僕のパトロン

純愛と紫陽花、茉莉花の香り

僕には、少し前に付き合い始めた彼女がいる。

同じ高校の生徒で、同い年の女の子。成績優秀で部活熱心な子だが、涼しげな雰囲気と愛らしいたれ目が特徴だ。僕と同じ部活に所属していたことからこの関係は始まり、今ではとても仲良くやっている。

そんな可憐な彼女の名前は「立花たちばなすず」という。少し不思議ちゃんなところもあるが、愛嬌もあってかわいらしい彼女は男の人から言い寄られた回数も多いという。前にそう訊けば、困ったように眉を下げて「そういうのは迷惑」と辛辣なコメントをしていた。それから、こうも言った。


「そういうのは、あおくんだけでいいの」


そう言われて、すこし嬉しかったのも覚えている。




***






「蒼くん、いっしょに帰ってもいい?」


「いいよ。一緒に帰ろうか」


雨の日の学校の生徒玄関。新緑の目立つ初夏の空気を、優しい雨がしっとりと湿らせていく。僕は彼女の隣に立って、使い込んだビニール傘を広げた。彼女は少しうれしそうな顔をして、遠慮がちに僕の傘へ入ってくる。この一人で使うにはすこし大きすぎる傘は、このために毎日持ってきているのだ。


「鈴、今度からは普通に誘っていいんだよ」


「普通に?」


「うん。帰ってもいい?じゃなくて、帰ろうって」


「そっか、ごめんね」


「ううん、僕がそっちのほうが嬉しいだけだから」


二人傘の下、僕たちだけの声が小さく響く。ぱらぱらと雨がはじかれる音が心地よく、僕はこの内緒話をするような優しい空気が好きだ。


「私、雨の日が好きなんだ」


「たしかに、よく言ってるよね」


緑があふれる公園を横目に、彼女はおだやかに目を細めた。肩に掛かっていた髪がするりと滑り落ち、僕に茉莉花のようにさわやかな香りを運んでくる。

ふいに彼女が道を外れて公園へ足を踏み入れ、僕は彼女が濡れないように傘を持ってついていく。小雨が降り続ける公園には、植物と土のしめったにおいがした。

彼女は紫陽花が咲き誇る花壇の目の前に、すっとしゃがみこんだ。スカートが地面について汚れるのもお構いなしに、じっと嬉しそうに紫陽花の花びらを愛でている。雨の露に打たれて打ちひしがれることなく、鮮やかで儚い色を浮かべている紫陽花。そんな花と彼女を見ていたら、どこか雰囲気が似ているような気がするなと思えた。


「鈴、スカート…」


「きれいだよね。雨の日に見る紫陽花が、一番好きだな」


僕の言葉はどうやか彼女に届かなかったようで、彼女は唇に淡い微笑を刻んだままだった。時々こんな風に鈴ワールドの中に入ってしまうところが、クラスや学年の友達から「不思議ちゃん」扱いされる所以である。でも、それも彼女なりの感性なのだと僕は感じている。それに彼女を好きになった今、不思議ちゃんな部分にこの熱が冷めることはない。むしろ増すばかりだ。


「雨の日が好きな理由って、もしかしてそれ?」


僕がふとそう問うと、彼女はゆっくりと傘を持つ僕を見上げた。長いまつげを持ち上げて、ヘイゼルの瞳がこちらを見つめている。その彼女の儚い姿に、僕は少しどきっとした。


「これもある、けど」


再び視線を僕から紫陽花に戻しつつ、すくっと立ち上がる。それから僕を振り返って、足を一歩進める。さっきよりも少し近い距離で、茉莉花が淡く優しく香った。


「一番は、蒼くんとこうしていられるから…かな」


そういって、彼女は頬を緩ませた。そんな優しい笑みに僕も微笑み返し、ありがとう、と感謝を言った。


「スカート、ちょっと汚れちゃった」


「ハンカチ使う?」


そういって、僕はハンカチを差し出す。彼女はおずおずとそれを受け取り、「いいの?」という風に僕を見た。


「いいよ、使って」


「ありがとう」


制服のプリーツスカートの汚れを綺麗にふき取ると、彼女はほっと溜息をついた。


「汚れたのがちょっとでよかった」


「汚れるの自体は別にいいの?」


僕がそういうと、彼女はこくりと首を縦に振った。


「蒼くんといっしょにいるから、平気」


またもや儚げな淡い微笑を刻んで、心から幸せそうににっこりと笑いかけた。僕は彼女のその顔を見るたびに、少し苦しいくらい胸が締め付けられる。これが俗にいう、ときめきというやつなのだろうか。普段は涼しげな表情をしている彼女が、僕の前でだけかわいらしく笑ってくれるところが好きだ。そう、実感していた。


