初めての晩ご飯
「お、お師匠様は、素敵な大人の女性ですよ?」
「うぅっ……」
グラスが気を遣ってくれることが、アルテを余計に複雑な気持ちにさせた。
「お師匠様は全然子供みたいなんかじゃありませんし、ちゃんと大人に見えます! ええ、それはもう!」
「……」
やはり、グラスはとても優しく、そしてそれ以上に素直な少女であるらしかった。気を遣っているのがあまりにも見え透いている。
それに第一、彼女自身も初対面のときは、アルテに対し『小さい』と言ってきたではないか。
「……わたしって、いくつに見える?」
「えっ⁉ あー……えぇっと……」
突然尋ねられたグラスは、動揺を隠せないといった様子だった。
しどろもどろになりながら、彼女はこう答える。
「ご、五〇〇歳とか、ですか……? あっ、い、いえ、大人の女性にはできるだけ若い年齢を答えなくてはいけないんだったかしら……えぇと、一六〇歳?」
彼女なりの気遣いの気持ちの果てに迷走した末、どちらの方向にお世辞を使えばいいのか分からなくなってしまったのだろう。
無論、五〇〇歳と一六〇歳、どちらも本心から言っていないのは明白だった。目が泳いでいたし、もし万が一アルテがそこに気づかなかったとしても、途中に挟まれた独り言のせいで台無しだ。
「ごめんね、こんなこと聞かれても困るよね……」
年上から「自分はいくつに見えるか」などと聞かれたら、誰しも多かれ少なかれ返答に迷うものだろう。
年少者を困らせる年長者にはならないようにしようと心掛けているアルテだが、つい大人げない発言をしてしまったと心の中で静かに反省する。
……それに、そんなことを聞いたところで、却って傷を深めるだけだと分かっていたのに。
実年齢が一二〇〇歳程度で、五〇〇歳に見えると言われるのはまだ許容できる範囲だ。だが現実はそう甘くはない。アルテは五〇〇歳どころか、一六〇歳——グラスとだいたい同年代——にすら見えていないだろうから。
いくらエルフが一生を若い姿で過ごす種族だからといっても、同族であればなんとなくで相手の年齢を察することができるものだ。
けれど、同族にまで子供と間違えられることの多いアルテは、それだけ子供っぽい姿をしているということなのだろう。
「はぁ……」
途方に暮れ、テーブルに突っ伏すアルテ。
そんな彼女を起こそうとするかのように、彼女の瞳に窓から差し込んできた光の色は——夕暮れの、オレンジ。
「……って、もう夕方⁉」
アルテはばっと顔を上げ、窓の外の空を見る。
「あら、本当。夕焼け空、綺麗ですね」
「うん、綺麗、だけど……」
さっきまで昼の真っ只中だと思っていたのに、もうこんな時間だなんて。時の流れは実に速いものだ。
時間の流れがこうもあっという間に感じられるのは、やはり年のせい……だけではないだろう。今日はこれだけいろいろなことがあったのだから、そう感じるのも無理はない。
「グラス、お腹空いてない?」
「お腹、ですか? いえ、全然平気です。お気遣い、痛みいりま……」
——きゅるるる~……。
「あ……」
ふいに、辺りに気の抜けた高い音が鳴り響く。
その出所は間違いなく、目の前でかぁっと顔を赤く染め上げた少女だろう。
「ふふっ。グラス、何か食べたいものはある?」
可愛らしい音が響くと同時に、頬を赤らめた少女に微笑みかけてアルテは尋ねた。
思えば、グラスも異国からはるばるここまで一人でやってきたのだ。大変な道のりだっただろうし、お腹も空いていて当然だろう。
「い、いえ、お気遣いなさらず! 私、どんなものでも食べますので!」
「もう、またそうやって。あなたこそ、そんなに気を遣わないでいいんだよ? わたしたちはこれから家族みたいなものなんだから」
そう告げ、アルテはにこりと少女に微笑みかける。
一つ屋根の下で、師匠と弟子としてこれから二人で生活していくのだ。
それも、決して短いとは言えない年数を。錬金術は当然、一朝一夕で極められるようなものではないのだから。
そうと決まればもう、血の繋がりなどはなくても家族のようなものだろう。だから彼女も、自分と接する際には家族も同然のように気負わないでほしいとアルテは思うのだ。
