来訪者

 一瞬、アルテは彼女のような町人がいたかどうか、記憶の中を辿ろうとした。だが、彼女が町人であるはずはないことにすぐに気がついた。

 

 なぜなら彼女の耳は、アルテと同じように長く尖っていたからだ。

 人族しか住んでいないルスタの町に、エルフの住人は一人もいない。


 すらりと背の高い彼女は、鋭く尖った凍てつくような氷色の瞳で、長いまつ毛越しにアルテをじっと見下ろす。


 少女の瞳はまるで、氷洞の奥で高位の精霊が時間をかけて大切に育てた、高純度の魔石のように澄んでいて。


 見ているだけで、吸い込まれてしまいそうで。

 アルテは思わず言葉を失ってしまう。それほどまでに、彼女は美しかった。


 その目鼻立ちは完璧に均整がとれており、そのあまりにも整ったバランスからは、神秘性までもを感じられてしまうほど。


 けれどその美しさには、同時にどこか人を遠ざけるようなものも宿っていた。見つめられているだけで、身震いしてしまうような。


 涼しげなアイスブルーのチュールワンピースの袖から覗くのは、細く、そして眩しいほどに白い腕。細い両手の指には、不釣り合いなまでに重たそうな大きめのトランク。


 見たところ、年はアルテが旅立ったばかりの頃と同じぐらい——人間でいうなら十四、五歳ぐらいであろう。


 少女はその場に立ったまま、何も言葉を発さない。アルテもまた、ただ自分を見つめてくるだけの少女を前に、どうしたらいいのか分からず言葉に詰まってしまう。


 結果として、二人何も言わずにじっと見つめ合う時間がしばらく続いた。


 だが、いつまでもこうしているわけにもいかないだろう。アルテが意を決して何か言おうと思い立った、そのとき。


 ふいに、少女はその細い首を傾げた。——首を傾げたいのは、どちらかというとアルテの方なのだが。


 そして次の瞬間、こんなことを言い放ったのである。


「こんなに小さいお方が、腕利きの錬金術師様……なのですか?」

「ち、“小さい”っ⁉」


 自分よりも遥かに年下の、しかも初対面の少女からまさかそんなことを言われるなんて。さすがのアルテも、これには思わずたじろいでしまう。


「こちらにお住まいの錬金術師様は、千歳を超えたエルフの方だと聞いていたのですが……場所を間違えてしまったのでしょうか?」


「あ、合ってます、合ってます! わたしがその錬金術師です!」

 アルテが慌ててそう告げると、


「……?」

 少女は、再びその細い首を傾ける。いまいち何を言っているのか分からない、といったような感じに。


「貴女が、ですか?」

「そ、そうよ! わたし、これでも千歳超えてるの!」

「ん……、んー?」


 アルテの顔を数秒じっと見、懐疑的な表情を浮かべてやはり首を傾げる少女。これには、さすがのアルテも泣きたくなった。


「こ、この森の近くに、他に家なんてなかったでしょう? 見ての通り、この辺りに住んでるのはわたししかいないの、だからここに住む錬金術師っていうのもわたしのことで合ってるから!」


 アルテが必死にそう説得すると、少女はしばらく考えるような素振りを見せ。

それから、一人こくんと頷くと。


「……確かに、それもそうですよね。見たところ、こちら以外のお家はこの辺りにはありませんでしたし、向こうの町の皆さんもやはり、エルフの錬金術師さんの住む場所はここだと仰っていましたし……ということは、本当に貴女様がそうなのですね?」


 わかってくれてよかった——アルテは心の中でほっと胸を撫でおろす。だが、それも束の間。


「大変失礼いたしました。私、自分よりもはるかに年上なのにこんなにも小さな方には、今まで出会ったことがなかったもので……」


「うぅっ……!」

 少女は鈴の音のような高い声でそう言い、綺麗な角度でお辞儀する。


 その丁寧さがまた、アルテの胸にぐさりと突き刺さった。


 小さい、と言われるのには慣れっこだと思っていたが、やはり傷つくものは傷つくようだった。特に同種族の年下に言われるのは、なかなか来るものがある。


少女の声色に、悪意は全く感じられない。おそらく本当に悪気はないのだろうが、それでもだ。


 かく言う目の前の彼女はというと、すらりとした長身痩躯に、まだあどけなさは残るものの大人びた雰囲気を感じさせる面立ちと、じゅうぶんに年相応な容姿をしているのだった。……正直言って、羨ましい。


「ただいまの非礼、深くお詫びいたします……」

「い、いいのよ、気にしないで!」

 笑顔でそう言ったアルテだが、内心それなりに傷ついていた。


 一生涯を若いままの姿で過ごすことで有名なエルフだが、“若い”というのにも限度があるだろう。


 幼い頃からほとんど身長の伸びていない自分と、目の前の背の高い少女との間には一体、どんな差があったのだろうか。


 なんてことをアルテが考えていることなど露知らず、彼女の寛大な言葉に少女は再び頭を下げる。


「本当に、すみませんでした。ご無礼を働いてしまった直後にこんなことを申し上げるのも不躾かもしれませんが……実は私、貴女様にお願いしたいことがあってこちらに参らせていただいたのです」


