光の裏側

宮塚恵一

第1話 雛祭りの哀情(香苗の場合)

 夫だった男との離婚調停が終わったその日、私は李人りひとに電話をした。夫との離婚の直接の原因となった──いや、違う。原因を作ってくれた男の子に、一言お礼の言葉は述べておくべきだろうと思ったからだ。


『もしもし、香苗かなえさん?』

「久しぶり、李人くん」

『お久しぶりです! 香苗さんから電話もらえるなんて嬉しいです! ここ数ヶ月は、流石にご迷惑かと思い、連絡を控えていましたので!』


 電話の向こうから、嬉しそうな李人の声が聞こえてきて、私は思わず笑った。まるで子犬のようにコロコロと表情を変える歳下の男の子の向きだしの感情は、浴びていて気持ちが良い。


「夫と正式に離婚できたの」


 私は李人に、手短に要件を伝えた。これで私も娘も煩わしいことから一つ解放される。


「ありがとうね」

『何がです?』


 通話先でキョトンと首を傾げる李人を想像して、私は一瞬だけクスリと笑った。


「こう言うのはちょっと、間違っているのかもしれないけど、こうして無事あの人と離れることができたのはあなたのお陰だから」

『いえ、僕は何も。僕は夫のいる人妻を襲った、馬鹿で浅慮な若者でしかありません』


 李人の声が、シュンと小さくなった。もちろん、私も李人も、世間一般的に褒められた関係ではない。

 私は李人と不倫をしていた。李人は元々、娘の秋穂が中学生の頃に通っていた塾の先生だった。何に影響されてか、今の李人は金髪メッシュで髪をオールバックにまとめているけれど、垂れ目で自信のなさげな雰囲気はその頃からずっと変わらない。娘が高校に進学してからは塾もやめ、との接点もなくなったけれど、そんな彼と再会したのは風邪気味の夫が急に食べたいと言い出した八朔はっさくを買いに、スーパーに赴いた時だった。


「あ、どうも」


 私と同じく、青果売り場で商品を吟味している李人に、私はペコリと頭を下げた。塾にいた頃とは違い、髪を金髪に染めていたせいで後ろ姿からは一瞬気付かなかったが、顔を見てしまえばそれは見知った彼の物に違いなかった。


「あ、秋穂さんのお母さん」


 向こうも私の顔は覚えていたようで、にこやかな笑顔を私に向けた。


「秋穂さんは最近どうですか?」


 軽く挨拶だけするつもりが、向こうから話を続けてきた。私も特に急ぐ必要はなかったから、何を思うこともなく李人の会話に付き合った。


「反抗期って言うんですかね。私の言うことは何も聞きませんよ」

「でもちゃんと志望校に入れたんですから、立派です」

「いえ、先生のおかげです」

「夕飯の買い出しか何かですか?」

「夫が風邪気味で、柑橘系の物を食べたいというので」

「ああ、僕と同じですね。僕も今ちょっと喉がやられてて、ビタミンが欲しくなるんですよね」


 その時にしたのは、そんな何でもない世間話。そして李人は青果売り場の八朔をじっくりと見比べて吟味して、「多分これが一番甘くて美味しいですよ」と私に少し小ぶりな八朔を手渡した。それから、何となしに同じ時間にスーパーに出向くと、李人の姿を見つける機会が増えた。私も李人には散々秋穂の在学中に面談等で家庭のことを話しているから知らない相手でもないし、秋穂が高校に入ってからはママ友との交流も減っていたから、私も家のことや娘のことを愚痴るには、李人はちょうど良い相手だった。

 そんな風にいつもの日常にちょっとした憩いがうまれてから少しして、私は夫の浮気を疑うようになった。どうも、仕事先で会っている女性と、何度か私には内緒で食事に行ったりしているらしい。私が夫の財布の中をこっそり確認した時、私には仕事で遅くなると言っていた日にも関わらず、ぐちゃぐちゃになったホテルの領収書を見つけた時にはもう、彼の浮気を確信した。私は興信所に相談して、夫の浮気証拠を掴むことを望んだが、果たしてそれでどうしたいのかと問われれば、言葉に窮した。娘の秋穂ももう良い歳だ。これまでは娘の為と言い聞かせていたけれど、思い返してみれば夫にうんざりしそうになったことは何度もある。この間の八朔のことだってそうだ。夫も風邪気味だったかもしれないが、私だってあの日は体調が万全だったとは言い難かった。私のことを労ってくれても良いのに、夫は私の買ってきた八朔を自分では剥かずに私に剥かせて、私に分けることすらせずに一個まるまると平らげてしまった。別にそれが悪いということではない。けれど、そういう少し嫌な気持ちの積み重ねが、夫の浮気という罪を目の当たりにしたせいで、私の中で一気に彷彿してきた。


