君が花に溺れるまで

咲花楓

菖蒲

 いつしか願った、ありきたりな言の葉。そんなもんでもいいだろうと、静かに口を噤む。

 五月蠅いくらいに輝くいつかの日の焦燥も、足早に駆け抜けた君の目の前も。きっと消えてなくなる。壊れていく、あの日を。

 そんな記憶を忘れてしまわないように、言葉を綴る。

 これはそう、君と過ごした最悪の思い出だ。


 朝焼け、鮮明に映るのは君の顔。静かに笑った君はそっと僕の手を握る。

「きれいだね、晴くん。」

 瞳に映る茜色に心を預ける彼女の横顔は、とても綺麗だった。

 午前五時前、玄関の開く音で目を覚ました僕は、ベッドに彼女がいないことに気付いた。同じようなことはこれまでにもあった。彼女は突然、家を出て行ってしまうのだ。

 もう何回も捜した。捜すうちに慣れていくし、彼女の行く場所は大体予想できるようにはなってきた。

「文目、綺麗なのはわかるけど、突然家を飛び出さないでくれ。」

 優しい目で、じっくりと僕の目を見る。

「んー、どうして?」

「そりゃあ、心配になるからだよ。何かあったのかな、とかさ。」

「そっか。晴くん、やっぱり優しいね。」

 心配は優しさなんてものじゃないと思うが。

「まあ、いいよ。ほら、帰ろう。」

 そう言って握られたままの手を引く。

「うん、帰る。」

 そう二つ返事をする彼女の顔は、未だ茜色に照らされていた。


 彼女は別に不真面目な人間だとかそういうのではない。普段は真面目だし、穏やかで優しい。突拍子な行動をすることもないし、落ち着いている。だからこそこんなことをされるとより不安になってしまう。

 何か、理由がある。きっとそうなのだろうと思っていた。それでも、どうしてか直接聞くことはできなかった。

 初めて彼女がいなくなったのは付き合い始めたばかりの頃だった。あの日も玄関の開く音で目が覚めた。

 覚めた僕の目に飛び込んできたのは、殻になったベッド。ほんの少しの彼女の熱が残るシーツ。掛けてあったコートがなくなっている。鞄はいつもの場所に掛けてあった。彼女が外に出たのだと、確信した。

 そのときは、今までなかったことに動揺した。午前四時半を指す時計の秒針が響く部屋の中、必死に考えた。学校の時間は当然まだだし、何か出かける予定などもない。

「……文目っ」

 気付けば僕はコートを手に取り玄関を飛び出していた。

 まだ冷たい温度が残る朝の空気。重いそれに押しつぶされてしまいそうな僕の心は、ひどく不安を感じていた。

 まだ近くにいるはず。痕跡も何もない住宅街をただひたすら走る。人のいない道がやけに寂しく感じる。夕焼けとはまた違う赤い空は、そんな僕を静かに照らしていた。

「あっ」

 ふと、遠目に見えた橋の上。そこに彼女が見えた。どこか物悲しそうな顔が見えた。

「文目っ」

 全速力で走って辿り着いた先、そこにはやっぱり彩華がいた。

「は、晴くん……!?どうして、ここに……」

「それはこっちの台詞だろう……!?なんで急に、こんな朝っぱらから……」

「えっと……それは」

 不意に見えた、俯く彼女の目に滲む涙。手すりを掴むその手は震えていた。

 まあ、僕もたまに夜に出歩きたくなったりするし、そういう衝動なのだろう。そう自分に言い聞かせ、問い詰めるのをやめた。少し見えた、涙の意味も。

「ほら、帰るよ。」

 差し出した手を優しく握られる。初めて感じる感触、柔らかくて、温かかった。

「手、初めて握ったね。」

 目を細め、頬を赤らめて微笑む。やっぱりかわいい。

「っ、そんなんいいから。早く帰るよ。」

「はーい。」

 いけない。つい見惚れてしまうところだった。隙を見せるとすぐにああいうことをしてくる。本人は無自覚かもしれないが、心臓に悪い。

 少し熱くなった頬を彼女から背ける。きっと顔が赤くなっている。彼女にはバレていないだろうか。まるで照れ隠しのように手を強く引いてしまう。やけに川の流れる音が鮮明に聞こえた気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る