「えっ? お願い……?」

 その一言で、アルテはようやくこの見知らぬ少女が突然やってきた理由をようやく察する。


 彼女はきっと依頼人なのだ。錬金術師のアルテに何かを錬成してほしくて、ここまでやって来たのだろう。


 これでやっと、アルテの胸の中にずっとあったわだかまりが解けた。依頼人と分かれば話は早い。

 何を依頼されるのだろうか。薬? それとも道具? そう考えつつ、アルテはにこやかに尋ねる。


「それって、何かな?」

「私を、弟子にしていただきたいのです」

「ふふっ、弟子ね。お安い御用よ、すぐに錬成して……って、で、弟子⁉」


 アルテはそこまで言いかけてやっと、その言葉に己の耳を疑った。

 けれど、目の前の少女はおずおずと、けれど至極真面目な様子で、その細い首を縦に振る。


「……えぇっと、弟子、に、なりたいの? ……わたしの?」

「は、はい、そうなのです……!」


 ——私を、弟子にしていただきたいのです。

目の前の少女が確かに言ったその言葉を、アルテは頭の中で繰り返し、そしてやはりうまく呑み込むことができなかった。あまりにも突然の、予想外のことすぎて。


 こんな辺境の地に住んではや数百年、弟子になりたいと言ってここまでやってくる人なんて今まで一人もいなかったし、こんな所に住んでいる以上、来るとも思っていなかった。


 一体どうしたらいいのだろう。こんなときの準備なんて何一つしていない。何の前触れもなく訪れた緊急事態に、アルテの頭は静かに回転を速める。


 弟子を取ろうだなんて今までに一度たりとも思ったことなんてないし、むしろ誰にも弟子入りを頼まれないようにとひっそり生きてきたつもりだったのに。


 だから、いざこんな状況になったとき、どうしたらいいのか。全くもって考えていなかった。


 何といって帰せば、彼女を傷つけなくて済むのだろう。いっそ他の錬金術師を紹介しようか、とも一瞬思った。


 だが、思えば知り合いに錬金術師なんていないのだった。アルテはもう長いこと、大陸錬金術師協会の主催する会合にさえ顔を出していないのだから。


 思考は急速に大回転し、その代わりに身体は停止。どうしていいか分からず、まとまらない思案だけがぐるぐると頭を巡る。


「ご、ごめんなさい、何の前触れもなくこんなことを言われても、困りますよね……で、ですが私、弟子にしていただけましたら、然るべきお務めはきちんと果たさせていただきますので!」


 おずおずとした口調でそう言いつつも、少女のその瞳はとても真っ直ぐだった。彼女のその視線が余計に、彼女を追い返しにくくする。


 こんなに真剣に自分の弟子になりたがっている彼女を帰らせるだなんて、考えるだけでも罪悪感を覚えてしまう。けれど、だからといってそうやすやすと弟子を取ると決めるわけには——なんて、アルテが考えていたそのときだった。

「きゃっ⁉」


 何の前触れもなく、少女は彼女の手を掴む。そして何も言わず、その手を引っ張って。


「え、ええっ⁉ ちょっと⁉」

 ——なんとそのまま、家の中に強引に押し入ってしまったのだ。


「ちょっ、な……なに⁉」

 アルテが問いかけるも、少女はその問いに答えない。ただまっすぐ玄関を抜け、部屋の奥を目指してアルテを引っ張っていく。


 彼女の真意がまったく読めず混乱する中、少女は次にもっと予想だにしなかった行動に出たのだった。

「……えっ?」


 突然、アルテの視界がぐるりと九十度回転した。それと同時に彼女の背中は柔らかい場所に押し付けられて。


 氷色をした少女の双眸が、じっとこちらを見つめてくる。


 何が起こったのか、アルテは一瞬わからなかった。けれどすぐに理解した——彼女は、ソファーの上に押し倒されていたのだ。

「…………っ⁉」


 自分が何をされたのか気づいた瞬間、アルテの顔は急激に熱くなる。


 千と二百年生きてきた中で、こんなことは全くの初めてだった。夢かと疑ってしまいかけるほどに信じられない状況に、彼女の思考回路は完全に焼き切れる。


 少女は何も言わない。だがアルテと同じように、その色白な頬を真っ赤に染め上げていた。


 アルテを見つめる瞳からは、彼女の必死な頑張りと、決意の気持ちが感じられた。……何の決意のもとにこんなことを頑張っているのかは、全くもって見当がつかないが。


 ただ一つだけ、言えるのは。

 その瞳の奥はやはり、見ているだけで心を奪われてしまいそうになるほどの強い引力を持っていて。


 至近距離で輝く、清らかな水晶のような少女の瞳しか、気がつけばもう見えなくなってしまっていて。


 ——なんて、綺麗なんだろう。


(……って、正気に戻らなきゃ、わたし!)

 そのあまりの美しさに、アルテは思わず一瞬正気を失いかけた。だがこういうときこそ冷静にならなければならないのだ。異常な状況ではあるが、混乱してはならない。


 アルテはあさっての方向に向いていた己の意識をなんとかこちらに引き戻し、少女にこの不可解な行動のわけを問おうと口を開きかける。


 だが次の瞬間、さらにありえないことを少女はし始めた。

「って、えぇっ⁉ ちょ、ちょっと! 何してるの⁉ だめっ! ストップ!」


「……? ど、どうして、ですか?」

「どうして、って、だめに決まってるでしょ……! なんで服、脱いでるの……⁉」


 そう。少女の右手はいつの間にか、自分の着ている服のボタンを外しかかっていたのだ。

 気がついたときにはもうすでにボタンを三つほど外しており、胸元がすっかり露わになっていて。


(意外と、おっきい……?)

 服を着ているときは、そこまで大きくないように見えたのに。


(細いと思ってたのに、気痩せするタイプだったの……? って、そ、そうじゃなくて!)