「家族……ですか?」
少し驚いたように、グラスはアルテの言葉を繰り返す。
それから彼女はしばらく押し黙ったのちに、ごく小さな声で反芻するかのようにその言葉を呟いた。「…………家族、ですか」と。
「……で、では、お言葉に甘えてもよろしいでしょうか?」
「ええ、もちろん! 何でも作るから!」
アルテが満面の笑みでそう返すと、グラスはきらきらと輝いた瞳でこう答える。
「では私……バレーヌ・キッシュが食べたいです!」
試行錯誤と悪戦苦闘の末に、今日の夕飯はパンケーキを作ることになった。
最初こそ、バレーヌ・キッシュなる聞き覚えのない料理を作ってみようとはしたのである。けれどまず、必要な材料からしてまずこの辺りではそう簡単に手に入るものではなかった。
料理名に入っているぐらいだから、おそらくこの料理の要なのであろうバレーヌ——グラスの故郷の古い言葉ではクジラのことをそう呼ぶらしい——が、まずこの地域ではなかなか出回らないのだ。
それでは仕方がないので、別の肉を使って再現しようとグラスに調理方法を尋ねたはいいものの、彼女はそれをほとんど全く知らなかった。
そしてアルテもまた、キッシュと呼ばれる料理をほとんど知らなかった。食べたのは遠い異国の地で一回きりであり、どんな料理だったかあまりよく覚えていないのだ。
そんな二人が合わさって知恵を出し合ったところで、ろくなものができないのは目に見えていた。
「ごめんね、食べたいもの何でも作るって言ったのに……」
「いえ、そんな! 私が悪いのです、この地域にはクジラのお肉を食べる習慣がないことぐらい、少し考えたら分かったはずですのに……それに私はもう、お師匠様のパンケーキのお腹になっていますので!」
バレーヌ・キッシュが作れないと分かったとき、それではアルテの得意料理——パンケーキが食べたいと言ってきたのは他でもないグラスだった。
少女はアイスブルーの瞳を輝かせ、調理の下準備を行うアルテの手先を眺める。
「私、こんなに近くで誰かがお料理している所を見たの、初めてかもしれません……その不思議な形をした道具は、そうやって使うのですね!」
不思議な形の道具、とグラスが言ったのは、アルテが今手にしている泡立て器だ。彼女は今、卵と砂糖をボウルの中で混ぜ合わせている最中だった。
「うふふ、面白い?」
「はい、とっても興味深いです! ……って、見ているだけではダメですよね! 私も何かお手伝いいたします!」
「あ、いいの? じゃあここにある木の実、切ってもらってもいいかな?」
「は、はいっ!」
元気に返事をすると、グラスは包丁を手に取る。まな板の上に木の実を置くと、彼女は目を閉じながらこわごわと、けれども勢いよく包丁を振り上げ——
「って、ちょっ、何してるの⁉」
「えっ? 何って、今から木の実を切ろうと……わ、私、何か変なことをしてしまいましたか?」
「包丁、持ったことない?」
「はい、お恥ずかしいのですが実は……」
アルテの問いに、グラスはしょんぼりと俯いて答える。
「す、すみません、普通ありえませんよね、こんなことすら知らないなんて……」
「ううん、いいのよ、気にしないで。そっちはわたしがやっておくから。じゃあグラスはこれに牛乳を入れて、混ぜてもらってもいいかな?」
落ち込む少女に優しく微笑みかけ、アルテは泡立て器を差し出す。
「……! はいっ、お任せください!」
すると、曇りがかっていた少女の表情はたちまち晴れやかになった。
グラスと位置を交代し、アルテはカゴに入った木の実を一つずつ切り始める。
隣からは、泡立て器でボウルの中身を混ぜる音が聞こえてくる。それと共に、時折手元に視線を感じる。
普段は包丁を使うときの手つきなんて特に意識しないが、今は自分を見てその技を盗もうとしている生徒がいるのだ。
そう思うと、自然と自分の手元の動きを気にしてしまうし、背筋だって伸びてくる。
「あ、グラス。そういえば、食べられない木の実ってある?」
「いえ、特にございませんよ。私、木の実なら何でも好きですよ」
