あの夢を見たのは、これで9回目だった。
氷室凛
第1話
あの夢を見たのは、これで9回目だった。
始めのうちは全体に墨汁のような真っ黒な靄がかかり判然としなかった。しかし中心だけが水を含んだ絵筆でなぞったように薄くなっており、その薄墨の向こうに長い髪の女がいるのが見てとれた。
女は上半身を反らせるように振り返った。夢の中から私を見つめ、誘っているのをはっきりと感じた。
回を重ねるごとに靄は段々と薄くなり、女の目鼻立ちまで判るようになっていった。
こちらを睨めるような細い目、時折嘆息する薄い唇。肌は不気味なほどに白く生気を感じさせない。真っ黒な髪はどこまでも伸び靄と一体化するようだった。
蛇のように怪しい雰囲気であったが、私は目が離せなかった。
彼女に会いたい。彼女はどこにいるんだろう。
その願いに呼応するように夢を見る頻度は増え、見ている時間は長く、見える範囲は広くなっていった。
彼女は一糸纏わぬ姿で黒い水の中に臍の下まで浸かっていた。沼、だろうか。回を重ねても水の中はどろりと濁り、彼女の下半身を見ることは叶わなかった。
沼の周囲には鬱蒼と茂る木々。深い山の中のようだ。日の光も厚い葉に遮られ届かない。ここはいつも薄暗かった。
やがて彼女のいる沼までの道筋も見えるようになった。険しい山道だ。中腹までは山道も整備され見晴らしもいいが、そこより先は獣しかわけいらぬ細い道だ。展望所で握り飯を食べ、体力を回復させてから進む必要がある。足元に注意して進まなければならないが、足元ばかり見てはいけない。ほら、そこ。ちょうど頭の位置に木の枝が張り出ている。
ついには駅からバスに乗って山に向かう様子までわかるようになった。駅名まではっきりとわかる。意外と近い、私の最寄りから3つしか離れていない。
駅からバスに乗ってとあるバス停で降り、そこからタクシーで30分ほどで彼女のいる山に辿り着く。
「お客さん、○○山にはどう言った目的で?」
驚いた。夢の中で音が聞こえたのは初めてのことであった。
私がなんと答えたのかはよくわからない。気晴らしで、とか、たまたま見つけて、とか、適当に答えたのだと思う。
「そうですか。いや、気をつけてくださいね」
タクシーの運転手は山の麓に車を停めた。
「この山には妖の類が住んでいると古くから言い伝えられておりましてね。たまーに、いるんですよ。お客さんみたいに突然ひとりでやってきて、そして2度と戻らないような方が」
私はタクシーが去っていくのを見つめ、その姿が見えなくなってから山に踏み入った。
なにも心配することはない。夢で何度も通った道だし、これもまた夢なのだから。
何度も通った道を踏み締める。やはり中腹までは山道も整備され歩きやすい。展望所で一時休憩し持参した握り飯にかぶりつく。
そして中腹より先、獣道へ。足元に注意して進まなければならないが、足元ばかり見てはいけない。ほら、そこ。ちょうど頭の位置に木の枝が張り出ている。
何度も通った獣道を進み、やがて黒い沼に辿り着いた。
そしていつもと同じように、彼女はいた。どろりと黒い沼の中央、一糸纏わぬ姿で臍の下まで浸かっていた。彼女が振り返る。その拍子に水面が揺れ、真っ黒な沼に隠れていた腰がちらと見えた。
──鱗だ。彼女の腰には鱗がある。人魚だ。
そこで初めて、私は違和感を感じた。
これは本当に夢か?
そう思った時にはもう遅い。彼女が沼から出る。今まで見えなかった下半身があらわになる。下半身は3mはあるだろうかというほど長く──
人魚じゃない。蛇だ。
思わず後ずさる私を彼女は抱きしめた。薄い唇を感じる。
それを最後に、私の感覚は墨汁を流し込まれたみたいに真っ黒になった。
あの夢を見たのは、これで9回目だった。 氷室凛 @166P_himurinn
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