窓の向こうに、私はいます
季都英司
ティータイムの夢と窓の向こうの思い出
あの夢を見たのは、これで9回目だった。
私がもっとも輝いていたあの日々の夢。
それは不思議であたたかくて、でもどこかスリリングで、どこまでも特別だったあのティータイムの光景。
ある二人が大きな窓のあるあの部屋の中で、互いに紅茶とコーヒーを飲みお菓子を食べ、そしてたわいもないお話に興じていたあの日の夢。
そう遙か前、私があの雪降る森の中の洋館で旅の魔女と過ごした日々の夢だ。
誰に言っても信じてもらえないだろう。私も信じてもらおうとも思わないし、そもそも誰かに話そうとも思わない。
私は本物の魔女と知り合いだった。しかも別の世界からやってきた異邦人で、本当に魔法を使うことができる、まさに『魔女』。
『旅の魔法』使いを自称し、世界を越えて旅をすることと、行ったことのある別の世界を窓の向こうに映し出すそんな魔法を得意としていた。
おとぎ話や神話に出てくるような魔法使い。
魔女と私のティータイムには、つねに魔女がつくった窓から見る異世界の景色がともにあった。その『向こう側』の景色が私は大好きだった。
本当に楽しいティータイムだった。
夢の記憶がまだ残っている起きたばかりのうろんな頭で、私はそんなことを考える。
昔の記憶と夢の映像が錯綜して、なんだか自分がまだあの時代にいるような気になってくる。もちろんそんなわけはないのに。
あの日々を思い返して私はくすりと笑う。頭に浮かぶのは魔女の言葉と窓の向こうの景色ばかり。
魔女はぶっきらぼうで一見厳しそうなくせに、その実とても優しかった。
私は魔女のことが大好きで、叶うならずっと一緒にいたいと思っていたくらい。
私には美味しい紅茶を淹れてくれてやたらこだわりがあったくせに、自分は紅茶を全く飲まずコーヒーばかりだったこととか、毎日やってくる私に文句ばかり言ってた割に毎日手作りの菓子を用意してくれたこととか。
なぜだろう、あの魔女との日々のを思い出すと、楽しいことばかりが思い出される。実際に楽しいことしか無いような気になってくる。
でもそんな輝かしいティータイムの時間はとてもとても短かくて、私が中学生だったころの冬の季節の間だけだった。
ずっと変わらないはずの永遠のようなティータイムは、魔女が何も言わず別の世界に旅立ってしまったことで急な終わりを告げたんだ。
まるで冬が終わり雪が溶け、急に春の草木が芽吹くように、景色は一変してしまったんだ。
さみかったし悲しかった。たくさん泣いた。
あの時、まさに私の世界がひとつ終わりを告げたのだと思う。
でも、恨む気持ちはまったくなくて、たくさんの素敵をくれた魔女への感謝だけがそこにあった。
子供が急に階段を上って大人になるように、あの素敵な日々はなんの予告もなくいきなり終わったんだ。
それが、いきなりここに来てあの日の夢を見るなんて、私の中でどういう心境の変化が起こったんだろう。
夢なんて長いことみていなかったし、ましてあの頃のことを夢見るなんて全くと言っていいほどなかった。普段でさえ記憶にふたをして思い出さないようにしていたくらいだ。
最初にこの夢を見たのは一年前、見たのはあの洋館のあった森の入り口の景色それだけ。
なのにそこをきっかけに少しずつ夢を見る感覚は短くなっていった。
半年前、3ヶ月前、1ヶ月前、3週間前、1週間前、3日前、昨日、そして今日。 気がつけばもう9回目。
しかも夢の内容は回を重ねるごとにどんどん鮮明になっていった。
森の入り口から、森の洋館に向かう道の景色を少しずつ追い、洋館の景色が見え、あの窓のある小部屋が見え、昨日はついに部屋にいる魔女の姿が見えた。
魔女の姿が夢に出てきた朝には、涙が頬を伝う自分を止められなかった。
そして今日、二人でティータイムを楽しむ景色が見えたわけだ。
私は最初に見た夢をきっかけに、あの日を懐かしもうとしているのだろうか?
それとも、なにかの不思議な力が私に働いているのだろうか?
徐々に近づいていく夢の景色と夢の間隔は、自分では無いなにかの不思議な力を嫌でも想像させてしまう。
そんなわけはないってわかっている。魔女がいない今この世界に魔法はもう無いのだから。
きっとこれは単に、私の中であの日々を懐かしむ想いが強くなってしまったからなのだろう。
そう思って自分を納得させようとする。
窓の外を見た。今日はあの日のように雪がちらついていた。
冬が本格的にはじまったようだ。
あの時は毎日のように窓の向こうをながめていたっけ。そんなことを思い出して私は微笑む。
『魔女の窓』別の世界を映し出す魔女がつくった不思議な窓。
世界に一つだけの、特別のかたまりだ。
窓の映る景色は、どれも幼い私を心から魅了した。
星々の間を抜けて走る光の列車。
宝石でできた花畑。
海の中の街。
フィクションの中にしかでてこないような景色が、毎日私の目の前にあったんだ。どれだけその世界を夢見たことか、そんな世界を旅する魔女の存在にどれだけあこがれたことか。
結局その想いは伝えられないままだった。
私は起き上がると、ジャムを塗ったトーストと紅茶だけの簡単な朝食を済ませる。魔女との日々を経て残ったものと言えば、この紅茶を飲む習慣とたまにお菓子を作るようになったことくらいか。
もちろん魔女が出してくれたような高級な紅茶には遙か及ばないけれど、その香りの中にあの思い出の残滓を嗅ぎ取ることくらいはできる。
私は記憶にふたをしていたつもりだったのに、実はこんなところであの日をつなぎとめようとしていたのだろうか。
旅だった魔女はどうしているだろうか?
