采月宮の入れ替わり妃
祈月すい/角川文庫 キャラクター文芸
序章
──どうなってるんだ……。
──ここはどこだ?
顔を横に倒して
格子窓から差し込む陽の光が、房室全体を上品に照らし出していた。
──まるで、女子の房室じゃないか。
質素な衛兵の宿舎とはまったく異なる広い房室。梓春はそこではたと気がつく。まさか不貞を……と最悪の事態が頭に浮かぶが、それをかき消すように
──いやいやいや、それはないだろう!
梓春はこの二十年を清廉潔白に、天子に身を
だがしかし、昨夜の自分の行動が思い出せないのも紛れもない事実であった。
昨日はいつものように門番として見張りをしていたはずだ。しかし、その後ちゃんと宿舎へ戻ったのだろうか。その辺りの記憶がどうにも
まずは、誤解を招かないように一刻も早くここを出て、状況を
いいや、身の潔白を確信するまで、逃げてはいけないのではないか。
梓春にはこの状況での最適解が分からない。
責任、追放、死刑……などの恐ろしい言葉が頭の中に渦巻いている。
「うっ……」
とりあえず、このまま寝ていてはいけない……と起き上がろうとするが、身体が鉛のように重く、上半身を起こすだけで精一杯であった。
全身がだるい。熱を出してしまったのだろうか。頭痛もするし、何か変な感じが──。
ガシャン!
突然、何かが割れる音がして、反射的にそちらを見る。
すると、房室の入口で、若い娘が
歳は十五、六歳だろうか。娘は桃色の衣を
身なりからして宮女だろうか。衣の
この房室の
ということは、ここは娘の主人の房室ということだ。
──はて、これは本当にまずいかもしれない。
梓春の背中を嫌な汗が伝う。
たとえ何もしていなくとも、貴人の住居で夜を明かしたと知れれば、どんな罰が待ち受けていることか。梓春は身分の低い下級官吏であるから、おそらく死罪は免れない。
そう考えた途端に、斬首刑や絞首刑など恐ろしい想像をしてしまう。
「ち、違うんだ! これは…………んん?」
梓春は娘に向かって必死に弁明しようとするが、口から出た声がどうもおかしい。
──やっぱり、風邪でも引いたか?
梓春が
「……よかった、もうお目覚めにならないかと……」
「へっ?」
娘は梓春の
何が起きているというのだ。見知らぬ娘が梓春に
どうやら、悪事を働いてしまったわけではなさそうだが、訳が分からない。
「なあ……ここはどこなんだ?」
梓春は疑問を口に出してみるが、先程から感じる強い違和感に顔が引き
明らかに声色が高い。いや、高いというよりも声そのものが違う。
問われた娘はぽかんとした後、涙を
「そんなの、
「ああ、采月宮か、さい……はは……は?」
ふふっと安心しきった表情を浮かべる娘をよそに、梓春は虚空を見つめる。
──采月宮に、采妃……そうか、夢か。夢だな!
梓春は直ぐに夢との判断を下して、ぐいっと頰を引っ張ってみるが、明らかに梓春のものとは違う、柔らかい
「噓だろう!?」
梓春は頭を抱えた。心の叫びが声に出てしまったようで、「采妃様……?」と娘の心配する声が聞こえ、さらに追い打ちをかけられる。
采月宮とは、後宮にある采妃の住まう宮のこと。采妃とは、皇帝の五人の
梓春の膝元で泣いている娘は、先程こちらに向かって「采妃様」と呼びかけた。
二度も言うのだから、聞き間違いではないだろう。
梓春は動転し、ふらふらとよろけながら、なんとか寝台から立ち上がる。
すると、娘はその場で
娘に構う余裕などない梓春は、
鏡面は
「えっ……ええっ!?」
姿見越しの自分を見て梓春は
目の前にいるのは、梓春ではなかった。口から出る声だって女子の
手入れの行き届いた長く柔らかな髪と、ぷっくりと赤らんだ丸い頰、亜麻色の大きな
身に纏う、淡い
なんて美しい人なのだろう……と、梓春は姿見に映る姿に思わず
その容姿は、衛兵服の骨張った梓春のものとは似ても似つかない。
──本当に女になってしまったのか……!?
恐る恐る自分の胸元に手を伸ばすと、そこにはたしかな膨らみが存在した。梓春は呆然と、下ろしていたもう片方の手も胸に添える。
「あ、ある! ちゃんと柔らかい……」
手を動かした時に伝わるその柔らかな感触に、梓春は顔が赤く火照るのを感じた。
──なんてこった……!
梓春はその場に倒れてしまいそうだった。違和感は胸元だけではないのだ。
まさか……と思い、そろりと下に手を伸ばしてみても、そこは空虚だった。明らかに、あるはずのものがなくなっているのだ。
「やっぱりないっ!」
赤くなった顔が、今度は青ざめていく。なんという
女体どころか、娘の発言からするに、この身体は後宮の妃である采妃のものだ。
「なんで、俺が采妃に……!?」
絵物語でしか見た事がないような現象が、自分の身に降り掛かっている。到底信じられないが、幾ら頰をつねっても痛覚は非常に
姿見の中の采妃の顔は青白く、口角がぴくぴくと引き攣っている。
梓春は不可解な状況を打破しようと、記憶を
すると、昨日の出来事が徐々に思い出されてきた。あの恐ろしい悪夢が。
采妃と入れ替わったこの状況には、昨夜の事件が関わっているに違いない──。
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