#07 春霞の向こうに

 夢の中、チエは町の外れの丘に立っていた。


 遠くまで続く景色は、ふわふわと淡い霞に包まれている。


 まるで夢の中にいるみたいだ、とチエは思った。


 風は柔らかく、肌をなでるように心地いい。けれど、どこか輪郭がぼやけていて、現実と夢の境目が曖昧になっていく。


「この霞の向こうに行ったら、違う自分になれるのかな」


 ふと、そんなことを考えた。


 今とは違う、もっと自由な自分。誰にも遠慮せず、誰のことも傷つけずに済む自分。


 霞の向こう側に、それがある気がした。


 だから――


 チエは、一歩踏み出そうとした。


 そのとき、ポケットのスマホが震えた。


 はっとして取り出すと、画面にはメッセージの通知。


「どこにいるの?」


 送り主はサキだった。


 胸の奥に、小さな波紋が広がる。


 霞の向こう側に行きたいと思ったのに、サキの言葉が現実に引き戻してくれる。


 チエはしばらく画面を見つめ、そっとスマホを握りしめた。


「……帰らなきゃ」


 霞の向こうではなく、戻るべき場所へ。大好きなサキの居る場所へ。


 チエは静かに踵を返し、春の霞に背を向けた。

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