「は、早くボタン、留めて!」

 アルテは慌てて頭の隅に浮かびかけた余計な思考を排除し、すぐさまそう告げた。

 すると、少女は実に素直にボタンを閉め始める。


「ほっ……」それを見て、アルテは思わず安堵の吐息を漏らした。

「脱がない方が、よいのですか?」

「うん、脱いじゃだめ!」


「では、どうすればよいのですか? ……着たままの方が、お好きなのですか?」

「な……っ⁉」


 どうやら、安堵するのはまだ早かったようだった。

 その衝撃的な問いかけに、アルテは頭を巨石で殴られたような思いがした。


「な、何言ってるのっ⁉ す、好き、って……な、なんの話っ⁉」

「あ、あの、私、もしかして何かおかしなことを言っていますか? 本では、このようなことが弟子の務めの最たるものだと読んだのですが……」


「こ、こ、これが、で、弟子の、務め……っ⁉」

 頬を赤らめ、恥ずかしそうな少女の返答に、アルテは思わず己の耳を疑ってしまった。


「ち、違うの、ですかっ?」

「こっ、こんな弟子のお務め、き、き、聞いたことありませんっ!」


 弟子を取ったこともなければ、師匠がいたこともないアルテだが、これだけは自信をもってはっきりと言えた。


 突然押し倒してきて、服を脱ぎ始めたところから、少女が何をしようとしていたのかはあらかた察しが付く。


 どんな本を読んだのか知らないが、そんなことを「務め」と称して弟子に強要するような師匠など滅びてしまえばいいとアルテは思った。


 弟子の務めと言って思いつくのは普通、料理や洗濯などといったことではないのだろうか。


「図書館で読んだ小説には、確かにこんなシーンがあったのですが……ほ、本当に違うのですか……っ?」

「ぜ、絶対、絶対違うよっ! そ、そんないかがわしいお務め、ある、わけ……」


 言いながら想像してしまって、恥ずかしさのあまり声がだんだんしぼんでいくアルテ。彼女の言葉を聞いて、余計に赤くなってしまう少女。


 二人揃って赤面しながら黙り込んでしまい、沈黙の時間がしばらく続いた。


 彼女は一体、どんな本を参考にしてしまったのだろうか。


(そんな小説、わたしも読んだことないのに……)

