4―2 地下室

 高齢の男は意外にしっかりとした足取りで古いビルの狭い階段から地下へと降りて行った。祐介は体中の痛みに耐えながらついて行く。壁のスイッチが入れられると、電球の暖かな光に満たされて部屋の中の様子が浮かび上がった。古びたソファーセットと簡易なベッドの他には、ほとんど物がない。

「まあ、座れ」

 視線でソファーを勧められた。暴行を受けたせいで酷く痛む体を投げ出すように祐介は腰を下ろした。

「あなたは?」

「摩耶の父だよ」

「……上条睦彦」

「ほう、知っていたのか」

 なぜこんな所にマヤの父親がいるのだろう。祐介は改めて周囲に視線を巡らせた。壁中に絵が掛けてある。そのすべてに、幼くも妖しくて眩しい白い肌をした少女のマヤが描かれていた。あるものは草むらに座り、またあるものは木にもたれている。

 他にも様々な情景の絵があった。崖から飛び降り、何かに撥ね飛ばされて、ベッドで火に包まれている。背中にナイフが突き立っているものもあった。

「あの子はおそらく、私に会わせたくて君をここに誘導しようとしたのだと思う」

「どうして僕に会わせるんですか」

「それは摩耶にしか分からないよ」

 答えられないことを訊くなとばかりに、睦彦は首を振った。珈琲を二つ淹れてテーブルに置くと、祐介の向かい側にある古びた木製の椅子に座った。

「それでは、あなたはなぜ僕を連れて来たんですか」

「君に頼みがあるからだ」

 睦彦の声からは、なんの心情も読み取れなかった。

「僕にできることですか」

「できないと思うことを頼まないよ。そして、これは君でなくてはならない」

 祐介は身を乗り出して睦彦の口元を見つめた。

「死んでくれ。摩耶のために」

 電球の光が揺らいだように感じた。睦彦は静かな目をしている。他人に死ねといっている男には見えなかった。

「どういう、ことですか」

 問われた睦彦は目を閉じてうつむいた。息をついて首を振る。

「あの子はもう死んでいるんだよ、三十五年前に。でも、死ぬことができない」

 やはりそうなのか。祐介は自然にそう思った。理屈は分からないが、少なくとも普通に生きている女ではないはずだ。

「なぜ今頃になってマヤは僕の前に現れたんですか。マヤとは子供の頃に一度、湖で一緒に泳いだだけですよ? マヤは消えてしまったし、僕は溺れそうになりました」

「そうか、それでなのか」上条は眉を上げた。「なるほど。そこのところは知らなかったんだ。やっと一つ謎が解けた。なぜ、君なのかが」

「ぜんぜん答えになっていませんよ」

「ああ、すまない」睦彦は、珈琲を口に運んで一つ息をついた。「君が摩耶と再会した時、雨が降っていたはずだ。違うか」

「いえ、その通りです。雨の降る中、マヤは岩の上に座っていました」

「摩耶は雨を通して君の気配を感じた。君は摩耶に関する記憶を呼び覚まされた。二人の時間が再び繋がった瞬間だ」

 わけが分からない。この人は何を言っているのだろう。そう思いながらも、祐介は睦彦の話から目をそらせなかった。

「死ね、というのは?」

「湖に行って摩耶と一緒に死んでやってくれ。そうすれば、あの子は本当に死ぬことができる。崖の上でそれは試みられた。君と共に死ぬつもりだったんだ。でも、思いは遂げられなかった。その後も何度か失敗が繰り返された」

「そのうち成功するんじゃないですか」

 祐介の声は少し投げやりなものだった。

「私もそう予想していた。でもどうやら違うようだ。あの子の中で何かが変わった。そんなふうに思えてならない。摩耶はもう、死のうとはしないだろう。逆に、生きようとしている。君と」

 だから助けたのか。自分が刺されてまで。

「でも湖なら。あそこならきっと、摩耶を死なせることができる。なぜなら、あの子の本体は今もそこにいるからだ」

「無理ですよ。子供の頃、僕は何度も湖に行こうとしました。でもたどり着けませんでした」

「それは君が湖に行きたくないと思っていたからだよ。溺れかけた君は心のどこかで湖を恐れていたんじゃないか? あるいは、あの湖は雨が降っていないと出現しないからだろう」

「マヤも雨の時にしか現れませんね」

「湖と共鳴しているんだと思う。湖がある時、すなわち雨が降っている状況でしか存在できないようだ」

「湖と雨、そしてマヤに、なんの関係があるんでしょう」

「理屈は私にも分からない。でも、雨が降ると現われる湖で摩耶は溺れて死んだ。それは間違いない」睦彦は立ち上がり、壁から一枚の絵を外した。「持って行きなさい」

 その絵にはマヤが描かれていなかった。雨の中、湖だけが寂しそうに静かに佇んでいる。二十七インチのパソコン用モニターぐらいのサイズだ。木製の額縁に納められている。それは深い色に枯れて、所々欠けていた。

「あるべき姿に返してやってくれ」

 祐介は右脇に絵を抱えて部屋を出た。地上に上がって振り返ると、たった今、上ったばかりの階段はもう、見当たらなかった。

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