「そうなの?」


「うん。変かな?」


「ううん、変じゃないよ」


最大級の愛情をこめて、僕も彼女に優しく微笑みかけた。







***






それからしばらくたったある日。彼女の様子がおかしいことに、僕はようやく気付いた。

学校を休む日があったり、保健室にこもることがあるからだ。でも、僕としゃべっているときは普通のように見える。

僕は彼女と同じクラスではないから、クラスでなにかあっても気づけない。かといって知るために彼女に聞いたり、友達に聞いたりするのはさすがに恥ずかしくてできない。だから、そんな臆病で自己中な自分に嫌気がさし始めた。

だから、思い切って一緒に帰る帰り道で、少しだけその話題についてふれることにした。


「ねえ、鈴。最近どうしたの?」


僕が緊張しつつもそう訊けば、彼女はいつもどおりの笑顔で僕を見た。


「どうした…ってなにが?」


触れるな、ということだろうか。でも、彼女ならそういうことははっきり言ってくれるはずだ。僕は質問を続けるという選択をした。


「最近、元気ないなって」


「……」


そういう僕を横目でじっと見つめる彼女。それは、いったいどういう顔なのだろうか。彼女が何を考えているのか、思っているのか、感じているのかが全く読めない。はじめて、彼女に不安のようなもやもやした気持ちを抱いた。


「そういう蒼くんも、元気なさそうだね」


「えっ」


「…ああ、私のこと、心配してるの?」


ずいっと顔を近づける彼女は、僕がなにも答えなくても納得した。まるで僕の心を読んだかのように、考えはばっちりと当たっていた。僕を見透かすようなそのヘイゼルの瞳が、突然怖くなった。


「僕のことはいいよ、鈴が心配」


そう言うと、彼女はすっともとの距離にもどった。いつも二人で並んで歩く距離なのに、こんなに遠く感じるのはどうしてだろう。


「心配しなくていいよ。これはもう一生、なおらないから」


そううつむく彼女の顔は、栗色の髪に隠れて伺えない。声色もいつもと変わらないのに、こんなにも突き放されたような感覚がするのはどうしてだろう。お願いだから、はっきり言ってほしい。なにがあったの、どうしたの。知りたくて、はやく楽になりたくてたまらない。

彼女への心配という悩みを、はやく消したくてたまらないみたいだ。


「どういうこと?悩みがあるなら、僕に話してよ」


「悩みじゃないよ、うれしいこと」


「うれしい、こと?」


いったい彼女は何を言っているんだろう。なにか言葉がのどにつっかえているけど、出てこない。吐き出そうとしても、吐き出せない。わからない、教えてほしい。元気のないところを見せられて、無理しているところを見せられて平気でいられるわけがないのに。


「はっきり言って、鈴。どうしたの?」


不安とはやる気持ちが、口調を強くしてしまったかもしれない。それでも、彼女はそれに飲まれずにのんびりしていた。

いつもみたいにふんわり笑って、僕の中のいつも通りの彼女だった。

どうしてそんな、僕を苦しめるようなことができるの。心配で心配で心配で心配で、僕はどうにかなってしまいそう。君のせいで、こんなにも苦しい。はやく、助けてほしい。苦しくてたまらなくなって、どうすればいいかわからなくなって、胸がぎゅっと締め付けられるような気持になった。


「私はね」


彼女は焦る僕の気持ちとは裏腹に、ゆっくりと喋りだした。


「今そうやって、苦しんでるきみが好き」


満面の笑み。そこには、いつものふわふわはかない雰囲気はなかった。

どす黒いナニカが、彼女の心を侵食してしまったのだ。

いったい何が、誰が、彼女をここまで苦しめたのだろうか。あんなにかわいらしかった彼女を、こんな風に貶めたのは一体「何」なんだ。


「……僕は、」


なにか言葉を紡ごうとしゃべりだす僕の口に、彼女は人差し指をあてがった。それから、また慈しむように腐った愛情を僕に向ける。


「ぜんぶ、蒼くんのせい」


そう言って笑う彼女の頬に、優しく手を添える。さらさらと指通りのよい髪に触れながら、僕は彼女の顔をじっと見つめた。彼女からの愛情を向けられて、僕の気持ちも繋がったように腐り落ちる。

いつしか僕も、頬を緩ませていた。

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僕のパトロン @mamerock6

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