 どくどくと鳴り響く自分の胸の音を感じながら、アルテは心の中でそっと呟いた。





「ほ、本当に、本当に申し訳ございませんでした……!」

 ソファーから降りるなり、少女はぺこぺこと何度も深く頭を下げる。


「あんなご無礼を働いてしまって、私、一体どうお詫びしたらよいのでしょう……!」

「い、いいのよもう、気にしないで! そんなに謝らなくて大丈夫だから、ね?」


 しきりに頭を下げてくる少女に、アルテは笑顔を作ってそう告げる。


「ですが私、本当に失礼なことを……」

「も、もう、ほんとに大丈夫だから! 謝らないで、わたしも気にしてないから、ね」


 もちろん、気にしてないというのは嘘だ。けれど大人というのは、優しい嘘をついてやるものなのだ。


「うぅ、ですが……」

「と、とりあえず、何か飲む? 紅茶、好きかな?」


 尋ねると、少女は依然として泣きそうな表情を浮かべながらも頷いた。


 アルテは彼女をダイニングテーブルの椅子に座らせると、急いで紅茶を淹れる。


「はい、どうぞ」

「す、すみません、いただきます」

 少女は目の前に置かれたティーカップをおずおずと手に取り、口をつける。


 そして次の瞬間、彼女はたちまちその瞳の色を変えた。まるで、果汁を注ぐと色を変える不思議な紅茶のように。


「まぁ、とってもおいしい……!」

「ふふっ、よかった。その茶葉、わたしがブレンドしたの」

「あら、そうなのですか? こんなに美味しい紅茶を手作りできるなんて……憧れちゃいます」


 そう言って、少女はその口元にかすかな笑みを浮かべる。作ろうとしたものではなく、自然にこぼれたものであるのは誰の目にも明らかだった。


 初めて彼女を見たときは、美しいと思う反面、なんだか近寄りがたいような印象を受けたアルテだったが、そんな印象もだんだんと崩れ去っていく。


 最初、どこか冷たそうな雰囲気を彼女に感じてしまったのは、その鋭く吊り上がった切れ長の瞳のせいもあったのかもしれない。


 けれど彼女は意外にも、とても素直な良い子であるらしかった。いかがわしい本の内容を真に受けてしまったり、いつまでも自分の非を詫び続けたり。


 紅茶を口にしたとたんに、ぱぁっと表情が明るくなったり。彼女の笑顔は、年頃の女の子らしくてとても可愛らしいものに思えた。


 そんなことを考えつつ自分の分の紅茶も注いでいたアルテのことを、少女はティーカップを持ったまま、何か言いたげにちらちらと見つめてくる。


「どうか、した?」

「そ、そのぅ、先ほど申した、私のことを弟子にしていただきたい、という話なのですが……」

「あ……そ、そのことね」


 言われて、思い出した。

 先ほど起こったとんでもない事件のせいで頭から抜けかけていたが、そういえば彼女はそのためにここに来たのだと言っていたはずだ。


 せっかく来てくれた彼女を追い返すのは心苦しい気もするが、ここはきっぱりと弟子を取る意志はないことを伝えなくてはならないだろう。


 やる気はありそうな分、余計に悪い気がしてしまうが、アルテは少女に告げる。


「あ、あのね、その気持ちは嬉しいんだけど。わたしはね、弟子を取る気持ちはないんだ。わたしじゃ、あなたみたいな若い子を教えるのは向いていないと思うから……」


 それから、わざわざわたしの弟子になるためにここまで足を運んでくれたのは嬉しかったよ、と付け加える。


「そ、そう、ですか……」

 たちまちしょぼんと俯いてしまう少女。その姿に、アルテは胸を痛めずにはいられなかった。


 そこまで思うのなら、弟子にしてやればいいのではないかと思う者も多いだろう。


 けれど、アルテが今まで弟子を取りたがらず、そういったことが起こらないよう極力気を付けてこれまで生きてきたのには、ちゃんとわけがあるのだ。


「やっぱり、家の金庫から金品をいくらか持ってくるべきだったでしょうか」

「えっ⁉ ま、待って、そういうことじゃ……!」


 少女がぼそっと口にした独り言を、アルテは聞き漏らさなかった。彼女は慌てて、自分がお金のことを気にしているわけではないのを伝える。


「うぅっ、ではどうして……。私、とても錬金術師になれそうには見えないでしょうか?」

「ち、違うの、そういうことじゃないの! ただ……」

 アルテは少し考え、迷ったのちに、少し俯きがちになりながら、少女にこう告げる。


「……わたし、師匠がいたことがないの。誰かに錬金術を教わったことがないから、うまく教えられないと思うんだ。あのね、錬金術って説明するのがとっても難しいの、わたしはそれを横で見て真似して、自分の感覚だけで覚えちゃったから、ちゃんと説明してあげられないと思うんだ……」


 実際、彼女が弟子を持つことに対して抱いている懸念のはそれだった。


 一度やってみれば分かるはずだが、錬金術によって何かを“錬成”するという作業は、とても感覚的なものなのだ。


 よほど説明するのが上手い人でない限り、あの独特の感覚を一から人に教えるというのはとても難しいことだろう。


 それを人から伝授されることなく、見様見真似で覚えてしまったアルテにはなおさらだ。あれをどうやって説明したらいいものか、彼女にはさっぱり見当がつかない。


 だから、自分は先生には向いていないと思う。

 そう伝え、アルテは少女の顔へと向き直る。


 だが、その言葉を聞いてもなお——否、聞いたそばから余計に、彼女の瞳には真剣な色が宿って。

「それなら、問題ありません!」


 きっぱりと、彼女はアルテにそう告げた。

 その迫力にアルテは気おされ、びくっと肩を跳ねあがらせてしまった。


「それなら、私もお師匠様のことを見て学びます! 私、お師匠様の弟子になれるのなら何だっていたします、他の誰かの弟子になるつもりはありません!」


 アルテの瞳をまっすぐに見つめ、少女はそう言った。もうすでに彼女の弟子になったかのように、アルテのことを“お師匠様”と呼んで。

 その声には強く、そして揺るぎない意志が宿っていて。


 何だってする、という言葉はきっと、彼女にとっては文字通りの意味なのだろう。それはつい先ほどの行動が何よりも物語っていた。


 初対面の相手の前で素肌をさらし、あんなことをしてまで自分が弟子としての務めを果たせることを証明しようとするなんて、並大抵の覚悟ではできないことだろうから。


 そんな彼女の、強い意志を宿したまっすぐな視線が、頭の中で反響する言葉が、アルテには——あまりにも、眩しくて。


 一瞬、胸を鋭く細い剣で突きさされ、息が止まってしまうかのような思いさえした。


 それは単に、少女の瞳から、そして言葉からあふれ出る眩しさからだけではなくて。


 彼女が、ここまで自分の弟子になることにこだわるのはなぜか。


 それは、わたしが——だから?


 喉元まで出かかっていたそんな問いを、口にしてしまうのは何だか怖くて。


 呑み込んでしまうと、それは鉛の塊のようにずしりと重たく、彼女の腹の底に沈んでいく。


「あ、あの!」

 何かが込み上げてきそうになったのを堪えるあまり俯いてしまったアルテに、少女がふいに意を決したように言う。


「実は私、ここに来る前に本を見て、独学で作ったものをいくつか持ってきていまして! せ、せめてそれを見てからご判断を下しては、いただけないでしょうか……?」


「えっ? ……ちょ、ちょっと待って? それって、本だけで勉強したってこと?」

「は、はい。うちの書庫の奥に、父が持っていたという錬金術の本がありまして、それを見て作ってみたのですが……」


 アルテがそこを問い返してきた理由が分からない少女は、不安そうな表情を浮かべながらそう答える。


 ——本を見て、独学で。

 少女のその言葉に、アルテは耳を疑ったというほどではないものの、やはり驚きを隠せなかった。


 他でもない彼女自身が独学で錬金術を習得した以上、それ自体がありえないと思ったわけではない。


 けれど、それが可能だったのは、錬金術師である母をいつも間近で見ることができたからというのが大きいと彼女は思っていた。だが少女はそうではなく、本だけで勉強したと答えた。


 錬成の手順を解説している本も実際にあるにはあるし、そういった本をアルテも参考にしたことはあったが、完全にそれだけで錬成を身に着けるというのは本当に可能なのだろうか。


 もしできたとしても、なかなか困難を極めるだろう。“錬成”という作業は、言葉で説明するのが本当に難しいのだから。


 多くの師匠が、弟子に実際に錬成作業を行っている最中の魔力に触れさせたりして教えて、それでもなお理解に苦しむ見習いも決して少なくないほどに、その技術を人に教えるのは難しいのだ。


 一方で、一度目にしてしまえば簡単に理解できてしまう者もいる。錬金術は言ってしまえばとても感覚的な技術であり、文章だけで理解するのは至難の業だと、少なくともアルテは思う。


 それに、もし仮に“錬成”を理解できたとしても、実際にそれを行うまでにはまた新たな障壁が現れるはずだ。もしかしたら彼女は、錬成をできた気になっているだけかもしれない。


 けれど、もしそうじゃなかったら——?