まだ、私のことを覚えていてくれるだろうか?
そして、ひょっとして時には私のことをあの窓の向こうから見ていてくれたりするのだろうか……。
今、私は魔女の窓の向こう側にいるのだから。
もう、私は魔女と同じ窓の側にはいないのだから。
――ああ、だめだ。
私の中で何かがはじけてしまったのがわかった。
いつかした記憶のふたははじけ飛び、あの懐かしい日々の思い出が光の奔流のように飛び込んできた。
一度その思いを確かにしてしまうと、もう動かずにはいられなかった。
私はばたばたと着替え、簡単に身だしなみを整えると家をでた。
向かう先はあの森の洋館だ。
何か考えがあったわけでも無い。確信があるわけでは無い。
ただ、いてもたってもいられない気分になっただけだ。
特に理由は無いのに急ぎ足になる。
あのとき住んでいた家にはいない私は、電車を乗り継ぎあの日にいた街に辿り着く。駅から森までの道はあの人は違うけど、雪に包まれた街はあの日の記憶と感覚を少しずつ取り戻させてくれる。
楽しかった毎日。今日はどんな景色が見られるのか、どんな美味しいお菓子が食べられるのか、そして魔女とどんな愉快な話ができるのか。
そんなことばかりを考えていたっけ。
森の入り口に着く。
雪に覆われた森はまるで時間が止まっているかのようだ。
誘われるように入り口を抜け、小道を歩く。雪を踏む音と感触が足下から伝わる。寒さがあるはずなのにどこか暖かい。
森のトンネルを抜けると少しだけ視界が開けた。
ああ、ここだ。そこにはあの洋館があった。
まだあったんだ……。私は安堵とともにどこか悲しい気持ちになる。
もし無くなっていてくれれば諦めがつくのに。そう思っていた自分がいた。
洋館はあの日よりさらに古くなっていたし、人の住んでいない家は時間以上に建物を朽ちる寸前のように感じさせた。
冷たい取っ手を引き扉を開ける。
中はおどろくほど何も変わっていない。
毎日暖かな火がともっていた暖炉も、魔女のお気に入りのカップが入った食器棚も、魔女が美味しい菓子を焼いていたかまども、すべてがそのままだ。
涙があふれる。この景色は確かに魔女がいたあの日を証明してくれているようだった。私はここであの日を過ごしたんだ。確信が胸に帰ってくる。
……ここに魔女がいたんだ。
きしむ階段を上る。ティータイムを過ごした小部屋を目指す。
あの日のように、窓を眺めて熱いコーヒーを飲む魔女が浮かぶ。
何かを期待して、扉を開ける。
……もちろんそこにはだれもいなかった。
あの日なくなった魔女の窓も。
当たり前だ。もう魔女はいないのだから。
魔女は別の世界を旅している。もうこの世界には来ない。
旅とはそういうものだと、他ならぬ魔女が言っていたのだから。
私はおかしくなり、誰もいない部屋で笑い出した。
何を期待していたんだろう。たかが夢くらいのことで。
失ったものはかえらない。旅だったものはかえらない。
それくらい知っていたはずなのに。
私は気を取り直して部屋を見回した。
窓以外は何も変わっていない部屋は、さっきまでと違って懐かしい思い出の景色として見ることができた。
私もあれから大きくなった。いろんなことを経験し、たぶん少しだけ強くなった。今の私を見て魔女はどう思うだろうか?
成長を喜ぶだろうか、それともあの日のようにからかうように笑うだろうか。
それは少しだけ楽しい想像だった。
私はあの窓があった壁に向かって呼びかける。
――久しぶりだね。
――私はこんなに成長したよ。自分でお菓子も作るようにもなったよ。たまにだけどね。
――それに、この世界を少しだけど旅してみたよ。あなたのほど壮大でも不思議でもないけれど。旅の楽しさも大変さもちょっとだけわかったよ。
そんなとめどない言葉を頭に浮かべた。
一つ大きく息をついた。きっとこれが私の中であの思い出の区切りになる、そう思えた。
最後にもう一度、今度は声に出して呼びかける。
「今あなたはどこの世界にいますか? この世界を見てくれていますか? 私のことたまには思い出しますか?」
そして、私は窓に背を向け歩き出す。歩きながら言葉を紡ぐ。
「窓の向こうに、私はいます。この世界で旅をします」
扉に手をかけた。
ふと、後ろから光が来たような気がして私は振り向いた。
胸が大きく高鳴った。
そんなわけない。そんなはずはない。なのに……。
そこには無いはずの窓があった。
向こう側から光があふれる。
止めたはずの涙が光とともにあふれる。
窓の向こうには森の景色ではない、見たこともない景色があった。
暖かくて、不思議な、切り取られた世界の景色がそこにはあった。
どこかの世界でだれかが思った。
――おや、足音が聞こえるねえ。
窓の向こうに、私はいます 季都英司 @kitoeiji
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