3―2 湖の絵
何かが焦げるような臭いに気づいて祐介は目を開いた。周囲のすべてを真っ赤な炎に囲まれていた。寝ぼけていた頭は一気に覚醒した。容赦のない熱気が裸の肌を痛いほどに煽り立てて焦がそうとした。天井は今にも焼け落ちそうだ。
ベッドの縁から、舌舐めずりをするように炎が迫ってきた。
マヤの名を叫ぼうとして吸い込んだ息に嫌な臭いを感じた。酷く頭が痛んで目の前が暗くなった。
赤い光が散乱していた。まだ燃えているのか、と思ったが、回転するランプだった。制服らしきものを着た男が顔を覗き込んできた。
記憶が閃いた。あの時と同じだ。湖で溺れたあと、目を覚ますと祐介の周りを家族が取り囲んで見下ろしていた。
祐介は地面に敷かれた青いビニールシートの上で横になっていた。手首に黄色い札を着けられている。トリアージタグというやつだろうか。この色なら、命には関わらないだろう。
意識、戻りました、と誰かが叫んだ。
祐介の周りには、他にも何人も寝かされていた。消防士と救急隊員らしき男たちが走り回っている。地面は水浸しだ。雨のせいばかりではない。
そうか、火事だったんだ、と気づくと同時に、祐介はマヤのことを思い出した。周囲にそれらしい人物は見当たらない。
「一緒にいた女性はどうなりましたか」
部屋番号を告げて、近くにいた隊員に訊いてみた。
「同室の人がいたんですね?」彼は無線機を手に取り、緊迫した様子でどこかと連絡を取った。だが、不思議そうに首を傾げた。「あなたの他には誰もいなかったらしいんですが」
やはりそうなのか。でもきっとまた会える。祐介はマヤとの再会を確信している自分を、さほど奇妙には感じなかった。
「大丈夫か」
ふいに声をかけられた。
「大丈夫に見えますか」
「少なくとも、生きているようだが」
「ええ、元気いっぱいですよ」
保木刑事は口もとに少しだけ笑みを見せて、祐介の顔の傍にしゃがんだ。
「そうか。ならば、ちょっと昔話に付き合ってくれないか」上体を起こしかけた祐介に、保木は手のひらを向けた。「ああ、そのままでいい。聞いていてくれれば」
祐介は頭が重くて意識に
「今から三十五年ほど前のことだ。私は新米で、交番勤務だった」遠い記憶をたぐるように、保木は目を細めた。「ある日、奇妙な通報があった。娘がいなくなった、と。それだけなら少しも変じゃない。時々あることだ」
「ええ、そうでしょうね」
「君はトラックに撥ねられた女を、マヤ、と言ったね」
「はい」
「飛び降りたのも、今日、一緒にいたのもマヤなんじゃないのか」
年齢を重ねて獲得したのだろうか。保木は、何事をも見通すような透き通った瞳をしていた。祐介は答えられなかった。
「やはりな。マヤ、という名前で思い出したんだよ。その時行方不明になったのは、
マヤの話と一致する部分がある。しかし、三十五年前に六歳だったなら、現在の彼女は四十歳を過ぎているということになる。とてもそうは思えない。女盛りへと一歩踏み出そうとしている二十代後半。せいぜいそのぐらいにしか見えない若さの輝きがある。
「捜索のために写真の提供を求めた。ところが、摩耶の写真は一枚もないと言うんだ。その代わりに絵を見せられた。何一つ身に着けていない、ありのままの姿をした自分の娘ばかり絵に描いていたんだよ、上条は」
湖の畔で見たマヤの幼い肌が祐介の脳裏に蘇った。
「しかし、彼の妄想だとも考えられる。なぜなら、上条の戸籍に娘の記載はない。何か訳ありという可能性もあるから、なんとも言えないが」
「それで、摩耶は出てきたんですか」
「いや、見つからなかった。上条は湖がどうのとしつこく言っていたが、森の中にそんなものはなかった」
「湖は実在しなかったんですね」
祐介が一度しか辿り着けなかった湖は、やはり幻だったのだろうか。
「ここに当時のメモがある。ちょうど署で上条摩耶の事件を振り返っている時に火事の連絡が入ったんだ。で、なんとなく気になって現場を見に来たら君がいた」
「縁がありますね」
「そうだな」穏やかな表情で祐介の目をしばらく見つめてから、保木は自分の手元に視線を落とした。「メモによると、上条の絵の中に風景のみのものが一枚だけあった。雨に煙る湖だ。だから、どこかにモデルとなった場所があるのかもしれないが、少なくとも捜索をした範囲内では見つけることができなかった。問題はそこからだ」
保木は一つ息をついた。
「上条は娘の摩耶を題材にして何枚もの絵を描いている。その中にこんなものがあった」メモを読み上げていく。「落下していく摩耶。何かと衝突して撥ね飛ばされた摩耶。そして、眠ったまま燃えている摩耶」
「事実に
「それがね」と、保木は困ったような顔をした。「覚えていないんだよ。そして、その部分のメモも見つからない。メモには雨に濡れた跡があって、破れているんだ」
「僕はオカルトは信じません。けど」
「私もだ。だが、我々には知ることのできない不思議な力が、この世の中にはあるのかもしれない。そう思えてきた。だから、君に言えることは一つしかない」
保木は真っ直ぐに祐介を見つめた。
「マヤに近づくな」
すみません、と救急隊員が声をかけてきた。搬送の順番が回ってきたようだ。
「悪かったね、苦しんでいる時に変な話をして」
君は死んだ息子に似てるんだ。
そう呟いて、保木は背中を丸めて寂しそうに去って行った。
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