【短編小説】彼方への旅路 ―母なる大河の物語―(約3万字)

藍埜佑(あいのたすく)

第一章:祈りの声

 三上里奈は四十歳の誕生日をひとりで迎えていた。東京の小さなアパートの窓から見える夜景は、無数の光の点が集まって作る人工の銀河のようだった。暖かいお茶を手に、窓ガラスに映る自分の顔を見つめる。一九八〇年生まれの彼女の目には、これまでの人生が刻んだ細やかな皺が見えた。


 コンピューターの画面に並んだ数字の羅列が、最近の彼女の人生そのものだった。大手保険会社の経理部で十五年。入社当初は夢見ていた海外赴任も、結婚と離婚を経て、いつしか遠い記憶となっていた。そして三ヶ月前の母の死。余命宣告から実際の死までわずか二週間。あまりにも突然で、心の準備などできるはずもなかった。


「四十歳か……」


 里奈はウイスキーのボトルに手を伸ばし、いつもより多めにグラスに注いだ。母の遺品整理はまだ半分も終わっていない。先週末も実家に行ったが、母の着物を前に、何時間も動けなくなってしまった。


 母・絹子は伝統工芸士として生きてきた女性だった。結婚しても「三浦絹子」の名前で仕事を続け、父が早くに他界した後も、ひとりで里奈を育て上げた。強い女性だったが、最期は小さく、弱々しかった。


「人は死んでも、母なる大河に還るだけなのよ」


 それが母の残した最後の言葉だった。里奈には意味がわからなかった。母は仏教徒でもなかったし、特定の宗教に傾倒していたわけでもなかった。死の直前の譫妄せんもうだったのかもしれない。


 しかし今夜、その言葉が頭から離れなかった。里奈はノートパソコンを開き、衝動的に検索した。


「母なる大河」


 検索結果には様々な河川が表示された。ナイル、アマゾン、そしてガンジス。中でもガンジスの写真が彼女の目を引いた。祈りを捧げる人々、沐浴する姿、そして火葬の儀式。死と再生が交錯する聖なる河。


 突然、強い衝動に駆られた。


「インドへ行きたい」


 その思いは、まるで外部から与えられたものかのように鮮明だった。ガンジス河を見たい。なぜそう思ったのか、自分でも説明できなかった。だが、それは単なる旅行への憧れではなく、もっと切実な、避けられない運命のようにも感じられた。


 翌朝、里奈は珍しく目覚ましより早く起きた。目の前には、昨夜の衝動で予約したバラナシ行きの航空券の予約確認ページが表示されていた。通常なら慎重に計画を練る彼女にしては、あまりにも突飛な行動だった。


 だが後悔はなかった。むしろ、長い間忘れていた高揚感があった。


 会社の上司・田中部長に休暇願を提出すると、彼は眉をひそめた。


「三上さん、君が休暇を取るなんて珍しいね。どこか行くのかい?」


「はい、インドに」


 田中部長は老眼鏡の奥の目を丸くした。


「イ、インド? 君が?」


 そう驚かれるのも無理はなかった。これまで彼女の海外旅行といえば、せいぜいハワイかグアムが関の山だった。


「バラナシという都市に行きます。ガンジス河を見たいんです」


「へえ……」と田中部長は首を傾げたが、彼女の真剣な表情に、それ以上は何も言わなかった。


 会社帰り、里奈は旅行会社に立ち寄った。少し前までは、こういった旅のアレンジもネットで済ませる時代になっていたが、さすがにインドとなると不安があった。店内に入ると、若い女性カウンセラーが笑顔で迎えてくれた。


「いらっしゃいませ」


 名札には「西村恵」と書かれていた。二十代後半といったところだろうか。短めのボブヘアに、やわらかな笑顔が印象的な女性だった。


「インドのバラナシへ行きたいのですが」


 恵は少し驚いた表情を見せた。


「バラナシですか? 観光地としては少し変わった選択ですね」


「ええ、でも行きたいんです。ガンジス河を見たいんです」


 恵はにっこりと微笑んだ。その笑顔には、どこか懐かしさがあった。


「実は私も以前そこへ行ったことがあります。きっと素晴らしい経験になりますよ」


 恵は熱心に説明を始めた。バラナシは世界最古の都市のひとつで、ヒンドゥー教の聖地であること。ガンジス河での沐浴や祈りの儀式について。そして、


「死ぬために?」


「はい。ヒンドゥー教では、バラナシで死を迎え、遺灰をガンジスに流すことで、輪廻の苦しみから解放されると信じられています」


 里奈は恵の言葉に聞き入った。恵はパンフレットを取り出しながら続けた。


「日本人向けの小グループツアーがあります。女性だけのグループですが、いかがですか?」


 里奈は迷わず頷いた。


「お願いします」


 恵は予約画面を操作しながら、ふと里奈を見つめた。


「失礼かもしれませんが……何か特別な理由があって、バラナシを選ばれたんですか?」


 里奈は少し躊躇った後、正直に答えた。


「母が最近亡くなって……その最期の言葉に導かれたような気がするんです」


 恵の表情が柔らかくなった。


「そうだったんですね。私もそうでした」


「えっ?」


「私もかつて、大切な人を亡くして、その後にバラナシに行ったんです」


 恵は微笑んだが、その瞳には深い悲しみが宿っているように見えた。


「あなたの旅が、心に平和をもたらしますように」


 恵の言葉は単なる社交辞令ではなく、本当の祈りのように聞こえた。


 アパートに戻った里奈は、クローゼットから大きなスーツケースを取り出した。何を持っていけばいいのか。インドの気候や文化について、彼女の知識は限られていた。恵に勧められた旅行ガイドブックを開き、持ち物リストをチェックする。


 ふと、母の着物箪笥が目に入った。引っ越しの際に持ってきたものの、まだ手をつけられないでいた。勇気を出して引き出しを開けると、懐かしい桐の香りがした。一番上にあったのは、母の愛用していた絞りの半襟。手に取ると、かすかに母の香水の香りがした。


 里奈は思わずその布を胸に抱きしめた。突然、涙があふれ出た。三ヶ月間、ほとんど泣けなかった涙が、今になって止めどなく流れ出した。


「お母さん……どこにいるの? 本当に……大河に還ったの?」


 窓の外では、小雨が降り始めていた。一滴一滴が窓ガラスを伝い、やがて大きな流れとなっていく。里奈はその様子を、涙越しに見つめていた。


 翌朝、里奈はパスポートを確認し、最終的な荷造りをしていた。母の半襟は小さく折りたたみ、胸ポケットに入れた。どこかで大河に流したいという思いがあった。


 そのとき、インターホンが鳴った。


 宅配便だった。送り主は「西村恵」。旅行会社のカウンセラーからだ。小さな包みを開けると、美しい桃色のパシュミナストールが入っていた。添えられたカードには、丁寧な筆跡でこう書かれていた。


「インドでは朝晩冷えることがあります。これをお守りに。あなたの旅路が祝福されますように」


 里奈は思わず微笑んだ。見知らぬ土地への不安を抱えていた彼女に、この優しさは大きな勇気を与えてくれた。


 里奈はストールを首に巻き、スーツケースを持って玄関を出た。新しい旅立ちの予感に、胸が高鳴っていた。

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