「ふふっ、そっか。それならよかった。このパンケーキ、木の実をいっぱい入れるから」
「もしかして、そちらにあるもの全部入れるのですか?」
「うん。すごいでしょ?」
カゴに入った数個の大振りな木の実は、どれもパンケーキの生地の中に混ぜ込んだり、上に乗せたりするためのものだ。
このレシピの伝授者であるアルテの母は、果実や野菜以外のものをほとんど口にしたがらず、パンケーキを作るときはいつも決まって大量の木の実を使ったのだ。
「はい、すごい量ですね……! あら? そちらの木の実は……」
アルテが無造作に手に取った木の実を見つめ、瞳を輝かせるグラス。
「ん、これ? これがどうかした?」
何の木の実を取ったのかと見てみると、それは家の前の森でよく採れる、ありふれた種類のものだった。
「いえ、その……じ、実は私、その木の実、とっても大好きなんです! 私の故郷にはない種類のものなのですが、一度だけ交易で回ってきたものを食べたことがありまして……そのお味が、どうしても忘れられなくって」
「あら、そうだったの? それならよかった。この種類の木の実は、家の前の森でもたくさん採れるのよ」
「まぁ、そうなのですか⁉」
アルテが言うと、グラスはたちまちその瞳をぱぁっと輝かせる。実に分かりやすい反応に、アルテは思わず笑みをこぼした。
「この木の実、甘味が強くておいしいよね。わたしもよくお茶のお供に食べてるんだ」
「まぁ! 確かに、お茶のお供にとってもよく合いそうです! そのままでも美味しいのですけれど、凍らせてから半解凍の状態で食べるのも良いですよね!」
「えっ? こ、凍らせて食べるの?」
「えっ? ……あ、わ、私、またまたおかしなことを……」
「あ、違うの、そういうことじゃなくてね? ただ、木の実を凍らせるなんてあんまり考えたことなかったから……。その食べ方、なんだかアイスみたいで美味しそうかも!」
「はい! まるでシャーベットを食べているみたいで、とっても美味しいんですよ!」
アルテの言葉に頷き、グラスは嬉しそうに語り始める。
「私の故郷では食べ物が凍った状態で売られていることは珍しくありませんでしたので、木の実もよく凍ったまま食べていたのですが……。
そうですよね、こちらは暖かいですし、木の実もお野菜も常温で食べられますものね。
あ、そうだ! あの、もしよろしければなのですが、そちらの木の実、おひとつだけ私が凍らせてみても?」
「あ、それいいアイデア! お願いしてもいいかな?」
そう言って、アルテは手にしていた木の実を手渡す。
グラスはにこりと微笑み、「お任せください!」と頼もしく頷いた。
それから、「すぅー、はぁー……」深呼吸をし、自分の手の中に外部から特定の元素の魔力を集め始めた。
彼女のもとに集まったそれらはやがて、彼女自身の内側に宿っていた魔力と混ざり合い、徐々に冷気へと変わっていく。
「……えいっ!」
小さな掛け声とともに、グラスの両の手のひらの上で突如、氷の花が咲いた。
かと思えば、その中には先ほどまで常温だった木の実が閉じ込められているではないか。
この一瞬にして、彼女は木の実をカチコチに凍らせてしまったのだ。
「わぁ、すっごく上手……!」
グラスの見せた一連の流麗な魔力さばきに、アルテは思わずぱちぱちと手を叩く。
「そ、そうでしょうか?」
「うん、すごいよ! 手際もすごくいいし、それに魔力もきれい!」
アルテが褒めると、グラスは頬を赤らめて恥ずかしそうに俯く。
「そ、そんな、ことは……」
そう謙遜しているが、内心喜んでいるのは目に見えて分かった。実に素直でわかりやすい弟子だ。
ところで、グラスの手の中にある凍った木の実だが、こんなに凍っていれば、しばらくの間は食べられないだろう。
それは一旦端に寄せておいて、二人は調理の準備の続きに戻る。
「あの、お師匠様。こちら、もう十分混ざったと思うのですが、どうでしょう?」
「ん、どれどれ? ……うん、そうだね、ばっちり」
アルテはグラスから泡立て器を受け取り、ボウルの中身の混ざり具合を確かめる。材料がしっかりと混ざり切っていて、これなら今すぐに調理に使えそうだ。