「でも、私も悪いんだよね」


 仕事で忙しい夫と日々の家事で疲れる私。同じ家の中にいる時間は決して少なくはなかったはずなのに、会話の機会を避けていたのは私の責任でもある。


「どうしました、香苗さん?」


 そんなことを悶々と考えていたからだろうか。いつものようにスーパーで会った李人が、心配そうな表情をして、私の顔を覗き込んでいた。彼と何度か会話を重ねているうちに、李人は私のことを秋穂さんのお母さんではなく、香苗さんと名前で呼ぶようになっていた。


「いえ、何でもありません」


 私はフルフルと頭を横に振った。そして李人から顔を背けようとしたが、彼はそれを許さなかった。


「顔が真っ青です。お疲れなんですよ、きっと。そういう時は無理せずに休まないと」

「でも、まだ家のことが」

「たまには良いじゃないですか。あ、僕が行きつけのカフェがあるんです。一緒に行きましょう。それで、少し元気を取り戻してから帰った方が絶対良いですって」


 李人は私が買い物の為にひいていたカートを手に取ると、そのままレジに向かい、会計を済ませた。そして荷物を全て自分で持って「あ、流石に重いですね」なんて、あの垂れ目で笑った。私はそれを見てクスクスと笑い、そこまで言ってくれるのなら、とカフェに付き合うことにした。スーパーから歩いて五分ほどの場所にあるカフェは、秋穂がまだ小学生だった頃には夫と秋穂と私の三人とで、よく通っていた場所だった。あの頃は、夫も買い物にはよく付き合ってくれていて、今李人がそうしているように、しか重い荷物は全て夫が持ってくれていた。カフェに入ってすぐは、私も李人も頼んだコーヒーとサンドイッチを無言で食べていたが、その一時は確かに彼の言う通り、ホッと一息つけるものだった。思えば、もう何年もこうして自分だけの時間をゆったりと過ごすことが減っていたかもしれないな、と思う。李人がコーヒーを一杯飲み終わり、ふうと満足そうな息を吐く。


「どうですか? ちょっとは楽になったのでは?」

「はい。本当ですね。ありがとうございます」

「じゃあ、そろそろ帰りますか」

「あ」


 そう言って腰をあげようとする李人に、私は思わず手を伸ばした。


「香苗さん、どうしました?」

「いえ、後少しだけ」


 小声でボソボソと言う私の言葉に、李人はニッコリと微笑んだ。


「良いですよ。僕も一杯じゃ物足りないな、と思ってたところですし。香苗さん、奢ってくれます? スーパーでは僕が支払いましたし」

「あ、そうだった。ごめんなさい、気がつかなくて」

「良いですって」


 私は、李人に夫のことを話した。もしかしたら、夫が不倫しているかもしれないこと。それを疑って、興信所に調査を依頼したこと。それをはっきりさせて夫の気持ちをまた私に向けたいということ。その全てを赤裸々に語った。李人は私が話している間、ずっと真剣な眼差しで私を見つめ、困ったような、今にも泣き出しそうな雰囲気の顔で、うんうんと何度も相槌を打った。


「私も、あの人と夫婦でいることを当たり前に思っていたのが悪かったんですよね」


 夫の浮気は許されざることだ。けれど、それを許してしまった自分にも非がある。そう思ってしまう悲しみは、やはり消えなかった。


「本当にそうですか」


 けれど、李人はそんな私に真っ直ぐな瞳でそう返した。


「自分も悪いだなんてそんな、誤魔化すことないんじゃないですか」

「誤魔化してなんか……。それに、男の人にはやっぱり若い子が自分に好意を向けてくれるってのは魅力だろうし、私にはもうそういうのもないし」

「香苗さんにはしっかり魅力がありますよ。こうして家庭を壊さないように頑張ってきたんじゃありませんか。秋穂さんも立派に育ってる。香苗さんが悪いことなんてありません。もう一度、旦那さんともしっかり話し合ってみては?」