 そんなことを考えていると、アルテが何も答えないうちに、少女は鞄の中から小さな包みを取り出す。


「あっ、あの、こちらなのですが……!」

 おずおずと告げるとともに、少女は包みを開いた、その中に入っていたものは——


「…………えっ」

 一言で言えば、小瓶。

 だが、その中身がとても尋常じゃなかった。


 錬金術の素材として、世界中のおぞましいものたちを幾度となく見て、触れてきた彼女でさえ息を呑んでしまうぐらいに、それはおぞましい見た目をした液体だった。


 どろっとした真っ赤なマグマと、赤みがかった紫色の腐った果物の汁と、熱帯に住む毒ガエルの皮膚のような青とが混ざりつつも、完全には溶け合わずに微妙なマーブル模様を描く濁った液体。


 瓶底付近には、ふよふよと沈殿物が漂っている。


「な、なに、これ?」

「はいっ、こ、この本に書かれたレシピを基に作ってみたのですが……!」


 アルテはその困惑を表に出さぬよう、張り付いたような笑顔を浮かべて尋ねる。すると少女はたちまち嬉しそうな表情を見せ、一冊の本を取り出した。


 それは、青い色をした皮の表紙の本だった。金字で題が書かれており、端が一部破れていたりする所からも分かるように読み込まれたものであるらしい。その本には、アルテも見覚えがあった。


 この特徴的な青い表紙は、数百年前に発売され、今も大陸の錬金術師によく売れているベストセラー書のものに違いなかった。


 世界各地に古くから伝わる有用な薬品のレシピをまとめたものであり、アルテも持っていたような気がする。けれど彼女が持っているのより、少女の持ってきたものは年季が入っていた。


「えぇと、このページのお薬を作ってみたのです!」

 そう言って、少女はしおりの挟んであったところを開き、参照したところをアルテに見せた。


 そこには短い詩のような文章が書かれ、壮麗な神々や精霊たちの絵が描かれている。


 まるで神話を記した本の一ページのようだが、少女も自分でそう言ったように、それは薬のレシピだ。普通に錬成すれば、こんなおかしなものはまずできないはずなのだが——


「……あ、あれ? これを見て、錬金術のレシピだってわかったの?」

「は、はい、最初はこれが錬金術の本だとしか聞いていませんでしたので、何が書いてあるのかよく分からなかったのですが。しばらく見ているうちに、だんだんと意味が分かってきまして!」


 平然と、否、それどころか何だか楽しそうな調子で少女はそう答える。彼女のその言葉に、アルテは驚かずにはいられなかった。


 先述の通り、そのページに書いてあるのは短い詩と神話の一シーンを切り取ったような絵。錬金術師であれば、少し見ればレシピだと気づけるその本の中身も、そうでない者からしたら全くの別物だ。


 どうしてそんな書き方をされているのか。それは錬金術の知恵を、それを扱うにふさわしくない者から守るためだとされている。


 錬金術のレシピは基本的に、普通の文章では書かれず、代わりに寓話や絵、詩、それから錬金術師が師から弟子に口伝するような(といってもアルテはそれを、母の解読作業をこっそり見ながら覚えた)、特別な暗号や隠喩が使われる。

 

 そうして、ある程度の知力と幅広い分野への知識を有した者にしか読みとけないようにすることで、その技術を浅慮な者から守っているのだ。錬金術の力は強いがゆえに、軽い気持ちで扱っていいものではないから。


 それだけ秘密主義に守られたものであるにも関わらず、彼女はただ『錬金術の本である』というヒントだけで、これがレシピであると気づけたなんて。


(この子、もしかしてかなり優秀……?)


 錬金術師見習いは普通、錬金術書を読み解けるようになるために、よく術書で使われる分野の学問を頭に叩き込むことから始める。


 けれどこれが読み解けたということは、彼女にはそういった知見がすでにあるということになる。


 錬金術師にしか伝わらないような隠喩などが使われない限りは、ある程度高い知力と知識があれば、錬金術を知らない者が術書に書かれたレシピを理解することも不可能ではないと思われる。


 だが、それにしても。だって普通、錬金術師は見習いの頃に、錬金術のレシピ特有の暗号めいた記法にまずは慣れる特訓をするのだから。


 つまり、彼女は頭脳の面だけで言うと、錬金術師になれる資質は十分にあるということになる。その事実だけでも、彼女を弟子に取りたがる錬金術師はきっと少なくないことだろう。


 だが、ここで新たに疑問が生まれる。これがレシピであるという所まで辿り着けたのに、どうして完成品がこれなのだろう? どこかで読み間違えてしまったのだろうか?


