第6話
翌朝、私は喉の痛みで目覚めた。風邪を引いたらしい。思えば昨夜は寝付けず布団を蹴飛ばして眠ってしまった。夢現の中でうなされ記憶もある。体温を測ると38度を超えていた。
会社に電話を入れ、私は久々に仕事を休むことにした。熱に浮かされながら、昨夜見た夢の残滓を思い出す。土手、橋、向こう側へ渡る誰か――。だが頭が朦朧としていてうまく掴めない。ただ、カエデさんの名前を呼んでいたような気がした。
私はベッドに伏せ、一人唸った。熱のせいか、部屋の空気が揺らめいて見える。朝になってカーテンの隙間から射し込む光が、ひどく白々と感じられた。私は一人、浅い眠りと覚醒を行き来していた。
「野宮さん?」不意に耳元で柔らかな声がした。私ははっとして目を開けた。視界には、心配そうに覗き込むカエデさんの顔があった。「大丈夫ですか?」
「――さん……?」私は自分の目を疑った。なぜ彼女がここにいる? 夢だろうか。私は首を振り、額に載せられた冷たいタオルを手で触った。その感触は確かに現実だ。
「だいぶ熱がありますね……」彼女は私の額に手を当て、小さく眉を寄せた。
「勝手に上がっちゃって、ごめんなさい。心配になって……」彼女が申し訳なさそうに言う。私は頭がぼうっとする中で、無性に嬉しかった。彼女が来てくれた。それだけで救われる気がした。
「ありがとう……助かるよ……」私は乾いた喉でそう告げ、微かに笑んだ。カエデさんも少しほっとした表情になる。
「苦しいでしょうけど、水分取らないと。ほら、ゆっくりでいいですから」彼女はスポーツドリンクのペットボトルをストロー付きで差し出した。私は言われるまま一口啜る。生き返るようだった。
「すみません、勝手に……」カエデさんが申し訳なさそうに切り出す。
「午前中に様子見に来たら、熱でうなされてらしたから、お邪魔して……」彼女の頬がわずかに紅潮する。
私は首を振った。
「いや……ありがとう。助かるよ、本当に」本心だった。何とも言えない安心感が胸に満ちていた。
「少しでも楽になるようにしますから、今はゆっくり休んでください」と微笑みながら言った。私はその声に頷き、また目を閉じた。
微睡の中、額の冷たい感触が心地よかった。カエデさんが幾度となくタオルを替え、私の手を握っていてくれたような気がする。瞼を開けると、ぼんやりと彼女がこちらを見ている姿があった。顔が霞んでよく見えない。私は夢か現か判然としないまま、「ありがとう……」と呟いた。すると彼女の姿が歪んだ。――泣いているのか? そんな風にも見えた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」微かな声が聞こえた気がする。私は返事をしようとして喉が詰まった。瞼が重く、再び眠りに引き込まれていく。意識が遠のく寸前、何か柔らかいものが額に触れたような気がした。――それが彼女の唇だったのかどうか、確かめる間もなく私は深い眠りに落ちた。
次に目覚めた時、辺りはすっかり暗くなっていた。私は汗ばんだシーツの上でゆっくりと身を起こした。頭の重さはだいぶ引いている。熱を測ると36度台まで下がっていた。タオルケットに包まれた体を伸ばし、私はぼんやりと周囲を見回した。
「カエデ……さん?」思わず名前を呼んでしまう。しかし部屋には静寂が満ちている。誰もいない。私はゆっくりと記憶を辿った。――昼間、彼女が来てくれたのは夢ではない。枕元には新しい水のボトルが置かれていたし、キッチンへ行くと鍋にお粥が用意されていた。
蓋を取ると中はすっかり冷めていたが、胸が熱くなった。幻じゃなかった。彼女は本当に看病してくれていたのだ。私は冷めたお粥をレンジで温め、ゆっくりと口に運んだ。優しい味が広がる。布団の側には彼女からの手紙が残されていた。
便箋には丁寧な字で、私の体調を気遣う言葉と、「門限が厳しいので、今日はここまでにします」と綴られていた。実家住まいの彼女には門限があるらしい。破ればしばらく外出禁止になるとも書かれている。だからやむなく帰ったと。その代わり鍋にお粥を作っておきました、と結ばれていた。
私は手紙を握りしめ、胸がじんと熱くなるのを感じた。「なんて子だ……」心底ありがたいと思った。あんなに気丈に振る舞っていた彼女が、私のためにここまで親身になってくれるなんて。私はすっかり彼女のことが愛おしくなってしまっていた。熱に浮かされて見た彼女の涙の幻影が脳裏に焼き付いている。あれが現実か夢かは分からないが、もし彼女が自分のために泣いてくれたのだとしたら……私は何としてでも彼女を幸せにしたいと思った。
体調もだいぶ良くなり、私は翌朝無事に出社した。オフィスでは、休んだ私をサカキが案じて声をかけてきた。