「そうかも……うん、話聞いてくれてありがとね」

「このくらいでしたらいつでも」


 私の感謝の言葉に、ニッコリと嬉しそうな笑う李人の表情は、私にはあまりに眩しく思えた。帰ってから、私は李人の言葉を頭の中で反芻していた。

 ──香苗さんにはしっかり魅力がありますよ。

 そんなこと言われたの、何年ぶりだろうか。洗面台で顔を洗いながら、私の頬が、私の気持ちとは裏腹に赤く染まっているのが、鏡に写る自分を見て分かった。



👑


 それから数日後、もしかしたら杞憂で終われば良かったのに、という疑惑が的中していたことを、私は知った。興信所から、夫が若い女性とホテルに出入りする写真が送られてきたのだ。それは間違いなく、夫の浮気の動かぬ証拠であり、夫とその女性との交際が一夜限りな物なんかではなく、継続して行われているものだとありありと示す物に違いなかった。覚悟はしていたはずなのに、私はその写真を見て、笑いが止まらなくなった。夫からの「今夜はカレーが良い」というメールに、律儀にカレーの材料を買いに行く自分があまりに滑稽だと感じた。


「香苗さん?」


 引き笑いをしながらセットも諦めたボサボサの髪でカートを引く私は、さぞ不気味であったろうに、李人は私に声をかけた。私が顔を上げ、李人を見た時、堰き止めていた感情が爆発した。両の瞳から涙がポロポロと溢れる。そんなみっともない姿を晒す私の肩を李人は支えた。


「しっかり。またちゃんと、落ち着きましょう」


 李人に誘われるまま、またあのカフェに足を運んだ。夜はバーにもなるその店は、夕方頃からはもう夜のメニューを解禁しているのを私は思い出し、ワインを一杯頼もうとした。李人はそれを制して、店員さんに改めて声をかける。


「ワイン、デカンタで。グラス2つ」


 そう言って注文を済まして、李人は沈み込んだ私の顔を覗き込んだ。


「僕も付き合いますよ」

「……ありがとう」


 運ばれてきたワインを飲みながら、私は夫の浮気の証拠が出たことを李人に話した。李人は相変わらずその話を真剣に聞いて、私の飲むワイングラスが空になる度に、何も言わずにおかわりを注いでくれた。店を出る頃には、心地良い浮遊感が私を支配した。死にたいほどに嫌なことがあっても、こうして話を誰かに聞いてもらうというだけで、少しは心が軽くなるものだな、と思っていると、李人が私の頬に手で触れた。


「李人先生?」

「この間、僕はあなたは悪くないと言いました」


 李人は頼りなさげな垂れ目で、私をじっと見つめる。その顔には少しだけ火照りが見えた。


「でも、それで自分の選択肢を狭めるのは、良くないんじゃないですか? 自分が悪いと思うなら、もっともっと悪くなってしまえばいいんです」


 李人はそう言って、頬を触るのと反対側の手で私の顎をクイと持ち上げる。そして軽く唇を重ねて、あの垂れ目の困った顔で私に笑いかけた。


「そして僕はあなたよりももっと悪い、人妻を誘惑するクズです。だから、あなたは悪くないんです」


 言っていることが、さっきと丸っ切り違う。けれど、その申し出は私にとってとても甘美で、抗いがたいものだった。



🏨


 ホテルでシャワーを浴びてすぐ、李人は私の服を脱がせた。私は抵抗するふりをしたが、李人は構うことなく私の両脚を大きく広げ、股の間に舌を伸ばした。私がやめてと口にしても李人は私の体を舐めるのをやめることなく、ついにビクリと快感がつむじから爪先まで貫いても、李人は私の体にむしゃぶり続けた。私よりも、一回り以上歳下の男の子が、私の股の間に顔を埋めて、一心不乱に舌を動かしている。李人は私より、娘の秋穂との方が歳が近いはずだ。それを少しでも思い出すと、罪悪感と今目の前にある快楽との板挟みになって、カフェバーで散々に彼に飲まされたワインによる酔いも手伝って、体の感覚が段々と麻痺してくる。気付けば私は二度目の絶頂を迎えていて、その頃には李人は、そんな私の胸にしゃぶりついていた。李人はふわりと綿を持ち上げるくらいの力で下乳を持ち上げ、何度も啄むように乳輪まで私の胸を咥えて離してを繰り返す。そして舌先の少しだけが触れるくらいだけ、乳首に刺激を与えるものだから、その焦ったさに私は悶えた。布団の上での私は何よりも自由で、この世界の何からも解放されている。その事実から来る快楽が、私の心をより浮かせた。