 目の前のおぞましい液体と、いじらしい少女の瞳。その両方を交互に見ていると、アルテの胸の奥にはだんだんと好奇心が湧いてきてしまって。


「ねぇ、これ、どうやって読み解いたのか、教えてもらってもいいかな?」


 尋ねると、少女は問われたこと自体が嬉しかったのか、ぱぁっと瞳を輝かせて「はいっ!」と答える。


「こちらは大地の女神様の誕生のご様子を描いていますよね? それとここの表記からして、材料にはこの女神様を象徴するフォスフラワーを使えばいいのかと思いまして。それからもう一つの材料は、ここに記された数字を数秘術で計算した際に現れる数字と元素の関係性から……」


 絵や文字を一つ一つ指し示し、少女はすらすらと説明する。

 その内容を、アルテは聞き漏らさぬようじっくりと聞いていたが。


「すごい、全部合ってる!」

「まぁ、当たりでしたか⁉」


 そう。一言一句、彼女の説明に間違いはなかった。使う素材も、手順も、何もかもが合っていたのだ。


「駄目元で出してみたのに、ちゃんと合っていたなんて! では、これは間違いなく『身癒水しんゆすい』で合っているということなのですね?」


 と、嬉しそうに問うてくる少女。……残念ながら、それに対して手放しに頷くわけにはいかなかった。


 身癒水——飲むとたちまち身体が温まり、元気が出てくる魔法薬の一種——はアルテも錬成したことがあったが、間違ってもこんなおぞましい外観にはならないはずなのだ。本当なら、透き通った乳白色の液体になるはずなのに。


「私、これを試しに飲んでみようと思ったのですが、誤って少しお部屋の植木鉢に零してしまいまして。そうしますとたちどころにお花が枯れてしまいましたので、口にするのはやめておいたのですが……では、これは飲んでも大丈夫、ということですよね?」


「だ、ダメだよっ! 絶対ダメ!」

「えっ? ですが、これはお薬なのでは……」


「ち、違うんじゃないかな? 作り方は合ってたけど、多分それ、お薬じゃないと思う……」

「えぇっ⁉ そ、そうなのですか⁉ では、これは一体……」


 つい先ほどまで輝いていた少女の瞳は、たちまち残念そうな色に変わっていく。


 花が枯れてしまった、という少女の言葉から察するに、これはきっと毒だろう。彼女が飲んでいなくてよかった。


 だが、素材も製法も合っていたのに、なぜこんなことになってしまったのだろう。


 考えられる理由とすれば、本来行うべき“錬成”とは違った作業を、それが“錬成”であると勘違いして行ってしまった、などといったところか。


「ちょっと、これ借りるね?」

 そう言って、アルテはテーブルの上に置かれた、謎の毒液入りの小瓶を手に取る。そして、その中の魔力の気配に注視してみた。


(あれ? 一応、ちゃんと錬成はできてるみたい……)


 瓶に触れ、意識を集中させると、錬金術を行うのに必要不可欠な『天界の元素エーテル』の感触がかすかに伝わってくる。


 だが、中に入っている魔力の感触が、どうも歪に感じられるのだ。錬成の作業自体は間違っていなくとも、その途中の段階で何か問題が生じてしまった、ということなのだろうか。


 それにしても、本来薬になるべきものが毒になるというのはなかなかに珍しいことではあるが。


 とはいえ、誰からも教えられず、本だけで錬成の技術を身に着けてしまったというのはなかなかにすごいことだろう。


 たった一人でここまでやり遂げた努力は賞賛に値することだし、それに彼女はなかなかの才能の持ち主でもあるようだ。


 錬成に必要不可欠である、エーテルの操作は本当に難しいというのに。それをたった一人で覚えてしまったなんて。


(すごいなぁ、この子……)

 目の前の、まだ百と少し程度であろう少女に対し、アルテは驚かずにはいられなかった。


 こんな才能を放っておくなんて、世の錬金術師たちが許さないだろう。これがアルテでなければ、どんな錬金術師でも喜んで彼女を弟子にすると自信をもって言える。


 錬金術師の知り合いがいなくたって問題ない。術師協会にでもひとたびこの少女を連れていけば、彼女の師匠になるにふさわしい腕の立つ錬金術師たちがこぞって彼女の師になろうと申し出てくるだろうから。


「あのね、わたしのところにあなたがわざわざ来てくれたのは、とっても嬉しいと思ってるんだ」

 そう前置きしてから、アルテは少女に告げる。


「でも、世の中には実力もあって、わたしよりももっと若くて、教えるのも上手な錬金術師がいっぱいいると思うの。そういう人たちがいっぱいいる場所に、今度一緒に行って……」


「いやですっ!」

 アルテが言い終えるのを待たずして、少女は鋭く言い放った。


「私は、どうしても貴女様のもとで学びたいのです!」

 少女の真剣な眼差しが、まっすぐアルテの瞳を射抜く。


 その声色から伝わってくる。先ほどもそう言っていたように、彼女は本当に、他の錬金術師のもとで学ぶ気はないのだろう。それぐらいに、アルテに対する強い思いが感じられた。


「確かに、私はレシピで書かれた通りのものを錬成できませんでしたし、落ちこぼれだと思われても仕方がありません……ですがもっと努力して、必ずや貴女様の弟子にふさわしい錬金術師になってみせます! ですから、どうか……」


 そう言って、少女はテーブルに額がつきそうなぐらい、深々と頭を下げる。

「ま、待って、違うの!」


 違うのだ。アルテが言いたかったのは、彼女が落ちこぼれだからとかそういうことではない。


「あなたはとっても優秀なの! 頑張ればきっと、立派な錬金術師になれるはず。ただ……」


 そこだけは誤解しないでほしかった。間違いなく、彼女には錬金術の才能がある。


 そして、彼女を教え導く師となる者がいれば、その才能は大きく跳躍することだろう。


 それでもやはり、アルテには彼女を弟子にする決心がつかなかった。


 先ほども少女に告げた通り、アルテは師匠を持ったことがない。それ故に、正しい指導ができるかどうか分からない。


 それも、確かに懸念の一つではあった。けれど、彼女はもう“錬成”の作業を覚えてしまっているらしい。それならば、そこに関する心配はもうないと言っていいだろう。


 では、何が問題なのか。


 彼女が弟子を取ることに対してここまで消極的になってしまう一番の理由。それは少女にではなく、アルテ自身にあった。これは彼女自身の問題なのだ。


「……わたしにはね、あなたみたいに若くて、伸びしろもある子を教える資格がないの」

 若い錬金術師の芽を育てる“師”となる資格が、自分にあると彼女はとても思えなかった。


 だってもう、アルテには目の前の少女の気持ちが分からないのだ——錬金術のことを語りながら、目をきらきらと輝かせるような気持ちが。


 その気持ちは、錬金術師になるには必要不可欠なものだ。どんな錬金術師であれ、彼または彼女がその技術を己のものにできたのは——それだけの努力を積めたのは、ひとえにその気持ちがあったのが大きいだろう。かく言うアルテもそうだ。


