氷の中のダイヤモンド

shinmi kanna

第1話 桜散る 

朝もやの向こうに東から昇る陽を受けて、蜃気楼のようにユラユラと揺れながら、灰色のビルの影が見えていた。

窓を開けると風もなく、湿気を帯びた生暖かい空気に顔を包まれた。

今日も蒸し暑い一日になりそうだ。外に出るのも億劫になる。

父から来たメールを開くと、一層気が重くなる。


書いてあるのはいつも同じことばかりで、読む気にもならない。

どうせいつものように、「就職はまだか」に決まってる。

だが、念のため、開いてみることにした。

案の定「まだ決まらないのか」だった。


返信はいつものように「まだです」にしようかと思ったが、もう同じことを5回も書いている。すでに季節は終わったが、「桜散る」と書いて送信した。

すると5分も経たないうちに「切腹しろ」と返ってきた。


親父のヤツめ、まだ赤穂四十七士の亡霊と縁を切れないのか。困った親父だ。

理紗子は今は亡き爺様から「陣之内家は赤穂四十七士の末裔だ」と聞かされていた。

どうせ嘘に決まってるけど、親父は今でも頑なに信じていた。


赤穂浪士に似ているところといえば、親父は学生時代、吉良上野介の屋敷があった本所松坂町でバイトをしていて、12月14日の朝、自転車のおっさんと喧嘩して、かすり傷を負ったくらいだ。

