第4話

 日曜日の夕方、私は気分転換に家を出てコンビニへ向かった。昨夜の不気味な出来事の記憶を振り払いたかったのもある。さすがに今日は何事もないだろう、と自分に言い聞かせながらアパートを後にした。

 歩いて数分の場所にあるコンビニに入り、私は店内をぐるりと見渡した。何か簡単な夕食と飲み物でも買って帰ろうと思ったのだ。棚には出来合いの弁当やお惣菜が並んでいる。二日酔い明けでまだ本調子でない胃には、重すぎないものがいい。私は棚から冷やし中華を手に取った。

 レジへ向かおうとしたその時、背後から勢いよく声をかけられる。「タクちゃんタクちゃん、今週のジャンプ置いてないですか?」若い女性の声が店内に響く。私は思わず足を止め、声の主を振り返った。

 レジの前には私と同年代の若い女性が一人、店員に詰め寄っていた。ショートカットの髪にTシャツ姿。小柄な彼女は、私の知人ではない。彼女は店員らしき青年に、週刊少年ジャンプの在庫を尋ねているようだ。

 店員――名札に「藤田」とある青年が苦笑して答えている。「いやあ、さすがに今週号はもう売り切れですね」。女性は「あー、やっぱり……」と残念そうに肩を落とした。「今週買い忘れちゃって……一話飛んだら内容分からなくなっちゃうし……」と独りごちている。

 私はふと、昨日立ち寄った別のコンビニで週刊ジャンプが残っていたのを思い出した。あの店なら彼女の探し物が手に入るかもしれない。普段なら関わらないが、声を聞いた瞬間なぜかほっとしたのだ。昨夜の得体の知れぬ恐怖から現実に引き戻されたようで、私は思わず口を挟んでいた。

「すみません、ジャンプでしたら、坂を登った通り沿いのコンビニにありましたよ」女性と店員がこちらを見る。女性は目を輝かせ、「本当ですか!」と私に詰め寄った。

「ええ、先ほど見かけました。ここから坂道を上って左に曲がったところの店です」と説明する。

「ありがとうございます!」女性はぱっと顔を綻ばせ、お辞儀をした。子供のように純粋な笑顔だった。私は妙に心が和んだ。

「いえ、お役に立てて何より」と答える。

「行ってきます!」と女性店員に伝え、小走りで店を飛び出して行った。

 私は残された形でレジに進み、冷やし中華を会計して店を出た。帰路、ふと先ほどの女性のことが気にかかり、坂道の方へ遠回りしてみることにした。

 ゆるやかな坂道を上がり切った角に、そのコンビニはあった。店の前で先ほどの女性がビニール袋を提げ、大きく手を振っている。

「あ、先程はどうも!」彼女が私に気づき、明るい声で呼びかけてきた。

 私は軽く会釈して足を止める。ビニール袋の中には、確かに今週号のジャンプが見えた。彼女は満面の笑みだ。

「本当に助かりました! おかげで一話抜けずに済みましたよ」と感謝の言葉を口にする。私は照れくさくなり「いや、大したことじゃ」と手を振った。「好きな漫画が読めないともどかしいもんね」と付け加えると、彼女は勢いよく頷いた。

 「そうなんです! 一週飛ばしちゃうとストーリー分からなくなっちゃうし、私にとってはジャンプがないと人生じゃないってくらいで!」彼女は大袈裟に言って笑う。その表情は生き生きとしていた。私は思わずつられて微笑む。漫画の話でここまで熱くなれる人は久しぶりに見た気がする。

 「最近はどんなのが面白いんです?」私は訊ねた。彼女は待ってましたとばかりに、「最近だと、先月アニメ化が決まった○○って作品ですね! 基本バトルものなんですが、日常パートが○○で――」と矢継ぎ早に語り出した。

 その熱量に、私はぽかんとする。だが嫌な感じはしなかった。むしろ微笑ましく、その情熱に刺激されて私も自分の好きだった漫画について語り返した。学生時代、漫画好きの友人と夜通し語り合った頃を思い出す。社会人になってからはこんな風に漫画談義をする相手も減っていたので、私は次第に夢中になっていった。

 「そういえば、最近○○って連載が掲載順落ちてて心配なんですよ――」彼女が興奮気味に語る。話は尽きないようだった。私もすっかり時間を忘れて相槌を打つ。立ち話の間に、あたりは茜色から群青へとその色を深めていった。

 すると、不意に私の腹がぐぅと鳴った。長話で時間が経ち、夕食時をとうに過ぎていたのだ。私は顔を赤らめ、「す、すみません、引き止めちゃって」と彼女に頭を下げた。彼女もハッとして「いえいえ、こちらこそごめんなさい。夢中になっちゃって……!」と平謝りする。

 私は苦笑した。「とんでもない。久々に漫画の話ができて楽しかったですよ」と本音を漏らす。彼女はほっとしたように微笑んだ。

 私はふと思い立ち、「あ、そうだ。せっかく知り合ったんだし、お名前を伺っても?」と言った。考えてみれば随分話し込んだのに、自己紹介もしていなかったのだ。

「あ、そうですね」彼女はバツが悪そうに笑った後、姿勢を正した。「サガワです」と彼女。

 「サカキさん?」私は聞き返した。どこかで聞いたような苗字だった。すぐに思い当たる。「ああ、友人と同じ苗字ですね」

 彼女は不思議そうに首を傾げる。

「いえ、サガワカエデです」

「すみませんでした、サガワさん。友人にサカキというのがいて……」

「そうでしたか」

 私は頷いた。「ええ、職場の同僚で“サカキ”って奴がいて……漢字は違うけど、“サガワ”と読みが似てるでしょう? だから一瞬、頭のなかでこんがらがって」

 言いながら、ふと胸がざわついた。サカキ。あの妹さんの兄。私は彼女とサカキの顔を思い浮かべ、何か共通点がないかと探した。だが見たところ似ている様子はない。

 彼女は笑った。「あー、“サカキ”さんですか。確かにちょっと似てるかもですね」私は軽く驚いた。「え? 彼を知ってる?」彼女は首を横に振った。「いえ、偶然ですけど、イトコに“サカキ”って名字の子がいるんです。」

 イトコ……?

「もしかして、そのイトコってノリユキって名前?」思わず訊いてしまった。

 彼女の目が瞬いた。「ええ、そうです! ご存知なんですか?」私は息を呑んだ。サカキ・ノリユキ――間違いない、私の同僚である友人サカキだ。まさかこんな偶然があるとは。

 「そうか……」私は呆然として彼女と頭の中のサカキを見比べるように視線を泳がせた。そう言われてみれば、雰囲気に共通するものがある気もする。面長の輪郭や鼻筋の感じが、どことなく似ている。

 彼女――サガワさんは照れくさそうに笑った。

「こんな偶然、あるんですね。びっくりしちゃった」

 私は混乱しつつも、「ほんとだよ。こんな身近にサカキのイトコがいたとは」と笑った。

 サガワさんは続ける。

「彼とは中学くらいまでよく遊んだんですけど、最近は冠婚葬祭くらいしか会わなくて……。でもこの辺に住んでるって話は聞いてたから、もしやと思ったんです」

 私は妙な縁に胸が高鳴るのを感じた。なんと私と彼女は共通の知人を持つ間柄だったわけだ。急に距離が縮まったような気がして、私は嬉しくなった。「そうだったんですね……。いやぁ、本当に世間は狭いなあ」と感嘆する。

 彼女――サガワ・カエデさんは屈託なく笑った。「ですね! すごい偶然!」その笑顔はぱっと花開いたように明るかった。私は先ほどまでの不穏な気分が嘘のように吹き飛ぶのを感じた。

 「ところで……」私は躊躇いがちに切り出した。「良かったら、この後、一緒に軽く食事でもどうですか? さっきは話の途中になっちゃったし……」気づけば自然に彼女を誘っていた。彼女の底抜けに明るい雰囲気に触れて、もっと話をしたいと思ったのだ。

 カエデさんは一瞬目を丸くしたが、すぐに破顔した。「はい、ぜひ!」と元気よく答える。その返事が、なんだかとても嬉しかった。

 「じゃあ、どこか入れそうなお店を探しましょう」私はそう提案し、彼女と並んで歩き出した。沈みかけの夕陽が二人の背中を押した。

 選んだのは近くの中華料理店だった。彼女が「焼肉天国に行きたい!」と言い出した時には笑ったが、あいにく満席で、待つのもどうかと代わりに入ったのがそこだった。カエデさん――サカキのイトコだという彼女は、席に着くなり「酢豚セット!」と迷いなく注文した。私は彼女の勢いに圧倒されつつ、メニューを眺め回して麻婆豆腐定食を頼んだ。

 料理が運ばれてくるまでの間も、会話は弾んだ。漫画の続きを語ったり、子供の頃好きだったアニメの話になったり。まるで旧知の仲の友人と語り合っているような錯覚すら覚えた。共通の話題というものは斯くも人を打ち解けさせるものかと、私は内心驚いた。

 「いただきまーす!」カエデさんは運ばれてきた酢豚に箸を伸ばした。勢いよく食べ始める様子に、私は目を丸くする。彼女はもぐもぐと口を動かし、幸せそうに眼を細めている。ふと見ると、私の取り皿にまで彼女が酢豚をひょいと乗せてくれた。「これ、美味しいから食べてみて!」