「ありがとうね、グラス」
「い、いえ! これぐらい、誰にでもできますもの……!」
アルテが軽く礼を言っただけでも、グラスは嬉しそうな表情を見せる。どうしてこんなに喜んでくれるのかはアルテにも分からないが、可愛らしいのは確かだ。
両手に覆われたグラスの口元は、にんまりと緩んでしまっているのが見て取れた。思わず頭を撫でたくなるアルテだったが、身長差的に手が届かないのは明らかなので手を伸ばすことはあえてしなかった。
「そ、それよりお次は、何をすればよいのでしょう?」
「ふふっ、もうお手伝いは大丈夫だよ。ありがとう」
健気に尋ねてきたグラスに、アルテは微笑んでそう答える。それから、切り終えた木の実の山を、グラスの混ぜた生地の入ったボウルの中へと半分ほど放り込んだ。
「あとは、わたし一人でできるから。もうすぐ、これがパンケーキになるからね」
アルテは棚の中から木製の攪拌棒を取り出すと、それをボウルの中に入れる。
そして、ゆっくりとそれを回しはじめた。自身の魔力によって、外部から大気中のエーテルを中に誘いながら。
そうしていると徐々に、ボウルの中から、きらきらと虹色の煌めきがあふれ出す。
「まぁ、なんて綺麗な……! お師匠様、これって一体?」
「グラスが混ぜてくれた生地と、木の実を混ぜてパンケーキにしてるの」
「こ、これが……そうなのですか⁉ パンケーキというのは、てっきりフライパンで焼いて作るものだとばかり思っていましたが……違うのですね?」
「うーん、普通はそうするかもね。でもわたし、その方法だとどうしてかいつもうまくいかなくて」
「で、では今お師匠様がやられているのは一体? 魔術、とは違うような感じがしますけれど……」
「これ? これはね、錬金術」
アルテの操るエーテルと、中に込めた熱い魔力により、材料たちが徐々に変容していっているのを彼女は手ごたえから感じていた。
「お薬を作ったとき、あなたも触ったでしょ? この不思議な元素」
そう言って、アルテは手元に集めていたエーテルの一部をグラスの方へと流した。
作業の終盤で、手が空きかけていたからこそできたことではあったが、アルテほど長く錬金術に携わり、エーテル操作の技術を磨いてきた者でなければ、こんな風に軽くエーテルを受け渡すことなど、まずできなかっただろう。
「はい……たしか、”エーテル”というのですよね?」
「そう、正解! これが錬金術の要になるの。覚えておいてね」
言いながら、アルテは最後の仕上げを済ませ、魔力とエーテルを操るその手を止める。
すると、ボウルの中から瞬いていた光はゆっくりと消えていき。そこに現れたのは——
「まぁ! パンケーキが出来上がっています、どうして⁉」
「ふふっ。びっくりした?」
そう。そこにはもう液体の生地と、そこに混ぜられた木の実の破片の姿はなかった。
「はい、それはもう……だって、さっきまでこんなではなかったのに、それが一瞬で美味しそうなパンケーキに変わってしまうだなんて……!」
ほかほかと湯気を立ててボウルの中に鎮座する、出来立てのパンケーキを前にして驚きを隠せないグラス。そんな彼女の初々しい反応が、アルテには微笑ましいものに映った。
きらきらとした瞳で、アルテの顔とパンケーキを交互に見るグラス。その表情からは、溢れんばかりの感動が伝わってくる。
「薬草が液体のお薬になったときもとても驚きましたが、まさかこんなこともできてしまうだなんて……!」
「うふふ。すごいでしょ、錬金術って」
「はいっ! とってもすごいですっ!」
アルテが尋ねると、グラスはすぐさま頷いて、実に素直に元気のよい返事をした。
アイスブルーのその瞳に宿るのは、エーテルと魔力の反応と同じぐらい眩しい輝き。それこそ、錬金術師見習いが立派な錬金術師になるために必要不可欠なものだ。
そんな彼女に、アルテはもうここには居ないはずの、彼女と同じぐらいの年頃の少女の姿を重ねていた。
食卓に並ぶのは、フルーツをたっぷり盛り付けた出来立てのパンケーキ、新鮮な木の実と野菜を混ぜたサラダ。
それから、昨日の残り物を温めたスープと、淹れたての紅茶。それから、グラスが用意した冷凍木の実も忘れてはならない。
