第9話 悔しくないの?

さと子の家の横には舗装されていない粗末な道路があった。その道路は自動車が一台分だけ通れる幅で、普通の家が三軒ばかりの長さだった。


その道路の奥には小川があって行き止まりになっているから、自動車は全然通らない。だから、子供が遊ぶにはちょうど良かった。


夏がそろそろ始まりそうなある日、幼稚園から帰った後、健一とさと子はその道路で何回もかけっこをした。


道路の始まりがスタート地点、行き止まりがゴール地点と決めて勝負したのだが、何故かいつもさと子が、かけっこに勝ってしまった。


健一は自分が女の子に負けたことがとても悔しくて、何度も何度もさと子に挑戦したが、いつもさと子の方が勝ってしまった。


その翌日から、健一はさと子がいない所、例えば、近所の公園や、小学校の校庭などで、さと子には内緒で、一生懸命、1人でかけっこの練習をした。


さと子に勝てるという自信がつくまで、健一はさと子とかけっこをしなかった。


さと子もその後は健一をかけっこに誘おうとしなかった。そのことは健一にとって、ちょっと不思議だった。もしかすると、さと子は健一に勝ってしまうようなことは、やりたくないのかと、子供の健一でさえ、そう感じた。


5日ばかり健一はかけっこの練習をした。次の日曜日、さと子の家に遊びに行く道中で、健一は


(今日はさと子とかけっこをして勝つんだ、女の子に負けない男の子になるんだ)。


と、願いながら歩いた。


さと子の家に着いて、いつも通り玄関の扉を開き


健一は


「さと子、遊ぼ!」


と声を張り上げた。


2階のさと子の部屋から何か音がして、さと子がウキウキしたような表情でパタパタ階段を降りて来た。


健一がさと子にもう一度かけっこの挑戦を申し込むと、さと子はニコッと笑って、


「良いよ」


と、意外にも、快く健一の挑戦を受けてくれた。


そして、健一達はさと子の家の横にある道路で、スタートラインに並んで立った。


さと子は少しだけ微笑みながら


「よ~い……、ドン!」


と叫んだ。


健一とさと子は5日前にかけっこをした時と同じように、綺麗なスタートを切った。その綺麗なスタートは、健一とさと子が心でつながっているから出来たことなのではないかと健一は思った。また、さと子の心が健一の方を向いていたようにも感じた。それは健一にとってこの上ない喜びだった。


それから、健一は全力を出して懸命に走り、それは自分の体が壊れてしまうのではないかと思うくらい、必死の走りだった。


さと子はどうだったのか、全力を出していたのか……、健一が疑問に思うような雰囲気があった。


ゴール線を身体半分、健一が先に通過した。


健一は声に出さなかったが、心の中で歓喜し、それは、健一の今までの生活においては珍しく、自分の欲望を素直に貫き通して、何かしらを勝ち取った瞬間だった。


この歓喜はさと子が、そうさせてくれたのではないかと、健一はさと子の方から来る、勝ちに執着しない雰囲気でそう感じた。


何故か、さと子といる時は健一も安心していて、月日を重ねるごとにその安心感は増していった。


しかも、健一はさと子と遊んでいると、少しずつ、自分が好きなように行動することが、出来るようになっていく感じがした。


健一は、さと子が、かけっこに負けて悔しがっていないのだろうかと思い、さと子の顔を見た。


さと子は微笑んでいた。


スタートの時と同じように。


健一は息を切らしながら、その微笑みに魅了されつつ


「悔しくないの?」


と、さと子に尋ねた。


さと子は、はあはあ息をしながらも相変わらず微笑みながら、答えた。


「悔しい? 分からない……」


その言葉を聞いた時、何故か健一は泣いてしまった。


何故、健一は泣いてしまったのだろう。かけっこに勝ったからだろうか。それとも、初めて頑張ってその結果が出たからだろうか、などと健一は泣きながら考えた。自分でもよく分からないが、相手がさと子ではなかったら、泣かなかったかもしれなかった。さと子の前では、健一は自分の欲望に素直になりつつあるのだ。


もしかしたら、嬉し泣きなのかもしれない。


健一は震える声で


「どうして悔しくないの? 」


とさと子に尋ねながら、さと子を抱きしめてしまった。


さと子も両腕を健一の背中に回して


「何故、泣いてるの? 」


と、健一に問いかけた。でも、健一はその答えをさと子が知っているような気がした。ならば、何故さと子がそんな問いかけをしたのか……、健一も心の中では、さと子は健一が泣いている理由を分かっているような気がした。健一とさと子の間には、分からないなんてことは無いのだ、さと子の問いかけは、単なる確認なのだと、健一は思いたかった。


健一は力いっぱい、さと子を抱きしめた。さと子はじっと動かないでいた。少し汗ばんださと子の身体から、森の香りがただよった。


その時、健一は自分の大切な所が硬く張っていることに気付いた。


健一は何となく慌ててあとずさりをした。


そして、健一はオシッコが漏れそうになった。


「さと子、俺、オシッコしたい。」


と、健一は小声で言って、さと子の腕を振り払い、粗末な道路を走って、さと子の家の玄関からトイレへ向かった。

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