5―3 絵の中へ
祐介は進んで行く。絵を背負って。とても重いと感じたが、けっして手放すつもりはなかった。
ふいに目の前の視界が開けた。そこに湖があった。
祐介は背中から絵を下ろした。布の包みを解く。ラップで包まれた絵に、容赦なく雨が降り注いだ。
「マヤ、君はそこにいるんだろ」
祐介は湖に向かって語りかけた。反応はない。
絵を高く掲げた。風で飛ばされそうになったが、必死に堪えた。
「君はここに収まるべきなんだ。本来あるべき所へ。マヤがいなくなったから、お父さんはこの絵を完成させることができなかった。だから君は彷徨っている」
二人のマヤが湖から浮かび上がった。何も身に着けていない姿で水遊びをしている。妖精のように危うく幼いマヤと、大人の成熟を迎えているマヤ。
二人の唇が動いた。
『さあ、あなたも来て、祐介。私と一緒に暮らしましょう』
「そうじゃないだろ、マヤ!」
二人は手を止めて祐介を見た。
『私たちと共に生きないと言うのなら、あなたは必要ない』
それまで眠ったように静かだった湖が激しく波立った。水しぶきが祐介に襲いかかる。
ふいに、女の子だけを死なせておくのは恥のような気がした。そうだ、僕はマヤと一緒に死ななければ。祐介はそう感じた。確信だった。疑いようのない真実に思えた。
絵を掴んでいる祐介の手から力が抜けていく。風に飛ばされた絵は地面で撥ねて転がって行った。
水辺へと近づいた祐介は虚ろな目で足を沈めた。水の抵抗を感じながら中央に向かってゆっくりと歩いて行く。いつの間にか顎まで浸かっていた。
このまま進めば死ねる。マヤと共に。
思考が極端に狭まって他には何も考えられなくなっていた。
やがて祐介は完全に湖に沈んだ。
激しく打ちつける雨を、遠く暗くなっていく湖面の裏側から見上げた。
体重を感じない。方向も分からない。微睡むかのごとく穏やかな気分だ。体が水に溶けていくような感覚に包まれた。
その時、
――さようなら
その声は、どのマヤが発したものか分からなかった。
祐介の意識から光が失われていった。
*
スニーカーの紐を結びながら玄関に掛けてある絵を見上げた。
雨が降り注ぐ森の中にひっそりと佇む湖で、ありのままの白い肌を見せている少女が膝まで水に浸かりながら遊んでいた。振り返った少女の顔に浮かんでいるのは、澄み切った無垢な微笑みだ。
「でかけるの?」
妻が起きてきた。
「うん、雨が降ってるから」
「あの人の所にお参りに行くのね」
「ずっと僕を愛してくれたから」
「妬けちゃうな」
「彼女はもう死んでるよ」
「それ、ジョークのつもり?」
妻は軽く両手を広げて首を傾げた。
「まあ、そう受け取ることもできるだろうね」
「浮気しないでね。裏切ったら、崖から落とすわよ」
「それ、ジョークのつもり?」
祐介と妻は朗らかに笑った。
「会いに行くの? あの子に」
寝ぼけた顔で娘が玄関に出て来た。
「そうだよ」
「よろしく伝えてね」
「分かった」
行ってらっしゃい。
祐介は大切な二人の家族に告げた。
行ってきます。僕の、マヤ。
愛人は、死んだ幼なじみ 宙灯花 @okitouka
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