第2話

この世界では、人間は魔物よりもずっと新しい存在として生まれた。正確に言うと、魔力を持つ生命体の総称が「魔物」と呼ばれるため、魔力が生きる上で直接必要ない人間のような種族や、自然界の動物などは、突然変異的なイレギュラーな存在だったのだ。


そのため、遥か昔からこの地に根を張ってきた魔物の方が、圧倒的な数と多様性で繁栄しており、人間の生存圏のどこであろうと、常に魔物からの脅威に晒されていた。安全な場所など、どこにも存在しなかったと言っても過言ではない。


「シリウス、まだ寝てないよね?ちょっと様子を見てくるね!」


ミーシャは、俺が答えに窮するような、確認というよりは独り言に近い問いかけを投げかけると、返事を待つまでもなく、一人でスタスタとシリウスの住む家に向かい始めた。そして、躊躇する様子もなく、外壁を器用に掴みながら、スルスルと二階の窓へとよじ登っていく。シリウスは、他人との接触を極端に嫌うため、彼女なりの強硬手段なのだろうが、何度見てもその大胆さには、微かな罪悪感を覚えてしまう。


ミーシャが二階の窓から音もなく侵入するやいなや、家の中からは、何かが倒れたり、ぶつかったりするような、騒がしい音がしばらく聞こえてきた。しかし、その騒音は突然ピタリと止み、数秒の静寂の後、ギィ、と古びた玄関のドアがゆっくりと開いた。


そこには、少し息を切らせたミーシャと、特徴的な赤い髪をした、いかにも気難しそうな表情の男の子が立っていた。彼こそが、引きこもり気味のシリウスだ。


「なんだよ、いきなり!二階から入ってくるなんて、不法侵入だからな!」


もし自分が同じことをされたら、間違いなく同じセリフを吐くだろうな、と思いながら、俺は苦笑いを浮かべるしかなかった。しかし、不法侵入を犯した本人のミーシャは、全く悪びれた様子もなく、涼しい顔をしている。


「これくらい強引な手段を使わなきゃ、絶対に出てこないでしょ?覚えておきなさいよ、シリウス。ずっと家に閉じこもっていたら、運動不足で体が弱って死んじゃうんだから!」


至って真面目な顔で、どこか的外れな理屈を述べている。まあ、これがミーシャなりに、シリウスのことを心配して考えた結果なのだろうということは、痛いほど伝わってくる。しかし、ミーシャの言葉をまるで遮るかのように、シリウスは小さくうめき声を上げた。


「うぅ……違うんだよ。まさか、魔物とか連れてきてないよね?本当に勘弁してくれよ……」


シリウスが、まるで別人のように臆病になってしまったのは、俺とミーシャが、十三歳の成人の儀式のために教会に出向いてからだった。この世界では、十三歳になると教会で特別な儀式が執り行われ、そこで、かの有名な『ジャーウィッグ聖戦』の象徴とも言える、特別なスキルが神から与えられるのだ。


「大丈夫だって!シリウスはスキル『勇者』なんでしょ!そんなすごいスキルがあれば、魔物なんて一網打尽よ!」


ミーシャの明るい言葉に、シリウスはみるみる顔色を青ざめさせ、まるで恐ろしいものでも見たかのように、慌てて玄関のドアをバタンと閉めてしまった。こうして、俺とミーシャは、あっけなく追い返される形となってしまった。ミーシャは、納得がいかないといったように、唇を尖らせて不満そうな表情を作った。


「まあ、確かに、見た感じだと『勇者』っていうスキルは、直接的に魔物に効果がありそうには見えないかな。もしかしたら、もっと別の、特別な状況でこそ、その真価が発揮されるのかもしれないよな」


俺は、『勇者』というスキルの本当の権能を知っている。もちろん、いずれ適切なタイミングでシリウスにも伝えるつもりだが、今この場で話したところで、間違いなく気味悪がられるだろう。できれば、彼自身がその力に気づいてくれるのが一番理想的なのだが。だからこそ、ミーシャにも、遠回しな言い方で、このことについて触れておいた。


「うーん、確かにそうね。もしかしたら、最後の最後、魔王と戦う時になって、おりゃー!って、ものすごく強くなるとか、そういうパターンなのかもしれないかも!」


ほとんど当てずっぽうだろうけれど、ミーシャなりに、核心に近い部分を理解しようとしていることが伝わってきた。そう、以前にも話した通り、この世界で魔王を倒すことができるのは、勇者のスキルを持つ者だけなのだ。なぜなら、勇者は、魔王が死に際に放つ、絶望的な奥義『ラストアタック』を無効化できる、唯一の能力を持っているからだ。『ラストアタック』というのは、信じられないほど広範囲に及ぶ、巨大なエネルギーの奔流のようなもので、それにほんの少しでも触れただけで、並大抵の者のHPはほぼ全て削り取られてしまう。しかも、恐ろしいことに、この攻撃が当たることで、魔王自身のHPが半分ほど回復するという、まさに反則級の技なのだ。