 でなければ錬金術などという、やっているだけで頭のおかしくなりそうな技術を学び続けることなんてとてもできなかっただろう。


 そして何より、錬金術を愛する母の瞳を隣でいつも見続けていられたからこそ、成長することができたのだろう。


 目の前の彼女にも、錬金術に希望を抱く気持ちがあるのは見ているだけですぐにわかった。


 “錬金術”という未知の世界に触れる体験を、彼女は心から楽しんでいる。その瞳に宿る光が何よりの証拠だった。


 透き通るような氷色の瞳に、純粋な希望の光を宿す彼女。——まるで、千と幾年の遠い昔、この大地を救った一人として今も語り継がれている、幼い錬金術師の少女を思い出すようで。


 見つめられているだけで、眩しくて、そして痛かった。


 アルテには、もう彼女の気持ちが分からない。だからもう、自分がどう錬金術を学んできたのかさえ分からないのだ。


 錬金術師になるには必要不可欠な気持ちを——錬金術の“楽しさ”を忘れてしまった自分が、今まさにそれに触れたばかりの彼女に錬金術を教えられるのだろうか?


 こんな自分が師匠になったところで、その才能を腐らせてはしまわないだろうか? 自分がどんな感情を胸に抱き、そして拠り所にもして学んできたかさえ、もう思い出せないというのに。


 それと、もう一つ気がかりなことがあった。この少女が、ここまでアルテに執着する理由はなんだろう? そんなこと、聞かなくとも想像がついてしまう。


 ——だけど、わたしはそんな立派な人間じゃない。そんな扱いを受ける資格なんてないし、この子の期待しているような人じゃない。


「……きっと、あなたの師匠にもっとふさわしい人が他に」

「資格……ですか? ご自分には師匠として、私のような若者を教える資格がないと、そうおっしゃいましたか?」


 少女はふいに立ち上がると、切れ長の美しい氷色の瞳でアルテをまっすぐに見据えて。

「そんなの、あるに決まってます!」


 きっぱりと、そう言い放った。

 アルテが驚いてしまうぐらいに、強い迫力を伴って。


「どうして資格がないなんて思われるのですか? 私、知ってるんです! 貴女様がどれだけ心優しくて、素晴らしい錬金術師様なのか! でなければ私はきっとあのとき……」

「えっ? あのとき……?」


「い、いえ、その……そ、それは忘れてください! ……ただ、私は貴女様がとてもお優しくて、人格に優れた立派なお方なのかを知っています! 


 断言いたします、こんなに素晴らしいお方に師匠になる資格がないなんて、そんなこと、あるはずがありません! だって私はまさに貴女様のような人に、そして錬金術師になりたいのですから!


 私は、貴女様に教わって錬金術師になりたいのです!」


 少女はそこまで一気に言い切ると、その細い身体いっぱいに空気を取り込んだ。きっと、一度にたくさん喋ったせいで肺の空気を使い果たしてしまったのだろう。


 そうして、すうはぁと何度か深呼吸したのちに、弱々しく細い声で。


「ですからどうか、私を弟子にしてください……!」

 そう言って、少女は再び深く頭を下げる。


 アルテは思わず息を呑んだ。彼女のその声色が、あまりにも真剣で、そして突き刺さるように切実だったから。


 ——どうして彼女は、ここまで自分に対して熱意を抱いてくれているのだろう。


 ——どうして彼女は、自分のことを“心優しくて、人格に優れた”錬金術師だと思い、ここまで強い確信を込めて言えたのだろう。


 ただ一つ分かったのは、彼女が自分に対してのありったけの想いを伝えてくれたということだ。その声と眼差しの真剣さが、何よりの証拠だった。


 彼女はまだ少し肩を上下させているし、白かったその頬も紅潮している。きっと一生懸命、嘘偽りない思いの丈を、まっすぐに伝えてくれたのだろう。


 彼女の強い熱意は錬金術へだけでなく、アルテ自身にも強く向いていることは明白だ。


 これだけ自分に対する想いが強い彼女に対し、もし弟子入りを拒んだとしたら彼女はどうなってしまうのだろう——錬金術への道を閉ざしてしまう?


 そんなのは絶対に駄目だ。これだけの才能と、そして錬金術への強い熱意があるというのに。


少女は彼女に対し、『師匠になる資格がないわけがない』と言った。至極自信と、確信に溢れた瞳で。けれど、それは本当なのだろうか?


 だがここで断れば、目の前の少女の瞳はたちどころに曇ってしまうだろう。少しも考えなくとも、そのさまは容易に想像がついた。


 希望にあふれる、彼女の美しく澄んだ瞳を曇らせること。それだけは絶対に避けたかった。

 ——じゃあ、わたしが師匠になるしか?


