3 燃え上がる
3―1 妖精と成熟
突如、見舞われた仕事上のトラブルは、最悪とも言えるタイミングで解決した。
会社で仮眠するには早過ぎて、家に帰るには遅かった。妻と娘はもう寝ているだろう。夜中にごそごそしたら何を言われるか分からない。
祐介はネットカフェかカプセルにでも泊まるつもりで町に出た。取り敢えず晩飯を食べようと思い立ち、店を探している。空腹はとうに通り過ぎていたが、食べなければ体に悪い。それでなくても最近、寝不足で、体調は良くなかった。
空を見上げた。水滴が顔と手のひらに落ちてきた。このところ傘をなくしてばかりいるせいで、今日は持っていない。しかたなく適当に入ろうとした店の前に傘をなくす原因が笑顔で立っているのを見て、祐介はUターンしかけた。
「祐介」
声をかけられた。しかたなく、ゆっくりと振り向いた。
「やあ、不死身のマヤさんじゃないか。崖を飛び降り大型トラックをなぎ倒す。今度はどうやって消えるんだ?」
「そんなことより、一緒にご飯を食べましょうよ」
店の中から流れてくる匂いに食欲を刺激された。向かい合わせに座って、早く出て来そうなもの注文した。間もなく運ばれてきた料理を無言で腹に詰め込む。人心地ついたところで、祐介はようやくマヤの方を向いた。
「君が人間じゃないことだけは分かった。どういう仕掛けなんだ? 宇宙人か、妖怪か、それとも国家最高機密のサイボーグなのか。あるいは――」
「私は女よ」
祐介は虚を突かれたように
「なんだそれは」
「どうやったらそれを確かめられると思う?」
「もう十分だよ。君は無敵で、なぜかは知らないけど僕の前に現れる」
終電の近い時間にも関わらず、レストランは意外なほどに混みあっていた。金曜日の夜だからだろうか。カップルが多い。どこかで一泊することが確定しているのかもしれない。
「ねえ、セックスしましょうよ」
マヤは素敵なアイデアを思いついた少女のように、無邪気な表情を浮かべている。水の入ったガラスコップを持ったまま、祐介はマヤを見つめた。
「ずいぶんストレートな誘い方だね」
「まわりくどいのは嫌いなの」
雨のせいもあるのか、ホテルは賑わっていた。三軒目でようやく部屋を得て、祐介とマヤはファブリック製のふかふかのソファーに並んで尻を沈めた。
「僕の目がたしかなら、間違いなく君はそこにいる」
「あなたもね」
「手を握った感触も覚えている。でも」
「死んだ方がよかったの?」
「そうじゃない。飛び降りてもトラックに撥ねられても君は生きていてくれた。そのことを、とても嬉しく思う。それが僕の素直な気持ちだ」
「幼なじみだから?」
「そうだね」祐介はマヤに笑顔を見せた。「ただ、わけが分からないんだ」
「すべてが分かるなんてこと、あるのかしら」
マヤの手のひらが祐介の太ももの上を滑って来た。足の付け根に向かって。
「おい、まじめに聞けよ」そう言いながらも、祐介は疼きを感じた。「……シャワー」
「え?」
マヤはきょとんとしている。
「するんだろ、セックス」
何回も死んでいるはずの女がシャワーを使っている。そのことに疑問を抱いていないわけではないのに受け入れてしまっている自分がおかしくなって、祐介は一人で笑いそうになった。
立ち上がって窓辺に寄る。カーテンを開いた。ガラスの向こうは板で塞がれていた。強さを増した雨が打ちつけて来る気配だけが聞こえる。
シャワーの音が止まった。マヤは、タオル一枚すら纏わずに出て来た。妖精のようだった体はすっかり成熟して、豊かで柔らかな曲面に包み込まれていた。女の
自分がシャワーをしている間にマヤが消えてしまわないだろうか。それは不安であると同時に期待でもあった。おかしな女にこれ以上深く関わらない方がよいのではないか。
本能的な恐れを抱いていたのかもしれない。気づけばいつもより長くシャワーを浴びていた。
マヤは消えていなかった。
相変わらず何も身に着けていない姿でベッドの縁に座っている。祐介に気づいて振り返った。立ち上がって近づいてくる。二人は息がかかりそうな近さで向かい合った。
柔らかそうな髪に自然なウェーブがかかっている。すっきりとした顔は優しい輪郭を描き、憂いを含んだ深い瞳が静かに揺れていた。筋の通った小さめの鼻の下にある唇はぽってりと肉感的に濡れて僅かに開かれている。その隙間から、それ自体が生物であるかのような湿った舌が悩ましげに動くのが見えた。仄かにソープの香る肌はしっとりと白く潤い――
そっと抱き寄せた。唇を合わせると、マヤは熱い息を漏らして僅かに震えた。
「あの時よりも、ずいぶん成長したな」
「あなたもね」
「おい、どこを見てるんだよ」
マヤは楽しそうに笑いながらつま先立ちになって唇を重ねてきた。
「私、初めてなの、って言ったらどうする?」
少し掠れたマヤの声には、微かな緊張が含まれていた。
「別に構わないさ。でも、こんなにも魅力的なのにどうしてなのかな、とは思う」
「機会がなかったのよ。だって――」
最後まで言わせずにベッドに押し倒した。互いの肌を肌で確かめ合った。真っ直ぐに向かって来るマヤをかわしながら、祐介は初歩から丁寧に女の悦びを教えていった。
ぎこちないながらも、マヤは反応を示し始めた。祐介はマヤを焦らし、貪り、高みへと押し上げた。やむにやまれぬ浮遊感の中で二人の意識は白く弾けて一つになった。
間違いなくマヤは存在する。理屈ではなく感覚として確信した祐介は、安らかな寝息を立てている白い背中を見つめながら、いつしか自分も眠りに落ちていった。
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