2 傘が舞う

2―1 幼なじみ

 仕事からの帰り道。視界の隅で白い影がふわりと動くのが見えた気がして、祐介は足を止めた。

 傘の下で顔を上げた。闇を照らす街灯の下で、女がこちらを見つめている。

 崖での一件から三日が経っていた。その間に、祐介の所に一度、保木刑事が訪ねてきた。崖から飛び降りた女の遺体は出てこなかったらしい。

「マヤなのか」

 ありえない。ありえないのだが、それは現実に起こっている。死んだはずの女が、目の前にいた。

「いきなり飛び降りるなんて、どうかしてるぞ」

 なんだか見当はずれな気もしたが、言わずにはいられなかった。

「あなただって飛ぼうとしたじゃない」

「なぜそれを知っている」

 マヤは祐介を見つめたまま答えない。

「わけが分からない」

 首を振りながら祐介は呟いた。

「そんなに難しく考えなくてもいいのに」

 マヤの声はとても静かだった。

「家はどこだ。まだ森の中なのか」

 祐介は自分が持っていた傘をマヤに差しかけた。

「さあ、どうかしら」

「送るよ」

「なぜ」

「心配だ」

「遠慮しておくわ」

「いいじゃないか。幼なじみだろ」

 その言い方が気に入ったのか、マヤは口元に微かな笑みを見せた。

「駅までなら」

 祐介は左手に傘を持ちかえて右手でマヤの手を握った。柔らかくてしっとりしていたけれど、冷たかった。マヤに触れたのは、それが初めてだった。

 二人は小学生のように手を繋いで、一つの傘に入って緩やかな登り坂を歩いた。無言で駅へと急ぐ周囲の人々には、恋人同士に見えたかもしれない。

 歩行者用信号が赤になった。横断歩道の手前で止まった。

「ねえマヤ。君はそこにいるんだよね」

「あなたの手の中にあるものをなんだと思っているの?」

 祐介はマヤの手を握る力を強めた。逃がすまい、とするかのように。

「なぜ僕の前に現れる」

「同じ質問をしてもいいかしら」

 まだまだ暑い日が続いているが、陽が落ちて時間が経つと少し肌寒く感じられるようになってきた。雨が降っているとなればなおさらだ。さすがにコートを着ている人はいないが、上着を手にした姿は珍しくない。

「僕が湖で溺れている時、君はどこにいたんだ」

「すぐ近くよ。手を伸ばせば届く所に」

「見殺しにしたのか」

「死ななかったじゃない」

「ふざけないで答えてくれ」

 マヤは星を見上げた。その下には黒い山脈が横たわっている。二人が出会ったあの山だ。

「助けたくても、私にはどうすることもできなかった」

 車道用の信号が黄色の点滅に変わった。それが赤になり、歩行者用が青になる直前にマヤは動き出した。手を引かれて祐介も横断歩道に出た。

「まだ青じゃ――」

 祐介の言葉を遮るように、巨大なクラクションが湿った大気を震わせた。赤信号を無視して大型トラックが突っ込んで来る。祐介の少し前を行くマヤがトラックの方を見た。

 雨の中を傘が舞った。

 怒号が飛び交う交差点で、濡れるのも構わずに祐介は地面にへたりこんだ。

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