【KAC20254】稲妻のレクイエム

黒井咲夜

2042年6月、バルセロナにて

あの夢を見たのは、これで9回目だった。

――なぜ夢の内容も、見た回数を覚えているかというと、レースの前日には必ずあの夢を見るから。


『どうして、お前はまだ生きているんだ』


窓を叩く吹雪。洗面所の床を満たす真っ赤な水。

目の前に立つ黒琥珀ジェットのような瞳の青年は、手首からおびただしい量の血を流している。


『カイ……』


『俺は全てを失った。たった一度のクラッシュで、何もかも……なのにどうして、俺よりも遅いお前が、臆病者のお前が!俺がいるべき場所シートにいるんだ!シモン!』


目覚めて顔を洗っても、血の気が失せたカイの顔が頭から離れない。

クーカイは、F1レーサーだった。

モータースポーツの名門『バルトロメオ・レーシングアカデミー』に所属していたカイは、23歳の若さでフランスの新進F1チームのレーサーになった。

アカデミー時代からカイを兄のように慕っていたオレは、強豪『ビッグベン・レーシング』の地盤を引き継いだF1チームのシートを射止めた兄貴分を誇らしく思っていた。


誰もが、カイの輝かしい未来を信じて疑わなかった。


【――『スペクターディープ』のマシンがコースアウト……おお、神よ!サーキットの壁に激突した!レーサーは無事なのか――】


F1デビュー戦で、カイは脊椎せきつい損傷そんしょうの大怪我を負った。


――先生、俺は、またマシンに乗れるようになれるんですよね?


脊椎損傷による下半身不随。それが、医者がカイに下した診断だった。


――大丈夫だ、シモン。お前が気に病む事はない。運が悪かっただけ。誰も悪くない。そうだろう?


分かってる。カイがオレを責めるはずがないことも、カイがもう、オレの目の前に現れるはずがないことも。


カイは、誰も憎まなかった。

診断を下した医者も、マシンを整備したメカニックも、カイをコースアウトに追い込んだレーサーすらも。

誰も憎まず、誰も恨まず――ただ、静かに絶望して、自ら命を絶った。


――シモン。明日はホリデーだろう?俺のことは気にせず、バルセロナに帰って家族とゆっくり過ごせよ。


病院からイタリア北部のボローニャにあるアパートに戻ったカイは、付き添いを引き受けたオレを帰らせた後、手首を切った。

翌日、アパートの管理人に発見された時には既に息はなく、洗面所は血で赤く染まった水で水浸しだったらしい。


――遺書はなかったのですが、これがベッドサイドにありました。


警察での事情聴取で見せられたのは、一枚の写真だった。

F1アカデミーに昇格した時に、オレと一緒に撮った写真。厚めの紙に印刷された写真の裏には、イタリア語の文章がボールペンで描き殴られていた。


[Nessun maggior dolore che ricordarsi del tempo felice ne la miseria(不幸な時に幸福だった日々を思い出すことほど悲しいものはない)]


オレがあの時帰らなければ。無理を言ってでも、カイのそばにいてやれば。

涙が枯れるほど泣いても後悔は尽きず、歩みを止めても時間は戻らない。

それからは、1日でも早くF1レーサーになりたかったから、ただがむしゃらにレースに出続けた。

F1レーサーになれば、カイを死に追いやったレーサーに近づける。そんな思いで走り続け、ついにオレは『スペクターディープ』のシートにたどり着いた。


「……ごめん、カイ。まだ、お前の仇は討てそうにない」


鏡に映るオレがひどく臆病そうで、情けなくて、鏡を殴りつける。

F1レーサーになったはいいが、成績はあまり良くない。

チームのなかではラップタイム最速だけど、他のチームのレーサーはもっと早いからだ。

『クライマックス・ギア・ライナーズ』のマツリカ・テラス、『GrandMage』のセナ・ハミルトン。そして――


「待ってろよ、ユージーン・サンダース……!」


ユージーン・サンダース。

『ペルセウス・レーシング』ラップタイム最速の男で、カイがコースアウトするよう仕向けたレーサー。

バーレーンGP予選、初めて会った時に、オレはヤツを問い詰めた。その時のヤツの返答は、今思い返しても怒りが湧き上がる。


――カイ・クー?……ああ、彼にはもったいないことをしたよ。まさか、ちょっと遊んでやっただけでメンタルを病んで自殺しちゃうなんて。ナイーブだよねえ、アジア人って。


アイツにカイが味わった苦しみを理解させなければ、オレはF1レーサーになった意味がない。あの悪魔を、この手で――


「トゥルエノー!そろそろ準備できたか?」


ドアの向こうからオレを呼ぶ声が聞こえる。

鏡に向き直り、「シモン・トゥルエノ選手」の顔を作る。

F1レーサーシモン・トゥルエノは、こんな暗い目はしない。


「……今行くから静かに待ってろよ、マッツ!」


――オレはいつになったら、あの夢を見なくなるんだろうか。

カイの遺品の翡翠のマガタマを握りしめ、部屋の扉を開ける。視界に入った鏡の中に、青白い顔のカイがいる気がした。

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【KAC20254】稲妻のレクイエム 黒井咲夜 @kuroisakuya

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