「でも、シリウスもあと半年もしたら、王都にある有名な学園に通うことになるのよ。あのーほら、シティーボーイってやつ?になるのよ。いつまでも家に閉じこもっていても、ただ後々辛くなるだけなのに」


『勇者』というスキルは、この世界では非常に重宝されており、それを持つ者は、無条件で王都にある超名門の学園に推薦されるという決まりがある。これも、この世界の物語の重要な流れの一つであり、避けて通ることのできない道なのだ。ミーシャが困ったような顔でそう言うのを最後に、俺たちは二人並んで、静かな帰路を歩いた。


「それに比べて、フレイクはいつも堂々としているわね。『ハイパーメタル』って、そんなに安心できるほどの、強力な力を持っているの?」


「いや、『ハイパーメタル』はいつも見ている通り、毎日決まった量の、ほんの少しのメタルを生成できるだけのスキルだ。そこまで強くないよ。俺が冷静でいられるのは、きっと、町の人たちと仲が良いからさ」


俺は、ミーシャの言葉に答えるように、『ハイパーメタル』を発動させて、手のひらに乗るほどの、小さな球体のメタルを出現させた。ずっしりとした重みが、確かに手に伝わってくる。それを見るなり、ミーシャは目をキラキラと輝かせ、「それ、ちょうだい!」と、無邪気に頼んできた。


「いいよ。でも、結構重いから、落とさないように慎重に扱ってね」


またいつものことだ。そう理解しながら、俺はミーシャにそのメタルを渡した。すると、彼女は、別に大切そうに胸に抱えるわけでもなく、ただ手のひらでコロコロと転がして、満足すると、急にギュッと強く握りしめ、一歩後ろに下がった。ミーシャの横で、少し距離を置いて立ち止まる。


「スキル……。『狩人』……。発動して!投擲!」


独特の、短い掛け声とともに、ミーシャの手から勢いよく飛び出したメタルは、まるで重さなど全く感じさせないような驚異的なスピードで、一直線に空を切り裂き、少し離れた場所に突き出た岩に激突した。次の瞬間、ゴツン!という鈍い音と共に、岩は粉々に砕け散り、周囲には細かい砂煙が舞い上がった。その光景を、俺はただただ感心した様子で見つめていた。やっぱり、ミーシャの『狩人』は、本当にすごいな。


「どう?最近、ちょっとだけ早くなったでしょ。飛び道具なら、私に任せておいて!」


ミーシャのスキルである『狩人』は、飛び道具に強力なバフ効果を与え、その速度や威力を飛躍的に向上させる。さらに、スキルのレベルが上がると、飛び道具に炎を纏わせたり、追尾能力を付与したりと、戦闘におけるサポート役として、非常に重宝される能力だ。だからこそ、この能力を持つミーシャは、主人公である勇者に認められ、勇者パーティの重要なメンバーとして、高い地位を得ることになるのだ。


「やっぱ、ミーシャはすごいよ。それに比べて、『ハイパーメタル』なんて、本当にしょぼいスキルだよな」


俺が自嘲気味に笑いながらそう言うと、ミーシャは真剣な表情で俺を見つめ返し、そして、突然、俺の肩をグッと掴んできた。


「でもほら、私の『狩人』とフレイクの『ハイパーメタル』って、すごく相性が良いと思わない?!もしかしたら、フレイクのスキルも、レベルアップしたら、とんでもなく最強のスキルになるかもしれないし!」


「ミーシャ、前にも言ったけど……」


「ううん、もう一度だけ言わせて。私たちが十八歳くらいに成長したら、二人でこの街を出て、一緒に冒険者にならない?絶対に楽しいと思うし、二人で力を合わせれば、きっとたくさん稼いで、立派な家を建てられるわ!」


正直なところ、こんな地味なスキルを褒められるのは、素直に嬉しいし、彼女の誘いを断るのは、少しもったいない気もする。しかし、この世界の物語の流れ、いわゆるシナリオ通りに進まなければ、遥か昔の時代のように、人間が滅亡し、再び魔力を持つ生物がこの星を支配するようになってしまう。魔王が全てを滅ぼし、飲み込んでいく、そんな未来が待っているのだ。


ミーシャの言葉が嬉しいと同時に、胸に込み上げてくるのは、このシナリオのイレギュラーな存在となってしまった、自分自身の不甲斐なさだ。


シナリオを知っているはずなのに、どうして彼女にこんな期待を抱かせてしまうような状況を作ってしまったのだろう。帰り道は、それ以上、会話が弾むことはなかった。

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