1―2 沈む
小学三年生だった祐介は、いつものように別荘に来ていた。昼食の時間が終わるのを待ちかねて、父が手作りした竹の釣り竿と安物の虫取り網を持って裏口から外に出た。湿度の高い森の空気は蝉たちの声に満たされていて、木漏れ日は思いのほか強く地面を照らしていた。シャツはすぐに汗で変色し始めた。
ミミズを針に引っ掛けて小川に投げるが、魚はまったく食いついてこない。飽きてしまった祐介は、小川に沿って森の中を登り始めた。落ち葉の堆積した山の中はとても歩きにくかったが、未知の世界を探検するような高揚感が祐介の足を軽くした。
しかし、浮かれた気分は長くは続かなかった。雨が降り出したのだ。木々の葉を叩く雨音に包まれた祐介の前髪から水滴が垂れ落ちて、水の匂いが鼻の奥に広がった。服がびっしょりと濡れて体に張りついてくる。体温は容赦なく奪われていった。それでも祐介は、少年特有の頑固さで歩き続けた。そして、小さな湖を見つけた。
重い灰色の空の下で雨の降り注ぐ湖面は激しく掻き乱されていて、何も映し出してはいなかった。
風景画にするには陰鬱な湖の
少女は何かを感じたように振り返った。柔らかそうな黒髪が揺れた。儚げに潤う虚ろな瞳が祐介を見つめた。濡れた唇が何かを訴えるように僅かに開いている。人形を思わせる白い肌に夏の陽に晒された気配はなかった。
ねえ、泳がない?
囁くような、でもしっかりと耳に届く不思議な声で、少女は祐介に語りかけた。
水着を持ってないよ。
何かに魅入られたように動けないまま、祐介は答えた。
必要ないわ。
少女は天を仰いで両方の手のひらを上に向けた。その時、祐介は彼女の背中に透明な羽を見たような気がした。
白い妖精は緑の草の上で着ているものをすべて脱いだ。再び湖の方に顔を向ける。一歩、踏み出した。
君だけ泳がせておくわけにはいかないね。
なぜそんなことを言ったのか、あとになって考えても分からなかった。でもその時の祐介には、そうするのが正しいように思えた。
少女は初めて微笑んで見せた。
名前を教えてくれるかしら。
妖精の唇が空気を震わせて、祐介の耳たぶをくすぐった。
この子は僕を気に入ってくれた。祐介はそう思った。だから名前を訊かれたに違いない。
僕は祐介。君は?
マヤ。
少しだけ年下に見えるマヤに背を向けて、祐介は彼女と同じ姿になった。
二人は湖に近づいた。そろって片足を水に浸ける。二つの波紋がすぐ近くで重なり合いながら広がっていった。しかしそれは、あっけなく雨に掻き消された。
マヤは湖の中央に向かってどんどん進んでいく。
あんまり深い所へ行ったら危ないよ。
心配になった祐介が声をかけた。しかしマヤは振り返ることもなく泳ぎ始めた。雨に
祐介は慌ててあとを追った。だが、泳ぎの上手いマヤにどんどん引き離されていく。
湖の中央あたりまで進んだところでマヤが消えた。潜ったのだろうか。しばらく様子を見たが浮いて来ない。祐介は持てる限りの力で泳いでその場所に向かった。マヤはいなかった。水面は雨で荒れていて、湖の中はよく見えない。
突然、祐介は何者かに足を引っ張られるような力を感じた。抵抗したが、水中に引きずり込まれた。思わず声を出そうとして、胸の中に蓄えていた空気をすべて吐き出してしまった。雨を受けてさざめく水面を裏側から見つめた。それは際限なく遠ざかり、暗くなっていった。
ふと目を開くと、祐介を見下ろす顔が並んでいた。父と母、そして兄だ。
祐介は森の中に倒れていた。雨はやんでいて、強く陽が差している。
マヤがいなくなったんだ。そう言う祐介の話を、誰も取り合わなかった。暑さで倒れて幻覚を見たのだろう、ということになった。
以後、一人で森に入ることは禁じられた。でも毎年別荘に行く度に、祐介はこっそり小川を遡った。しかしどういうわけか、マヤはおろか、湖も見つけることができなかった。
いつしか祐介は、マヤのことを忘れた。
「どうしてそんな所にいるんですか」
祐介は崖の上の女に声をかけた。
「こっちに来て一緒に座りませんか。そうすれば分かりますよ」
女は気だるげな様子で囁いた。眠いわけではなさそうだが、憂うような瞳に軽く瞼が重なっている。
祐介はゆっくりと歩み寄った。その時、靴の下で砂が鳴って、ひやりとした。
慎重に隣に座った。女に傘を差しかける。
顔を上げて遠くに視線を送った。雨が降っているなりに、それはそれでたしかに素晴らしい眺めだったが、何もない足下が不安を誘って、景色どころではなかった。
「私、子供の頃、この近くに住んでいたんです。湖の畔。父が画家で、と言っても自称なんですけど、景色が気に入ったらしくて、私を連れて住み着きました」
「マヤ」
祐介がそう呼ぶと、女の顔に懐かしい笑顔が広がった。
「覚えていてくれたのね、祐介」
マヤは立ち上がり、崖を蹴って前に飛んだ。
祐介も立ち上がった。下を覗くと、崖ぞいに落ちていくマヤの背中が見えた。風に煽られた白いワンピースが激しくはためいている。紺色のリボンのついた麦わら帽子が、ゆらり、ゆらりとマヤのあとを追いかけていった。岩の上には赤い靴のみが残された。
マヤだけ飛び降りさせておくわけにはいかない。なぜかそんな気がした。サングラスと傘を投げ捨てて祐介も前に出た。足下で砂粒が鳴り、湿った風が前髪をなでた。
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