どれもがきちんと二人分、向い合わせに並んでいる。
これからの食事は、何もかもが二人分なのだ。お皿もフォークもティーカップも、全部。
そう思うと、アルテは新鮮さを感じた。
「いただきます」
「い、いただきますっ!」
アルテが静かに手を合わせて言うと、グラスもそれに続いて手を合わせる。
食事を始めたアルテの様子を伺いつつ、グラスはおずおずとカトラリーに手を付けた。
初めての家で、今日会ったばかりの大人と二人きりで食事をするのは、確かに緊張することかもしれない。
けれど、そんなに固くならなくてもいいとアルテは思う。ここはひとつ、場の空気をほぐすために何か雑談でもしてみようか。
「ねぇ、グラス」
「はっ、はい!」
そこまで緊張する必要もないのに、グラスはやけにかしこまった態度で返事をする。そんな彼女に思わず笑みを漏らしつつ、アルテは尋ねた。
「グラスの故郷って、どんなところなの? わたし、ずっと気になってたんだぁ」
クジラを食べる習慣があったり、食べ物が凍った状態で売られていることが珍しくなかったりと、この辺りではまずないようなことが当たり前で。
かと思えば、アルテも行ったことのある地域の郷土料理の名前が彼女の口から出てきたりもして。
一体、彼女はどこから来たのだろう。会話の端々から受け取れるわずかな情報だけでもすでに、アルテは弟子の故郷にすっかり興味津々になっていたのだ。
「……えぇと、ルフロワル、って分かりますか?」
「ルフロワル? うーん、どこかで聞いたことがあるような?」
「エテルネリア王国の北西あたりに位置する、凍土の地域なのですが……」
「あぁ、あそこね!」
言われて思い出した。エテルネリアはここよりも西の土地に位置する王国であり、そのごく一部の地域は地下の魔力脈の影響により、年中氷に包まれた極寒の地になっているのだという。
そして、その地域にはとある貴族を中心として栄え、エテルネリアの文化と寒冷地域ならではの文化の混在する町が広がっているらしい。そこの名こそがルフロワルなのだ。
そう聞くと、これまでに聞いた彼女の故郷に関する様々な情報にも、納得がいく。それから、彼女の肌がこんなにも真っ白で美しいことにも。
「そっかぁ、寒いところに住んでたのね。わたし、その辺りは行ったことないなぁ。それじゃあ植物も育たなくて、大変だったんじゃない?」
アルテの言った”大変”の意味は、何も野菜や果物などの食料の面だけではない。
植物の精霊と比較的近い身体構造をしているエルフが生きていくには、植物が呼吸とともに放出する、清浄な魔力が必要不可欠なのだ。
エルフが古くから森など自然の中に住処を作りたがるのもそのためであるし、植物が育たない地域でエルフの血を引くものが生きていくのは相当につらいはずだ。
だがグラスの返答は、アルテの予想とは正反対のもので。
「いえ、ずっと昔に凍土でも作物が育つ魔術が開発されていますので、森もありますし、お野菜も採れましたよ。暖かい地域ほど、多種多様な植物はありませんでしたけれど」
「えぇっ、そんな魔術があるの……⁉ 知らなかったよ、びっくり……」
千年以上生きていて、そんな魔術は未だかつて聞いたことがなかった。アルテは自分の無知さを痛感する。
「ふふっ、無理もありません。あの地域のことは、世界的にもあまり知られていませんから。よそから来る方々は大抵、凍土で暮らすエルフを見ると驚くのですよ。ルフロワルを統治する貴族も、エルフの一族なのですが」
「えっ、そ、そうなの?」
「はい。その一族は先ほど言った、凍土でも植物が育つ魔術を開発して町を発展させたことがきっかけで貴族としての地位を築くことができた家系なのだそうです」
「そ、そうなんだ……すごいなぁ」
長いこと生きているが、それでも知らないことは世界中にたくさんある。常々思ってきたことではあったが、それをアルテは改めて実感した。
凍り付いた大地の上に森林や畑が広がり、エルフでも快適に暮らせるルフロワル。いつか訪れてみたいものである。
「グラスは、生まれもルフロワルなの?」
