妹人形
@kurokawa9275
第1話
「……あ、すみません」――反射的に誰かへ謝っていた。暗い路地で足をもつれさせ、何かにぶつかったらしい。頭の芯まで回ったアルコールが現実感を歪め、足元の感覚を曖昧にしている。地面ばかりを凝視して慎重に歩いていたせいで、前方への注意がすっかり散漫になっていた。
「ばーか、それは人形だって。酔っ払いめ」隣で揺れる友人のサカキがからかうように嘲笑う。彼もまた相当酒を飲んで顔を真っ赤にしていた。私はハッとして顔を上げる。路傍の薄暗がり――そこに立っているのは人ではなくマネキンだった。煤けたストリートライトの下、なぜこんな場所に置かれているのか見当もつかないマネキン。無機質なその肢体が、闇の中にぼんやり浮かんでいる。
サカキと二人、終電を逃すほど飲んだ帰り道だった。私はふらつく足を踏ん張り、路上のマネキンに向かって軽く頭を下げていた自分のおかしさに気づく。酔いで混濁した意識は、人形相手にでも謝らずにはいられなかったのだ。夜の冷気にさらされたマネキンは無論何も言わない。ただ無表情な顔だけがこちらを向いているように見えた。その目が、暗闇に光る硝子玉のようで、不意に背筋に薄ら寒いものが走る。
「行くぞ。ほら、置いてくぞ」先を行くサカキが振り返り、私に声をかける。私は慌ててマネキンから目を逸らし、ふらつく足取りで友人を追った。
数歩ごとによろめきつつ、ようやくサカキのアパートへと辿り着く。古びた木造の二階建てだ。玄関の脇には小さな照明が灯っている。普段なら真っ暗なはずのその建物に、今夜はどこか人の気配があった。
「いやー、悪いな」サカキが私に礼を言うが、その態度はどこか他人事のようだった。彼も泥酔しており、言葉に心が伴っていない。しかし私は、彼を放ってこのまま帰ることもできない。路上で寝て凍えるくらいならまだしも、こんな調子で交通事故に遭われては目も当てられない。私は呆れながらも「悪いと思ってるなら、今度飯でもおごれ」と軽口を叩く。実際、彼を部屋まで送り届けるのも骨が折れそうだからだ。
「わかってるって……」サカキは苦笑した。だが自分の足で階段を上れるかどうか、私には少々疑わしく思えた。玄関先から見上げると、二階右端の一室に灯りが漏れている。サカキの部屋だ。こんな夜更けに明かりがついているということは、人の気配がある証拠だった。
サカキはそこで初めて「やばい」という顔をした。「あちゃー……」と彼が声を漏らす。
「何が『あちゃー』なんだ?」私が怪訝に尋ねると、サカキはしどろもどろに「あ、ああ……いや」と言い淀んだ後、「今日は会社の接待で遅くなったってことにしてくれないか」と頼んできた。
私は訳が分からず眉をひそめる。「口裏を合わせる? 一体誰に?」問い返すと、サカキはさらに罰が悪そうに頭をかく。「……妹が待ってるんだよ。すっかり約束すっぽかしてさ。頼むから適当に誤魔化してくれ」
妹。――彼は「妹」と言った。私は酔いで鈍った頭を働かせる。サカキに妹がいるとは聞いていたが、会社の同僚でもある彼女がこんな夜中に兄の部屋で待っているのか? サカキは困ったように両手を合わせて何度も頭を下げている。そこまで必死な様子に圧され、私は「まあ、いいけど……」とうなずいた。
正直、年下の兄弟にここまで気を遣う兄の心理は私にはピンと来ない。私にも弟がいるが、こんな深夜に叱られるのを恐れて縮こまるような関係ではなかったからだ。それでも、友の頼みとあれば仕方ない。私は首筋を掻きながら「断る理由もないしな」と了承した。首筋には先程から小さな痒みがあった。蚊にでも刺されたか? いや、十二月の手前のこの時期に蚊はいないだろう。妙な痒みだったが、私は深く考えず手の甲で軽く叩いた。
私たちは軋む階段を踏みしめ二階へ上がる。サカキは玄関扉の前で深呼吸し、一度インターホンを押した。「自分の家なのにインターホンか?」と私が小声で突っ込くと、サカキは肩をすくめる。どうやら酔いと後ろめたさで、直接ドアを開ける勇気が出ないらしい。
