さよなら、通学路

島本 葉

さよなら、通学路

 バスのタラップをトントンっと降りると人の流れは左右に分かれていく。右は駅に向かう道。ほとんどの人はそっちに向かっていく。


 左に向かうのはわたしと同じ制服をまとった学生の波だ。


 ひんやりとした風が髪をそっと持ち上げ、首筋を撫でていく。手袋の内側のふわふわした感触を指先で確かめてから、やっぱりポケットの中で手をぎゅっと握った。


 すぅと一呼吸。冷たい空気が肺に満ちて、じんわりと体の奥まで染み込む。ひんやりと澄んだ気配の中には、かすかに潮の香りが溶け込んでいた。


 電車が滑るように通り過ぎる音が小さく響いてくる。


 駅から出てきた制服の波と合流し、わたしたちの流れは山側のなだらかな坂道を登っていく。


 通り道のファミレスの店先には、カラフルなのぼりが風を含んではためいていた。その中に、大きく『ハニートースト』と書かれた黄色いのぼり。


 ──これ、めっちゃおいしそうじゃないですか?

 ──こんなの食べるんだ。

 ──意外と甘いもの好きなんですよね。


 以前の何気ない会話を思い出してふっと笑う。結局、一度も来られずじまいだったな。「今度行こっか」って、どうして言えなかったんだろう。


 住宅地の間を縫うように坂道を登っていき、ふっと視界が開ける。


 遮るものがなく、夏はじりじりと焼かれるような日差しに襲われる場所。けれど今は、柔らかな朝の光が頬をそっと撫でていくのが心地よかった。


 すっと風を切ってわたしを追い抜いていく自転車たち。その群れの中につい青い自転車を探してしまうのもいつもの習慣だ。


 時折車のロードノイズが響き、エンジンの音がゆっくりと追い越して行く。


 目当ての自転車を見つけられなくて、わたしはまた足に力を込めた。

 

 もう少しで正門が見えるというところで、ぐっと勾配が強くなり、足を踏み出すたびふくらはぎがじわりと張ってくるのを感じた。


 ──自転車でこの坂、キツくないの?

 ──キツいですよ。でも慣れます。

 

 そう言われたときは信じられなかったけれど、今では歩くペースも自然と一定になっている。慣れる、というのは本当らしい。


 それでも、遅刻しそうな朝はこの坂が恨めしかった。ダッシュすればするほど足は重くなり、息が切れた。鞄を背負ったまま駆け上がった日は、教室に着いた途端、机に突っ伏してしまったこともあったっけ。


 じんわりと熱を帯びる太ももも、今朝は不思議と心地よさを感じる。

 

 きつい部分を登りきって一息つき、ふと振り返った。


 頬にあたる風が、熱をもった肌をやさしく冷ましてくれる。

 

 遠くに小さく駅が見えて、その先には海がきらきらと光っていた。そこから続く道を、わたしと同じように登ってくる生徒たち。連なっている。下級生たちも流石にもう慣れたもので平然としているが、あとしばらくすると、この坂を新しい顔ぶれが辛そうな表情で登ってくるのだ。


「おはようございます、先輩」


 すぐそばから聞こえた声にどきりとした。


 弾んでしまう心を落ち着けてから振り向くと、少し息を切らせた加瀬くんが、青い自転車から降りるところだった。


「おはよ、加瀬くん」

「ははっ、追いついて良かった。ん、何みてたんですか?」

「この景色も、最後なんだなぁと思って」


 わたしの言葉に、加瀬くんは一瞬だけまばたきをした。それは、寂しさを振り払おうとする仕草のように見えた。唇がわずかに動いた気がしたけれど、結局言葉がこぼれて来ることはなく、靴先で道端の小石を転がしていた。


 わたしはそれには気づかないふりをして、できるだけ平静に「行こっか」と波の中に戻った。加瀬くんは小さく息を吐くと、自転車のハンドルを握り直し、わたしの隣に並んだ。


 カラカラカラとタイヤの音がわたしと加瀬くんの間で響いていた。わたしよりちょっとだけ背の高い加瀬くん。出会ったときはまだ同じくらいだったのに。


「えいっ」


 わたしは二人の間にある青い自転車がちょっとだけもどかしくなって、加瀬くんの反対側に回った。


「なんっすか?」

「いや、なんとなくね」


 わたしが肩をすくめると、加瀬くんは小さく笑った。


 少しの沈黙。


 先ほどよりもほんの少し遠ざかったタイヤの音。


 こころの輪郭がさわさわと揺らめくような、心地よさと切なさが入り混じる空気が、わたしたちを包んでいた。


「あの、先輩。今日──」

「加瀬くん、今日時間あるかな? 式の後、できたら話したくて」

「はい。おれも、──話あります」


 加瀬くんはじっとわたしを見つめていた。まっすぐなその瞳はわずかに揺れていて、何かを伝えたがっているように見える。 


 わたしは気恥ずかしくなって、少し歩調を強めた。


 カラカラと響く自転車の音。加瀬くんもわたしと歩調を合わせる。


「先輩」

「ん?」

「卒業、おめでとうございます」

「──うん」


 肩が触れ合うかどうかの距離を保ちながら、わたしはゆっくりと歩みを進める。

 

 わたしの最後の通学路。


 そして、これからもずっと続いていく道を。

 

 完



卒業生のみなさま、ご卒業おめでとうございます。

(島本 葉)

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さよなら、通学路 島本 葉 @shimapon

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