「はい、生まれも育ちも凍土ですよ」
「あれっ、そうなんだ?」
「はい! ……えっと、それがどうかいたしました?」
「えへへ、実は、もしかしたらわたしと同じ国の生まれだったりしないかなーって思ってたんだ。でも、はずれかぁ」
「えっ? ど、どうしてそう思われていたのですか?」
アルテの言葉が予想外だったのか、グラスはきょとんと首を傾げる。アルテはふふっと笑って、彼女にこう尋ね返してみた。
「グラスは、自分の名前がどこの国の言葉か知ってる?」
「私の名前……グラキエースが? すみません、異国の言葉だというのは知っているのですが、どこの言葉かは……」
「ふふっ。実はね、わたしの故郷の古い言葉なんだ。だから、もしかしたらーってちょっと思ってたの」
「まぁ、そうだったのですか! 私の名前が、お師匠様の故郷の言葉……」
それを聞いたグラスはたちまち、どこか嬉しそうな表情になる。
「ではお師匠様の故郷には、私と同じ名前の人もいるのですか?」
「うーん、わたしは出会ったことないなぁ」
「あら、そうなのですね……」
グラキエースという単語は、もともとあまり名前に使われるようなものではないのだ。
グラスは残念そうな表情を浮かべ、アルテにこう尋ねる。
「やっぱり、私の名前って変わっているのでしょうか……?」
「でも、あなたに似合ってて素敵よ」
「えっ?」
「”グラキエース”って、どういう意味か知ってる?」
「は、はい、それは存じ上げております。たしか”氷”という意味なのですよね?」
「そう、正解。誰がつけてくれたの?」
「……は、母です」
「へぇ、そうなの! お母さん、素敵なセンスね!」
アルテが言うと、グラスは「そ、そうでしょうか?」と明白に驚きの色を見せた。そんなことを言われるとは思っていなかったのだろう。
「ええ、だってぴったりなんだもの。氷みたいに透き通った、きれいな瞳をしているあなたにぴったり。」
「……そ、そう、でしょうか?」
少し戸惑ったような、けれどどこかはにかんだような表情を見せるグラス。そんな彼女に、アルテはにこりと微笑んで頷いた。
こんな彼女も、また可愛らしい。
「……あ、あのっ、それより!」
「?」
照れくさかったのか、グラスはあからさまに話題を変えるように、自分の前に置かれた皿を指し示して言った。きらきらと澄んだ眼差しをアルテに向けて。
「こちらのパンケーキ、とっても美味しいですっ!」
「あっ、ほんと? よかったぁ、お口に合うみたいで」
「私、とっても驚きました! こんなに美味しいものがこの世にあるなんて、どうして今まで知らないでいたのでしょう……」
そう言うと、彼女はパンケーキの一部分にシロップをかけ、やけに品のある手つきで一切れカットし、口に運ぶ。
すると、たちまちその瞳は輝き、形の良い唇からは甘い声が漏れた。
「何もかけなくても、木の実のほどよい酸味が生地の甘味とぴったりで美味しかったのに、シロップをかけると、異なる甘味が合わさってこんなに幸せなお味になるなんて……」
そう独りごちる少女を前に、アルテの頬も思わず緩む。
「……あっ、ご、ごめんなさい! お行儀がよくありませんでしたよね、つい気が緩んでしまって……」
「そんな、いいのよ謝らなくて! そうやって美味しそうに食べてくれるのは、むしろ嬉しいし」
「えっ? お、怒らないのですか……?」
「怒る? どうして?」
なぜ怒られると思ったのだろう。アルテが首を傾げると、グラスはまた恥ずかしそうに俯いて。
「あ……や、やだ、私ったら、また変なことを言って……しまったのかも、しれません?」
やはりまだ、アルテが自分を叱らないことを不思議がっているらしい。その証拠にその語尾には、はっきりと疑問符がついていた。
「さっきみたいに、思ったことを素直に言ってくれるのは嬉しいよ」
「えっ……? そ、そうなのですか?」
アルテが笑顔を向けて頷くと、グラスはどこか嬉しそうな表情を浮かべ。
「あ……ありがとう、ございます」
なぜか、そう礼を言ったのだった。
「あ、そうだ。ねぇ、この木の実、そろそろ食べごろなんじゃない?」