もし、自転車のおっさんが清水一角という人だったら、話としては面白いが、そんな落ちもない。


親父が侍に憧れていたのは事実で、座右の銘は「武士は食わねど高楊枝」だった。

理紗子の「明日は明日の風が吹く」とは大違いだ。


似ているとすれば、酒が好きなとこくらいだ。

東京の大学に通っていた理紗子が実家に帰ったときは、昼間から二人で飲みだして、一升瓶がすぐに空っぽになった。

そんなときは近所に住んでいる山中さんと中山さんに電話をすると、二人は一升瓶を下げてやってきた。

山中さんと、中山さんは、山と、中が逆なだけで、どっちが山中でどっちが中山だったか、こんがらかってしまい、二人が話す言葉で区別していた。


山中さんは日本一下品な言葉、といわれる播州弁のネイティブだった。

中山さんの方はちょっと荒っぽい、河内弁のネイティブだった。


この二人とは理紗子が子どものころからの付き合いだったので、理紗子は二人のいいとこ取りで、バイリンガルとなった。

なので、この二人が来ると、


「こら、理紗子、なんで飲まへんのや、もっと飲まんかいな」

「われは何を言うとるんや、うちはよう飲んどるやないけ、飲んどらへんのは、おめえやろ」と、他から見たら喧嘩をしてると思うに違いない。


山中さんには一郎という理紗子より一個上の息子がいて、中山さんには律子という理紗子と同学年の娘がいた。

この二人とも子どものころはよく遊んでいた。


ある日、明石焼き(タコ焼きの元祖)を食べに、明石駅前の魚の棚という商店街に行くことになった。

魚の棚は地元ではウオン棚といい、明石焼きの店がいっぱいあって、観光客がゾロゾロと歩いていた。

三人は「たこ磯」という店に入り、それぞれ30個注文し、一郎は一個目をガブリと噛んだ。すると一郎は「アチィー、水、水」と言って、のたうち回った。


それも当然で、明石焼の中には鉄板の上で焼かれて、怒りの火を噴くタコが入っている。それを一気に噛んでしまったら、口の中は熱地獄になって、猫舌でなくても火傷をする。


すると隣の席にいた外国人のお客さんが、「オウ、ハーット、 ピテフウ」と言って、一郎にビールを飲ませた。それで一郎は一命を取り留めることができた。

ところが、ビールの旨さを知った一郎は、店のお姉さんに「姉ちゃん、ビール1本くれへんか」と横柄に、播州弁でビールを注文した。


だけど、播州弁でなくたって、子どもにビールを出す店はどこにもない。

「ビールやって? 何を言うとるんや、ワレ!」と播州弁の一郎も真っ青になるほどのド迫力で、姉ちゃんにたしらめられた。


ところがそれでは済まなかった。

店を出たあと一郎は自販機でビールを買って、「グイグイ」と飲みだした。

それだけならまだしも、もう2本買って、理紗子と律子にも「旨いで、飲んでみいや」と言ったので、理紗子と律子も飲んでみた。すると本当に旨くて、グビグビと飲みながら、魚の棚商店街を歩きだした。


だけど、ビールを片手に持って、グビグビ飲む子どもを見逃すほど、兵庫県警は甘くない。何しろ山〇組の本部がある県だ。

酔ってフラフラする3人は、パトカーに乗せられて、明石警察署に連行され、コッテリと油を搾られた。


酔いが醒めたころ帰宅を許されて、家でも叱られて、翌日には学校でまた、コッテリと、油を搾られた。


☆☆☆


そんな昔を懐かしむ余裕もなく、理紗子は今日も居酒屋のバイトに精を出していた。

するとひょっこりと、播州弁の一郎が、客として現れた。


「律子に聞いて来たんやけど、やっぱ、ここにおったんやな」

「一郎やないか、久しぶりやな、元気でおったんか」


「物置を作る会社におるんやけど、忙しゅうてかなわんわ」

「あんたは仕事で忙しいんか、ええな、うちは仕事探しで忙しいわ」


「そうやったな、律子も心配しとったで」

「律子は銀行に入ったんやろ、貸金庫の中の物を盗んだらあかんと言うといてな」


「律子はそないなことせえへんで、理紗子とはちゅうわ」

「何をいうとるんや、あんたも気ぃ付けぇな、そやないと前科2犯やで」


「俺には前科はあれへんで」

「ウオン棚のこと忘れたんか、あんたは兵庫県警のお世話になったんやで」


「それを言うたら理紗子も律子も共犯や、3人揃って務所行きや」

「務所には行きとうないな、そやけど今は金がないよって、銀行強盗でもやるしかないな」

「金が要るんやったら、もっと働けばええやろ」


「さっき言ったやろ、今は無職や、バイトじゃ食っていかれへんって」

「なぁ理紗子、俺の会社に来いよ、忙しすぎて今年になって過労死が10人いて、半期で去年の年間実績を上回ってもうた。この調子で行ったら30人は死ぬやろな」


「兵庫県は斉藤とか、なんとかいう知事のパワハラで、自殺者が出て問題になってるけど、あんたの会社が新聞に載ったら、兵庫県はもっと有名になって、観光客がどっと押し寄せて、あの知事は今以上に強気になるんやろな」


「そうやな、俺の会社の責任は重いな。社長に首吊り用のロープを送っとくかな」

「名案やな、そやけど、あんたの会社は何をしとるんやったかな」


「物置を作る会社や」

「物置いうと『100人乗っても大丈夫』って、宣伝してる会社かな」


「ちゃう、ちゃう、あそこはうちのライバル会社や」

「じゃあ、もっと大きいんやな」


「それがもっと小さいんだ」

「社員は何人いてるんや」


「30人くらいかな」

「確かさっき、30人くらい過労死するって言うとったな。30人死んだら空っぽになってまうな、そんな会社に入れっていうんか、そんな会社には行きとうないな」


「本当は俺の会社はある大手の下請けで、人手不足なのは、その大手の会社や」

「その会社ってどこにあるんや」


「JR 山手線の高輪ゲートウェイ駅の近くや」

「高輪ゲートウェイいうたら、泉岳寺にも近いな、親父もきっと喜ぶやろな、ほな、行ってみようか、担当はなんて人や」


「人事課の分倍河原さんという人や、ええ人やで、俺からも言うとくな」

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