鏡の悪夢

武州人也

悪夢

 あの夢を見たのは、これで9回目だった。


 夢の中で、僕は洗面台の鏡を見つめている。それだけならまだ良い。問題は、その「自分」が微妙に違う動きをしていることだった。瞬きのタイミングがずれていたり、顔の表情がどことなく歪んでいたり。それは言いようもない不快感として心の奥に残った。


 最初の頃はただの悪夢だと思っていた。仕事の疲れや、ひどい孤独感からくるものだと……


 9回目の夢の後、異変は現実にも現れ始めた。朝の支度中、洗面所の鏡に映る自分が、こちらをじっと見つめているように感じた。動きを合わせようとわざと頭を傾けると、鏡の自分も同じように動く。しかし、ほんの一瞬、口元が笑ったように見えた――それは自分が笑っていない時だった。


 「ただの思い込みだろう」


 自分にそう言い聞かせた。何かの見間違えだ。きっと残業続きの毎日で疲れたんだ。新社会人なんて、みんなそんなもんだろ? ……そう思わなければ、やっていけない。


 ある夜。僕は気乗りしない飲み会に渋々参加して、その帰りだった。自宅の最寄り駅に着いたとき、右腕の時計を見ると、磁針は十二時より左側に傾いていた。でもまぁ、会社に泊まるのとどっちがマシだろうか。


 疲れ果てて帰宅した僕は、リビングのテーブルに置いている鏡が奇妙に位置を変えていることに気づく。自分はそんなことをした記憶がない。恐る恐る、テーブルの隅に追い詰められた鏡に近づく。それを左手で持ち上げると、鏡の中の自分が、勝手に口を開いた。


「いつまで気づかないふりをするつもりだ?」


 体全体が震える。いてもたってもいられず、逃げ出したくなる。あまりの震えからか、僕の左手から鏡が滑り落ちた。


 気づかないふり……? なんだそれは。


「お前が望んだことだろう?」


 足元の鏡から声がする。その言葉を聞いたとき、何らかの映像が浮かんでくる。しかしそれはもやがかかっていて、どんな場面かはわからない。


「お前が望んだんだ。代わってくれって」


 ああ……そうか、思い出した。毎日がつらかった。こんな人生があと何十年も続くなんて、とても耐えられなかった。だから……


「そうだったな……代わってくれ、なんて言ったのは僕だったよ」


 日々の暮らしに疲れていた。だから何の気なしに鏡の中の自分に向かって「代わってくれたらなぁ」なんてこぼしたんだ。それがこんなことになるなんて……


「でもこれ……何も変わってないじゃないか」


 鏡の中の僕と入れ替わって、鏡の世界の住人になった。けど何も変わらない。仕事はキツいし、将来に何の望みもない。こんなのあんまりじゃないか。


 こんなの、あんまりだ……

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鏡の悪夢 武州人也 @hagachi-hm

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