「大丈夫か? 昨日死にかけてたって聞いたぞ」
「熱が出ただけさ。でも看病してくれる人がいて助かったよ」と苦笑しながらさらりと答えた。
サカキは何故か複雑な表情をした。
「ああ、彼女がいてくれて本当に助かった。おかげで大事に至らず済んだよ」
サカキは気まずげにもじもじと視線を泳がせる。
「いや……なんかな……うまく言えないけど、釈然としないというか……すっきりしねえな」
私は不思議に思った。
「何がだ?」
サカキは言葉を濁した。
「いや、あいつがさ……お前とそういう仲だって考えると、どうも……なあ」私ははたと気づく。私が彼のイトコと親しくしていることになる。それが気になるのかもしれない。自分のイトコと同僚が付き合うとはイマイチ納得出来ないものがあるらしい。
「騙されたりとか、そういうんじゃないから安心しろよ。それに“毎日顔突き合わせてる奴”が親戚ならむしろいいじゃないか。よく知ってる仲だし」
サカキは渋い顔をした。
「いや、そういうのじゃなくてさ……違うんだ……」結局彼は首を振り、「やめやめ。この話やめだ」と自分から話題を切った。私もそれ以上追及せず、タイミングよく課長が来て話題は流れた。
だが私は一つ心に決めていた。カエデさんに、自分の気持ちをきちんと伝えよう、と。先延ばしにしてきたが、彼女がどれほど私にとって大切な存在か、改めて思い知ったのだから。
その日も彼女は来なかったが、夕食前には手紙と食事が用意されていた。喉の痛みを気遣う文章とともに、温かいシチューが鍋に入っていた。
「シチューか……」私は笑みを漏らす。栄養たっぷりで優しい心遣いだ。
だが私は少し寂しかった。部屋で待っていてくれても良かったのに、と我ながら虫のいいことを思う。お粥の時もそうだが、彼女はいつも私が帰る前に帰宅してしまう。
「いや、贅沢言うな」私は頭を振った。彼女に直接礼を言えないのはもどかしいが、それはこちらから連絡先を聞いていないのが悪い。手紙でのやり取りなど昭和の中学生の文通のようだが、それもまた彼女らしい純朴さゆえだろう。
私は夕食前に手紙の返事を書くことにした。内容はこうだ。親戚の結婚式が決まったこと、母から結婚についてせっつかれていること、それに対する自分の気持ちなど。要は彼女の結婚観を探る試みだ。結婚願望があれば話に乗ってくるだろうし、流されたらそれまで。脈があるかどうか確かめ、無ければ改めてデートに誘ってみよう――そう考えて、私は文面を慎重に綴った。
しかし返事を書き進めていくうち、私は段々と思い悩んできた。文字を睨みつけ、何度も書き直す。直接「付き合ってる人はいますか?」と尋ねるのは唐突すぎるし、あまりに直球だ。私はもどかしくペンを回した。そうだ、結婚式の話題から入って、親からのプレッシャーの話をして、そこから自然に誘導しよう。結婚に興味を示してくれたら脈ありだろうし、スルーされたらまたアプローチ法を考えよう。
私は慎重に文字を綴り始めた。その時だった。
ふと気づけば、私は土手に立っていた。視界に広がる大河。夕陽が木々に赤く射し、私の影が長く引き伸ばされている。また、夢だ。私は苦笑した。どうやらうたた寝してしまったらしい。紙とペンを持ったまま眠りに落ちるとは。
しかし夢だと気づいても、すぐには覚めない。私は諦めて土手を歩き始めた。頭の片隅では、手紙を書いていた途中だという現実の自分を感じていたが、夢の中の私は呑気なものだ。せっかくの夢なのだからと、足取りも軽く土手を進む。
大きな川、雑木林と住宅地。空には茜が滲んでいる。私は夢中で周囲を見回した。何か面白いものはないか――。そう思った矢先、視界に動くものを捉えた。
対岸へ架かる橋の上。誰かが橋を渡って向こう岸へ向かおうとしている。私は小走りにその人物を追った。次第に後ろ姿が見えてくる。スラリとした肢体、肩までの髪。私ははっとする。あれは――カエデさんだ。
「カエデさーん!」私は大声で呼びかけた。だが彼女は立ち止まらない。それどころか私の呼び声は風に掻き消され、耳鳴りに変わった。私は焦り、走る速度を上げる。
橋の手前まで来た時、急に頭のてっぺんから何かが引き抜かれるような感覚に襲われた。「うわっ」視界が白く瞬き、私は思わず足を止める。すると次の瞬間には、風景が一変していた。
私は、自販機の前に立っていた。コンクリートの地面、周囲は見知らぬ路地。手には500円玉が握られている。目の前の自販機にそれを入れ、コーヒーのボタンを押す。――私は一体何をしている?
妹人形 @kurokawa9275
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