「えっ? あら、確かに……」
アルテが指し示したのは、深い皿の上に置いて解凍していた冷凍木の実。
見れば、確かに周囲の氷はほとんど溶けかかっており、ところどころにシャーベット状の氷の欠片がついている程度になっていた。
「ふふっ。じゃあ切ってみようか!」
アルテは用意していたナイフを手に取ると、わくわくしながら刃を木の実に入れていく。
刃を動かすたびに、シャリシャリという涼しげな音が鳴る。噛んだらどんな食感がするのだろう。食べるのがすでに楽しみだ。
「なんだか、アイスみたいな感触でおいしそうね……! いただきます!」
「は、はいっ! い、いただきます!」
アルテは一口大にカットした木の実をフォークで刺し、口に運ぶ。
するとその瞬間、ひんやりとした刺激と共に凝縮されたような強い甘味が口いっぱいに広がって。
「! なにこれ、なんか、元よりも甘さが強まってるような……! それに、シャーベットみたいな食感も新しいし……ん~、おいしい!」
「ええ、そうでしょう! 凍らせることによって余計に甘味が強まるんですよね!」
アルテの言葉に、グラスはしきりに頷きながら言うグラス。共感されたのが嬉しいのか、今にもテーブルから身を乗り出してしまいそうな勢いだ。
「うん! これ、とっても美味しいね!」
初めて体験する味わいに、アルテも自然と手が止まらなくなる。
同じ木の実でも、凍らせるだけでこんなにも美味しくなるなんて。
「ありがとうグラス。こんな素敵な食べ方があるなんて、あなたのおかげで知れたわ」
「そんなぁ、わ、私の地元ではこれが普通だっただけですから……私の、おかげでは」
そうは言うものの、グラスの頬はあからさまに緩んでいた。
こんな風に、目の前でころころと表情を変える彼女が、アルテの目にはとても愛おしく映った。
この素直で可憐な少女と一緒に、決して短くない日々をこれから一緒に過ごしていくことになる。そう思うと、アルテはこれからの毎日が楽しみに思えてくるのだった。
まるで、娘が一人できたみたいだ。
それから二人は、食事のかたわら他愛の無い会話に興じた。皿が全て空になり、ティーポットから一滴も紅茶が出なくなったあとも、ずっと。
もう何度目か分からない、話題がひと段落ついた瞬間のあと。
グラスは手にしていたティーカップを置くと、ふと静かにこう言った。
「私、こういうのは初めてなんです」
「えっ? こういうの……って?」
アルテが問うと、グラスはその口元にうっとりと幸せそうな笑みを浮かべて。
「今日のように、誰かと楽しくお話しながらお食事をするなんて、私には今まで一度もなかったんです。こんなに楽しいお食事の時間は、生まれて初めてで……」
そこまで言うと、彼女は一度言葉を切り。
そして、心から幸せそうな笑みをアルテに向けて。
「とっても温かいのですね、こういうのって」
そう告げた少女の瞳は、硝子玉のように澄んで、きらきらと潤んでいて。
そのまっすぐな視線が、アルテの心を揺さぶった。——彼女は今まで、どれだけ寂しい思いをして生きてきたのだろう。
一言も口にせず、ただ黙って料理を口に運び続けるだけの食卓なんて、アルテにはとても考えられなかった。想像するだけで、胸が痛む。
「私、本当に嬉しかったんです。お食事を始めたときに、お師匠様が話しかけてくれて。……お話ししても、いいんだって」
呟くように、静かにそう口にした少女に、アルテは告げる。
「ねぇ、グラス。これからは、いっぱいお話しようよ。朝ご飯のときも、お昼ご飯のときも、晩ご飯のときも。もちろん、それ以外も……ね?」
そうしてアルテが優しく微笑んだ途端、グラスの瞳の底からじわりと、透明な”何か”が湧きあがってくるではないか。
「えっ? ど、どうしたのグラス⁉」
「……すみません、なんでもないんです」
込み上げて、瞳の外まで溢れ出した透明なものを指で拭うと、グラスはめいっぱいの笑顔を向けて言った。
「ありがとうございます。本当に、嬉しいです。お師匠様」
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