あの夢を見たのは、これが9回目だった。

比呂

あの夢を見たのは、これが9回目だった。


 あの夢を見たのは、これが9回目だった。


 だから、私はギターを買った。


 10回目の夢を見るまでもなく、通販でポチった一品である。

 お届け物です、と言った配達員さんの顔はどうだったろうか。


 安アパートの玄関先を塞いでしまうかのような、段ボールの中身が、それだ。


 楽器屋へ行って店員さんに相談する勇気はないのに、一か月分の給料を投げ出す覚悟はあったみたい。


 別に、今から歌手やシンガーを目指すわけでもない。

 何もかもが、遅すぎる。

 年齢も、容姿も、能力も、全てが足りていない。


 けれど、夢を見た理由は簡単なものなのだと思う。


 私は、ある天気の良い昼下がりに、ベランダの洗濯物を取り込んでいた。


 遠くから聞こえる子供の笑い声。

 手を繋いで歩くカップルの姿。

 散歩するおじいちゃん。


 なんて平和なんだ、と思う。


 そして、柔軟剤の香りがする洗濯物を抱きしめる私。

 息苦しくなって、気分転換にスマホで音楽を流す。


 若い頃に聞いていたロックバンドの曲を、ネットで誰かがカバーしていて、それを聞いた。


 楽しかった学生時代を思い出した。

 それだけで、私の心は崩された。


 当時は意味も知らなかった歌詞に、私の心はぶん殴られた。

 ええそうですよ、とスマホの前で泣きながら床を叩いた。


 大人になんて、なりたくなかった。


 わかってくれとは言わないけれど。

 簡単にわかるな、と叫びたい。


 夢も希望も才能もない人間が、ギターを買う意味ってなんですか。

 本人の私だってわかりませんよ。


 ギターケースから取り出したギターは、ピカピカに光っていた。

 新品なのに、小傷があって悲しかった(が、クレームをつける勇気はない)。


 自分が、弱くて情けない人間であることは、誰よりよぉくわかっている。

 だから言うんだ。


 よくぞ私の元へ来てくれた、私のギター。

 小傷で返品なんてするもんか。


 君は私に出会うために作られた、最高のギターだよ。

 誰も言ってくれないから、私が言うよ。


 私が弦を撫でれば、君は音を返してくれるじゃないか。

 下手でごめんね。


 だけど、どんな素人でも、音を鳴らすことくらい出来るんだ。


 弦を弾いただけのギターの背中から、振動が伝わってくる。

 お腹の奥に、伝わってくる。

 音が震えていること、私がわかってあげなくちゃいけない。


 あの夢で、私はギターを弾いていた。


 六弦をかき鳴らし、汗をかいて、精一杯に叫んでいた。

 何を言っていたのかなんて覚えてないけれど。

 楽しかったことだけは確かだ。


 9回目の夢だって、変わらず楽しかったよ。

 夢を現実に、って訳じゃない。

 現実は、いつだって厳しいからね。


 さて、今月どうやって生活しようかな。

 一生に考えようぜ、私のギター。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あの夢を見たのは、これが9回目だった。 比呂 @tennpura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