 そう思えば思うほど、アルテの胸の裡には暗い不安の雲が立ち込める。まるでナイフを喉元に突き付けられたような気分だった。


 自分のような錬金術師が、目の前の少女のような前途有望な少女に与えてしまう影響。それが怖いのだ。


 少女は今も深く頭を下げ、迷いの果てに押し黙ってしまったアルテの返答をずっと待っている。


 その瞳に、迷いは一切なかった。アルテの弟子になるためだけに、彼女はここまで足を運び、そしてその覚悟をこれでもかというほどに見せつけてくれた——今だって、その最中だ。


 どうしたらいいのだろう。自分が師匠にならかったら、彼女はきっと。

 ——でも、わたしにはもう、彼女みたいな気持ちは。


『ここで私たちがやらなければ、きっと最悪な結果になるわ。それならもう、やるしかない。そうでしょ?』


(——えっ?)

 そのときだった。アルテの脳裏に突然、そんな声が響いたのは。

 ——その声は、とても聞き覚えのあるもので。


 脳裏に浮かぶ景色の中、彼女は風に揺れるマリーゴールドのような金色の髪を押さえながら、目の前の二人の友人たちにそう呼びかけ、青玉の瞳に笑みを浮かべた。


『三人なら、絶対に大丈夫。神様もそうおっしゃっているわ。だから、ね?』

 彼女のその言葉に、友人たちは二人顔を見合わせ。

 それから、彼女のその言葉に賛同する。そうね、悩むのはやれることをやってからだわ。うん、きっと今ここで立ち止まってるよりは、行動した方がずっといい結果になるはず……。


 ——それは、アルテの大切な人がかつて口にした言葉であった。

 このときの会話がきっかけで、彼女とその仲間たちの、大いなる厄災と戦うための壮大な旅が幕を開けたのだった。


 何もかもが鮮明に思い出される。千と百年昔、彼女の頬を撫でた風の感触。見渡す限り緑に溢れた大地の香り、それからその言葉を口にした彼女に感じた頼もしさ。


 どうして今、こんなことを思い出したのだろうか。——その問いの答えは簡単だ。

 目の前の少女が、”彼女”にそっくりだったから。


 何もかもが新鮮で、眩しく見えているであろう純真なその瞳が。強い思いを胸に抱き、ただひたすらにそれを貫くそのひたむきさが。


 かつて、この大地の上に確かに立っていたあの少女の姿を、彼女に抱いた気持ちを、アルテに思い出させるのだ。


『そうでしょ! それじゃあ、決まりね!』

 記憶の中の少女は、目の前に立つ二人の少女たちの手を握ってそう言うと、彼女たちに屈託のない笑みを向けた。


 その表情には一点の迷いも曇りもなく、ただひたすらに目の前の希望だけを見続けている。——今、アルテの目の前にいる錬金術師の卵が、錬金術のことを、そしてアルテ自身のことを語るときと同じような瞳をして。


「——ねぇ、顔を上げて」

 今もなお、ずっと頭を下げたままでいた少女に、アルテは告げる。


 ゆっくりと顔を上げた少女の瞳には、期待と、それと同じくらいの不安の色が見て取れた。


 そんな彼女に、アルテは優しく微笑を向ける。それから、そっとその手を差し出した。


「ありがとう、わたしの所に来てくれて」

 するとたちまち、少女の瞳は喜びと、それから涙をいっぱいにたたえ始める。


 そうなのだ。ここで決意しなければ悪い結果になるのは分かっているのなら、決意する他ないのだ。そうすれば少なくとも、今ここで少女の瞳を曇らせるようなことにはならない。


 その先のことは、またそれから考えて、頑張ってみればいいのだ——ついさっきまで不安でいっぱいだったのに、どうしてしまったのだろう。


 その答えは明白だ。

 この少女となら大丈夫なんじゃないか。アルテには無性に、そんな風に思えたのだ。千と百年の遠い過去から、目の前の少女を通し、”彼女”が贈ってくれたメッセージのおかげで。


 芯が強くて、ひたむきで、真っ直ぐで、強い熱意を秘めていて。


 素直そうではあるけれど、決して簡単なことでは曲がったり歪んだりしないような、確固とした意志を持ったこの子となら——”彼女”にそっくりな、この子となら。


 きっと大丈夫だと、思えてきたのだ。


 それに実のところ、アルテはもっと前から彼女の師匠になりたくて仕方がなかったのだ。弟子にしてほしい。そう言った彼女の瞳を見たそのときから、ずっと。


 その瞳に映る、何もかもが新しくて美しい世界を、自分も彼女を通して垣間見ることができたら。


 希望に満ち溢れたその瞳に映る、何もかもが輝かしくて不思議で素敵な”錬金術”の世界を、自分もその隣で覗き込むことが許されたら。


 彼女と一緒に、自分もまたもう一度、楽しい錬金術ができたなら。

 そんな期待を胸に、アルテは少女に微笑んで告げる。


「ふつつかものですが、わたしで本当にいいのなら。これからどうぞ、よろしくお願いします」

「……っ!」


 少女の瞳から、大粒の涙がぽろぽろと溢れ出す。紅潮した頬を伝う涙を、アルテはそっと拭った。


「これからわたしのことは、アルテって呼んで。あなたは?」

「グラキエース……いえ、どうかグラスとお呼びください」


 息も乱れる中、せいいっぱい振り絞ったような震えた声で、けれどアルテと同じように笑顔を浮かべて少女は答える。


 その瞳は、朝の白い光の差し込んだ青水晶のようにきらきらとして、とても美しかった。


 そんな彼女に、アルテは向日葵の花が咲いたような満面の笑みを向ける。

「グラス……。とっても素敵な響きね!」

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