愛人は、死んだ幼なじみ
宙灯花
1 白い少女
1―1 奇岩の庭
崖から突き出した岩の先端に、若い女が一人で座っている。
紺色のリボンを結んだ麦わら帽子から流れ出ている黒髪が、山肌を渡る風に弄ばれるように揺れていた。ゆったりと身に着けたワンピースはウェディングドレスのように純白だ。何もない空中に無造作に素足を投げ出している。きちんとそろえて傍に置いてある靴は血のごとく赤い。しっとりと降る雨の中、傘も差さないで、
怖くないのだろうか、と
標高一千メートル級の尾根が連なる緑深い山脈の南斜面に、唐突に姿を現わす奇景だ。階段状に広がる剥き出しの岩盤の上に、ゴツゴツとした大きな石が気まぐれに転がっている。自然の作り出した、躍動感溢れる庭園。
起伏に富んだ固い地面には荒れた砂粒が乗っていて、しかも濡れているので、気を抜くと靴底が滑る。手すりや柵の類はない。
子供を連れて来るのは危険だと思われるが、頓着しない親が多いのだろう、黄色い声がいくつも重い灰色の空に溶けていく。
祐介も幼い頃、親に連れられて来た記憶がある。近くに別荘を持っていて、毎年夏の終わり頃に家族そろって訪れたものだ。
非日常の中で過ごす数日間に祐介の胸は躍った。比較的、緑が多い町に住んでいるとはいえ、どっぷりと自然に包まれる機会は多くない。森で虫取りをして川魚を釣り、木に登っては腕や足を擦り傷だらけにして、母に叱られた。
雨が強くなってきた。祐介はリュックから折り畳み傘を取り出して広げた。慎重に足を運んで崖に近づく。
久しぶりの休日だった。仕事が立て込んで出勤が続いている。ゆっくり眠りたいのに妻に揺り起こされて、朝食の間中、愚痴と嫌味と、どうでもいい噂話を聞かされた。
あんなに熱く愛し合ったのに、一緒に暮らし始めて七年も経てばこんなものか。
ふと、一人で山を散策することを思いついて窓の外を見た。陽差しが強い。上着は必要ないだろう。半袖で十分だ。
愛用のリュックを掴んで妻に声をかけたが、彼女は小さく頷いただけで、外国製連続ドラマが映る画面から目を離さなかった。
ケーブルカーとロープウェイを乗り継いで八合目あたりにたどり着いたところで、にわかに小雨が降り始めた。だが、傘を差すほどではない。登山道をしばらく歩いて、奇岩の転がる観光スポットへと向かった。
崖の上の女は何をするでもなく、ただじっと前を見つめている。
遠い昔からずっとそこに座っていたかのように風景に溶け込み、それが故に誰の注意も引いていないようだった。
祐介は薄い色のサングラスを外した。すると女は顔を上げて祐介の方に振り返った。目が合った。
その瞬間、すべての音が静止して、世界が二人だけになったような気がした。なぜなら彼女の瞳が、あの夏の日の記憶へと繋がっていたからだ。
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