遠ざかる音
雲居晝馬
第1話
古文の教科書の文字が、滲んで見えた。
──世に語り伝ふべきことならねども、心の慰めに書きおきつるなり。
先生の低い声が、眠気の中にぼやけて響く。
春先の陽光が窓越しに差し込み、ぼんやりとした温かさが肌にまとわりつく。まぶたが重い。指先を教科書の端に当て、わずかに爪を立てた。意識を保つために。
お腹が少し苦しい。昼休みに食べた弁当のせいだ。
今日は、卵焼きがいつもより甘かった気がする。
母が作る卵焼きは、塩気の強い日と甘い日がある。作り置きしているわけじゃなく、その日の気分で味付けを変えているらしい。朝の忙しさに追われながら、適当に手を動かしているせいだと前に言っていた。
「なんか今日は甘いね」って、今朝言ったら、「気のせいじゃない?」と笑っていた。
そんなことを考えていた、その時だった。
「瀬野、ちょっと。」
名前を呼ばれた。
顔を上げると、教壇の前に先生が立っていた。その横には、見慣れないスーツ姿の男性。背筋の伸びた、事務的な雰囲気。
胸の奥がざわつく。
「職員室まで来てくれるか。」
何が起こったのか、すぐには理解できなかった。
椅子を引き、立ち上がる。クラスメイトの視線が、わずかにこちらへ集まったのを感じる。ざわめきが小さく広がる中、私は先生の後をついて教室を出た。
廊下を歩く。
先生の革靴の音が、一定のリズムで響いている。
私は無言のまま、その背中を見つめる。先生の後ろを歩くのは、何年ぶりだろう。小学生の時、悪いことをして職員室に呼び出された時みたいだ、と一瞬思った。けれど、今はそんな種類の呼び出しではない。
喉の奥が乾いていく。
視界の端で、窓の外の光が滲む。花が散って幹だけになった桜が揺れている。
職員室の前で、先生が立ち止まる。
「ここで待っていて。」
私は頷くしかなかった。
先生が扉を開け、中に入っていく。
私は、廊下の端にあるベンチにそっと腰を下ろした。
冷たい。
スカート越しに、じわりと金属の冷たさが伝わってくる。
「お母さんが、倒れたそうだ」
先生がそう言った時、その言葉の意味は分かった。なのに、感情がついてこなかった。
今ごろ、母はどうしているのだろう。意識はあるのだろうか。苦しんでいるのだろうか。それとも、もう――
そこまで考えて、息が詰まる。
大丈夫、大丈夫、大丈夫。
頭の中で、誰に言うでもなく繰り返す。
時間の流れが遅い。
制服の袖を握りしめる。指先にじんわりと汗がにじむのが分かる。
職員室の扉が開いた。
「瀬野。」
先生が呼ぶ。
私は立ち上がった。
「お父さんが迎えに来た。」
駐車場に、一台の車が停まっている。
父だった。
けれど、まるで別人のように見えた。
車のドアが開く。私は無言のまま助手席に乗り込んだ。
シートベルトを締める手が、かすかに震えた。
エンジン音。
車が動き出す。
「……病院、どこ?」
やっと出た声は、思ったよりも掠れていた。
「市立総合病院。」
それ以上、父は何も言わなかった。
街の景色が流れていく。見慣れたコンビニ、横断歩道、バス停。すべてが同じなのに、何かが違って見えた。
信号待ちの間、ふと隣を見る。
父は前を見たまま、ハンドルを握る手に力を込めていた。
その手の甲に、浮き上がる血管がやけにくっきりと見えた。
遠ざかる音 雲居晝馬 @314159265359
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます