を吐いた。
でも、もしかしたら伏姫桜に落ちていたかもしれない。
たまたま逸れただけで、伏姫様はいつ居なくなってもおかしくないのか。そもそもこの寺も高台だし、かつて火事で燃えている。本堂も新しい。
「良かった、桜に落ちたかと思った……」
一人が言うと、ご婦人達が「そうね」と口々に口を揃える。
ふと、黙って荒天を見ていたご住職が口を開いた。
「落ちる時は落ちる、燃える時は燃える、あの桜もいつかは朽ちる時が来ます」
「……じゃあ、努力して残す事に意味は無いのでしょうか?」
思わず口にしてしまった言葉が、雨音に溶けずに響いた。
ご住職は静かに語る。
「……生前善行を積み、南無妙法蓮華経と唱えれば、差別なく誰でも浄土に行くことが出来ます。では善行とはなんでしょう」
恐る恐る、老婦人が口を開く。
「人助けとか、地域貢献とか、それこそ伏姫桜を保存するとか、そういう事ではないんですか?」
私には分からない。そもそも時代や人によって「善」は違うものでは無いだろうか。
――早く作んなさい、あなたの子だったらきっと可愛いわ。
――友達も子供出来なかったけど、里子を何人も育てて……
――良いじゃない夫婦水入らずで。
――結婚もしてないから不妊治療なんて夢のまた夢だよ。
――気楽でうらやましい。
――十分がんばったよ、俺はもう止めても良いと思ってるよ……
ご住職は合掌して、静かに言った。
「……自らが何を善として、人の世で何をすべきか。それを
そうか、呆れられても哀れまれても、私自身が真摯に悩んで、選び取らなくてはいけないのか。
幸い雨は上がり、私はスマホで伏姫桜の写真を撮って夫に送った。
『ごめんダメだった』
すぐに既読が付く。
『今回は残念だったね』
『忙しいのにごめん、また一緒に病院来てくれる?』
『当たり前だろ? ごめんな、今日一人で行かせて』
『大丈夫』
ボロっと涙が零れたが、悲しくて辛いからじゃない。
伏姫桜の花影に、白いしっぽが見えた気がした。
終
春雷の形見 縦縞ヨリ @sayoritatejima
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