風が運ぶもの

はろ

風が運ぶもの

 私の母国であたらしい法律が制定されたと、風の噂で聞いた。なんでも、『国民が王族を連れ去った場合、連れ去られた王族が『同意の上である』と明言すれば、その国民は罪には問われない』という内容だとか。

 変な法律よね、と私は我が子に語りかける。今年五歳になるヨシュアは、そもそも法律とは何なのかをまだ理解しきれていないのか、昼食のシチューをガチャガチャとスプーンで掻き回しながら知らんぷりをしている。年相応にあどけない息子の様子が可愛らしくて仕方なく、私は彼の丸い頬をそっと人差し指と親指ではさんだ。


 私の母国はクレメアという。クレメアは私が今暮らす東大陸ではなく、その海を挟んだ向こうの西大陸の東岸に位置する、大陸一の大国である。

 クレメアにはそれはそれは悪い王様がいて、彼はここ十年余り南側の隣国ノクタに侵略戦争を仕掛けていた。その少し以前、ノクタで恐ろしく美しく、恐ろしく希少な宝石の鉱脈が掘り当てられたことが原因だった。悪い王様はその宝石の虜となり、手段を選ばず、卑劣で残虐な方法でノクタの領土と国民を蹂躙し続けたのだ。戦争はとても長く続き、私はすべてに嫌気が差し、クレメアから逃げ出した。今の夫である、フランと一緒に。

 けれど、ここ数年は、その母国の様子もずいぶんと変わったらしい。それもまた、私は風の噂で聞いた。


「こら、ヨシュア。母様の話をちゃんと聞きなさい」

「いいのよ、フラン。それより、隣のトンノさんがまたヨシュアに服をくれたの。見てよ、これ」


 ヨシュアの隣で食事をしている夫に、上等な箱に入った男児用のセーラー服を見せる。トンノさんは息子のお下がりだなんて言っていたけれど、どう見ても新品だし、平民が着るには上質すぎる繊細なコットンで仕立てられている。そもそも男児に子供服としてセーラー服を着せるのはクレメアの習慣で、東大陸ではそんなことはしない。


「……ヨシュアのことを、気遣ってくださっているということでしょうか」

「そうなのかしら。脅しとも受け取れなくもないけれど……。まあどっちにしろ、こんなのは着せられないわよね」

「もったいないですが、そうですね。私は姫の判断に従います」

「もう、姫って呼ぶの止めてって言っているでしょう、フラン。ヨシュアが真似をするわ」


 私が言うと、フランはとても従順に『申し訳ありません』と謝罪する。もう少しふつうの夫らしく対等に振る舞っていいと何度も伝えているのに、いつまで経ってもこの調子だ。剣の腕はこの世の誰より立つくせに、卑屈なくらい謙虚な態度は昔から変わらない。まあ、そういうところもまた好きなのだけれど。

 正直なことを言えば、夫のフランに姫と呼ばれることは嫌いではなかった。どこかビロードのような柔らかさのある彼の低い声でそう呼ばれると、私の胸はかつての使命を思い出して疼き、そして少女の頃からの恋が蘇る。


 ところで、トンノさんから『息子のお下がり』を貰うのは、これが初めてではない。一見どこにでもいる平凡な田舎町の奥さんといった風体をした彼女は、しかし妙にクレメアの情勢に詳しいし、何かと私たち家族を気遣って色々なものをくれる。それも、このセーラー服のように、とても田舎の平民が用意できるとは思えないような高級なものばかり。

 夫と私は、時々トンノさんを『風』と呼ぶ。ちなみに、『風』は彼女一人ではない。私とフランとヨシュアは、これまで方方を転々として生活しながら、さまざまな『風』に遭遇してきた。『風』に出会うたび、私たちは住む町を変えてきたのだ。

 けれどヨシュアが三歳を過ぎた頃からは、じたばた逃げ回るのはやめた。そんなことをせずとも、フランの剣は誰からも私達を守れるほどに強いし、ヨシュアをひとところで落ち着いて育ててやりたかったし――それになにより、少し状況も変化したようだったから。

 ちょうどその頃、クレメアは突如侵略戦争を止め、軍を引き上げてノクタと和平合意を結んだあと、長きにわたる暴虐に対して多額の賠償金を支払ったという。クレメアの悪い王様が突然なぜそんな心変わりをしたのか、西大陸どころか東大陸の人々も大いに訝っているのだとか。

 それもまた、私は風の噂で聞いた。風は様々な噂を運んでくる。例えばクレメアの悪い王様が、戦時に突如行方不明になった彼のただ一人の姫の捜索に、多額の報奨金をかけているらしいこと。その姫を拐った護衛騎士にもまた法外な懸賞金が掛けられているが、数年経つとその全てを取り下げ、突然に国家運営の方針を大きく転換させ始めたこと。

 これまでは大陸一の大国であるがゆえの富と権威を振りかざして周辺の小国に威圧的に振る舞っていたのが、急に協調路線へと舵を切り、悪い王様は人が変わったように良い王様になったのだという。

 本当かしら。私はまだ信じられない。あの欲深くて残酷な悪い王様が、本当に改心したのかどうか。

 行方不明になる前、クレメアの王のただ一人の姫には、縁談が持ち上がっていた。相手は、武器製造に長けた北の国の若い王。婚姻を通じた同盟を結ぶことが目的の縁談であり、彼女を嫁がせることで、クレメアはノクタを虐げるためのさらなる武器と火薬を手に出来ることになっていた。しかしお姫様がどこかに逃げ出してしまったせいで、その話はすっかりなくなったようだ。


「ねぇ、ヨシュア。お前、王子様になりたい?」

「ん?王子様?……やだー!ボクね、騎士になるんだよ!お父さんみたいな!」


 五歳児相応の乱れたテーブルマナーでシチューを零しながら、無邪気に答えるヨシュアの姿に頬がゆるむ。私が同じ年の頃には、すでに何十人もの家庭教師がついていて、音一つ立てずスープを啜ることだって完璧にできていた。けれど、この子はこれでいい。このままでいてほしいと思う。


 ところで先ほど、風が少し変わったものを運んできた。高級なセーラー服が収められた箱には、クレメア王家最高位を示す封蠟で綴じられた手紙が紛れ込んでいたのだ。

 それは、老いた父からの手紙だった。あの傲慢で冷酷で頑固な父が書いたとは信じられないほど、そこには素直であけすけな懇願の言葉が並んでいた。けして怒ったりはしないから帰ってきて欲しい、孫の顔が見たい、私は反省した、もうあんなことはしないから、と。

 どうしようかしら、と私は悩む。平凡な田舎町での平民の暮らしを、私たちは存外気に入っている。

 それに、けしてあの父を侮ることは出来ない。城の敷居を跨いだが最後、あの人はヨシュアを取り上げ、フランを断頭台に上げ、私を生涯監禁するかもしれない。かつて私が知っていた父は、それくらいのことはする人だったのだ。

 けれどそのうち、ちょっと顔を見せに帰ってあげてもいいかもしれないわね。手紙の震える文字を思い出しながら、私は少しだけそう思い始めている。

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