「悪い男に良いようにされる気持ちはどうですか?」


 李人が耳元でそう囁く。私はうんうんと首を何度も縦に振る。


「早く、好きにして」

「そしたらまた最初からやりますが」

「違う! 違うの」


 私は今度は自分から股を開いた。何度も何度も体を弄られることによる痺れと、快楽と酔いによる浮遊感は、私の正常な判断力を奪う。いや、奪ってくれていないと私が困る。李人はそんな私の頭をゆっくりと撫でて、そのまま彼が私に覆い被さるようにして、私と彼とは一体になった。



🎎


「来なくても大丈夫って言ったのに」

「一応、お祝いですから」


 私が李人に離婚調停の報告をしてすぐ、彼はワインボトルを手に、私の家に来た。李人がインターホンを鳴らしたのに応じたのは、早帰りで家にいた秋穂で、昔の恩師が急に家を訪れたことを、彼女は驚きつつも嬉しそうにしていた。


「これ、あの日飲んだのと同じ物です」


 李人が私に手渡したのは、あのスーパーの近くのカフェバーで飲んだのと同じ、安物のワイン。


「それでは僕はこれで」

「えー、もっとゆっくりしていけば良いのに」


 口を尖らせて李人の服の裾を掴んだのは秋穂だ。私にとっては彼との関係はもはや慣れたものだが、秋穂にとっては数年ぶりの再会だ。


「じゃあ、秋穂さんがどれくらい学校の勉強についていけてるか聞こうかな?」

「うわ、それはえーっと、またが良い、かな?」


 目をキョロキョロと泳がせる娘と、それを見て意地悪に笑う李人を見て、私の心があの日のように何故だかまたふわりと浮き上がる。そんな風に三人で話していると、リビングでスマホの着信音が鳴った。


「──あ」


 私はスマホの画面に映し出される名前を見て、ビクリと肩を震わせた。そこにあるのは、元夫の名前だった。離婚調停も済んで、せっかく一つ肩の荷が降りたというのに、どういうつもりだろう。


「──僕、出ましょうか?」

「え、でも」

「相手が男の方が、向こうも話しにくいでしょうから」


 そう言って、李人は私に向けてスマホを差し出すように促す。私は促された通りに、彼にスマホを渡した。


「──もしもし……何の御用でしょうか」


 李人が元夫との会話を続ける。そんな中、彼はチラリと私と秋穂の方を見て、スマホの消音ボタンを押した。


「雛人形が、実家から見つかったそうです」

「雛人形……」


 李人の言葉を聞いて、思い出した。あまり行事や記念日に興味のなかった私たち夫婦だが、雛祭りだけは大切にしていた。夫が娘の為にお金を貯めて、少しだけ値の張る雛人形を買ってきてくれたんだっけ。秋穂が中学生に上がるまでの間、その雛人形は雛祭りの時期になるとずっと飾っていた。秋穂の成長を祈って、彼が本気になってくれた数少ない思い出の品。そういえば、そんなものがあったのをすっかり忘れていた。


「あー、そういやあったねそんなの」


 当の秋穂はあまり思い入れがなさそうだった。私も、夫との関係を思い出してしまいそうなものは全て売りに出すか、そのまま前の家に置いてきてしまった。今更雛人形が見つかったと言われても困る。


「できたら送りたいって言ってるんですが」

「いらないよ。ね、ママ?」

「そうね」


 私は秋穂に言われるまま頷く。それを見て、李人も大きく首を縦に振ると、消音ボタンを押し直して、元夫との通話に戻った。


「もしもし……はい。二人とも、いらないそうです。……いえ、ありがとうございます」


 李人はそこで、元夫との通話を切った。


「ありがとうございます」


 私は李人に頭を下げた。李人は慌てて私のことを手で制する。


「いやいや、僕のお節介に対してそんな。また何かあったらいつでも相談してください。秋穂さんも」

「はーい」


 気のない返事をする娘に対し、李人は溜息をついた。私は李人を玄関前まで送りにいくと、改めてお礼を言った。


「本当に、ありがとうございます」

「お礼言われるようなことしてないですから。寧ろ、悪いことしかしてない」

「そんなこと……」


 顔を伏せる私に、李人が近付く。そして耳元に口を近付けると、小さな声で囁いた。


「今日、もし良ければまたあのホテルで」


 李人の囁きに私の体がゾクリと震える。目を見開く私を見て、李人はまた垂れ目を歪めて笑った。玄関の扉を閉めて、彼がいなくなる。けれど、また数時間後には──。

 あのちょっと悪ぶった彼に、私はまだしばらく、振り回され続けられそうだった。





(香苗の場合。終わり)

参考https://kakuyomu.jp/works/16818622170345851253

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