「あ、ありがとう……」私は戸惑いながらそれを口に運ぶ。甘酢の風味が広がり、確かに美味だった。カエデさんは嬉しそうに笑う。

「ね、美味しいでしょう?」私は頷いた。その時、ふと気づいた。彼女は自分の酢豚を食べ終え、私の麻婆豆腐にも興味津々の視線を送っている。

「良かったら麻婆もどう?」と苦笑しなが勧めた。

「いいの!? やったー!」と彼女箸を伸ばす。私はそれを見て、思わず吹き出した。豪快にご飯を頬張る彼女は、世間一般の「女性は小食」というイメージを易々と打ち砕く勢いだった。

 結局、私は彼女のために次々と料理を小皿に取り分け続けた。網ではなく皿の上で展開される焼肉奉行のような状態だ。だが、不思議と苦にならない。むしろ彼女の旺盛な食欲に感心していた。

「ふう、お腹いっぱい!」カエデさんが箸を置き、満足げに息を吐いた頃、テーブルの上には皿が綺麗に空になっていた。私も久々にしっかり食事を摂った気がする。二人でジャスミン茶を飲みながら一息つく。

「ねえ、次に描く漫画のネタ、どんなのがいいと思う?」ふとカエデさんが身を乗り出して尋ねてきた。私は「へ?」と聞き返す。彼女はイラストレーターをしていると言っていたが、漫画も描くのだろうか。

「実は漫画賞に投稿しようと思ってて……次の作品、何にしようか迷ってるんだ」とカエデさんは照れたように笑った。私は一瞬たじろいだ。プロの卵から作品ネタを相談されるとは思わなかったからだ。

「うーん、そう言われてもなあ……」私は腕組みして考え込む。すぐに名案など浮かぶわけもない。

「じゃあ不思議な体験とか、ない?」とカエデさんは箸袋で遊びながら視線を輝かせてきた。

 不思議な体験――頭に真っ先に浮かんだのは、このところの出来事だ。酔夜の人形、不可解な妹さん、そして奇妙な夢。それらが脳裏をかすめ、私は心の中にしまいこんでいたモヤモヤがまたざわめくのを感じた。

「友達の話なんだけど……」私は前置きして語り始めた。もちろん、サカキ自身のことだとは伏せ、話の筋を変えない程度にぼかして説明する。酔って帰ったら「人形を妹と勘違いした友人がいた」など、だいぶ事実とは異なるかたちで話した。自分の中でも整理できていないので、うまく説明できなかったが、カエデさんは熱心に耳を傾けてくれた。

「――そんな経験があってさ」と話し終えると、カエデさんは小首を傾げた。

「うーん、少年漫画ではそのままは難しいかな」と率直な感想が返ってきた。私は苦笑する。「だよね」と。自分でも取り留めのない怪談めいた話だとは思った。

 カエデさんは続ける。「でも珍しい話ではないかな?」そう言って少し目を伏せた。「珍しくない?」と私が聞き返すと、彼女は首を横に振る。「ううん、その……いい歳して何十万も人形に注ぎ込む人って、この界隈にはゴロゴロいるから……」と言う。

 私は驚いた。「ゴロゴロいるの?」カエデさんは頷いた。「フィギュアなら星の数ほど。等身大ドールとなると減るけど、知り合いで車の助手席にいつも乗せてる人もいたなあ」

「車の助手席に!?」私は思わず声を上げた。想像してみて、そちらの方がよほど怪談じみていると感じた。カエデさんは楽しそうにクスクス笑った。

「でしょ? 上には上がいるってこと」

 私は肩の力が抜けた。確かに、世の中には理解できない趣味を持つ人は案外いる。あのサカキの振る舞いも、ただの人形趣味の暴走だったのだとしたら……そう考えると少し気が楽になった気がした。

 店を出た頃には、すっかり夜も更けていた。私は会計を済ませようと財布を出したが、彼女が「ここはおごるよ!」と笑った。私が「いやいや、そんな」と断る間に、彼女は素早くレジで支払いを済ませてしまった。「タダ飯は高くつくからね!」と悪戯っぽく笑う。私はやれやれと思いつつも、その明るさが心地よくて何も言えなかった。

 夜風が心地良い。店から出て駅前まで彼女と歩く間、私はふと最近の鬱屈が晴れているのに気づいた。カエデさん――奇妙な縁で知り合った彼女のおかげで、私は久々に笑い、心から食事を楽しむことができた。あの薄気味悪い人形の記憶も、サカキの妹さんの件も、まだ胸には残っている。だがそれを乗り越える元気が少し湧いてきたような気がした。

 「今日はありがとう」別れ際、私は深々と頭を下げた。「こちらこそ、助けてくれてありがとうございました!」カエデさんも笑顔でお辞儀する。私は言葉を継いだ。「また、良かったら……ご飯でも行きましょう」

 カエデさんは一瞬驚いたようだが、すぐににっこりした。「はい! ぜひぜひ!」遠慮ない返事が返ってきた。

 こんなふうに誰かと食事をするのは、随分長い間なかった気がする。私は心が弾むのを感じていた。その夜、私は久しぶりによく眠れそうな気がした。

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