しばらくして中から足音が近づき、扉が開いた。暖かな室内の空気とともに、人影が姿を現す。
「……おかえり。遅かったじゃない」低い怒りを含んだ声。そこに立っていたのは、小柄な少女だった。年の頃は中学生か、いや小学生高学年くらいにも見える。サカキの妹……だろうか? しかしサカキは二十代後半だ。この年の離れた妹というのも不思議な感じがする。
彼女は私たちを見るなり、兄であるサカキを鋭く睨みつけている。灯りに照らされた顔は、兄とは似ても似つかぬほど幼い。サカキは気まずげに笑い、「おーい、トモミ。今日はすまなかったな。どうしても外せない仕事が入ったんでな」と妹――トモミさんに声をかけた。トモミというのが妹の名前らしい。私も約束通り、「新規の顧客につかまっちゃってさ……君のお兄さん、渋々付き合わされてたんだ。遅くなって悪かったね」などと嘘八百を並べる。酔った勢いで出る与太話だが、サカキはホッとした表情で頷いた。
だが、目の前の“妹”はというと――奇妙なことに、一言も発しない。兄の言い訳にも私の愛想笑いにも、微動だにしないのだ。無表情で立ち尽くすその姿は、まるで……まるで人形のようだった。私は喉に違和感を覚え、ごくりと生唾を飲み込む。
「トモミ?」サカキが恐る恐る妹の顔を覗き込むが、彼女は硬直したままだ。あまりに反応がないので、私も戸惑ってしまう。初対面の私にどう接していいか分からず固まっているだけだろうか。サカキは気まずさを誤魔化すように、「あ、紹介遅れたな」と私に向き直った。「こいつが妹のトモミ。で、こっちが同僚のノミヤだ」私もできるだけにこやかに「こんばんは、ノミヤといいます」と会釈した。しかしトモミさんは返事どころか表情ひとつ変えない。
その沈黙が居たたまれず、私は適当に話題を継ぐ。「いやぁ、急に押しかけて驚かせちゃったかな。ごめんね」と自嘲ぎみに笑ってみせる。もちろん彼女から何の反応もない。まるでそこに立つ人影だけ現実から切り離されたマネキンか何かのようだ。私は背筋にまたゾワリと嫌な感覚が走るのを覚えた。
サカキは苦笑して、「トモミの奴、俺のせいで機嫌が悪いみたいでさ……昔から家族には強気だけど、初対面の人とはどう接したらいいか分からない内気な子なんだ」と私に説明した。まるで目の前の無表情な存在が本当の妹であるかのように。私は曖昧に頷くしかなかった。
しかし、私の心中には得体の知れない疑問が渦巻いていた。この少女、いやこの“何か”は本当に人間なのか? 酔った頭で失礼とは思いつつ、私は目の前の妹さんをまじまじと観察した。
黒い瞳、黒い髪。背丈は私の胸ほど、一メートル強か。第一印象では西洋人形のようだと思ったが、瞳も髪も日本人と同じ色をしている。服装はドレスではなく落ち着いた外出着で、しかし少し時代がかった清楚なデザインだ。彼女は視線を宙に固定したまま、瞬き一つしない。私と目が合っているようで合っていない、その焦点の定まらなさが不気味だった。
(まさか。本当に人形ってわけじゃ……)私は頭を振ってそんな馬鹿な考えを追い払う。だが、すぐに別の考えが浮かぶ。――この少女は、もしかするとさっき路上にあったマネキンと同じ種類の存在ではないのか? 泥酔しているとはいえ、そんな非常識な空想が頭をもたげる。
喉が渇いて仕方ない。居間に通され、私はソファに腰を下ろしながら、「お構いなく……」と口にした。その声が震えていないか、自分でも分からなかった。私の隣にサカキ、その向かいの一人掛けソファに妹さんが腰を下ろす。彼女はこちらを向いたまま、相変わらず硬直している。
耐えかねた私は「夜も遅いし、そろそろお暇しようかと……」と立ち上がりかけた。するとサカキが「ああ待って、せめてお茶でも出すから」と慌てて台所へ消えていった。私は引き止められる形でソファに腰を下ろし直す。すると、サカキがいなくなった部屋には、私と妹さん――そしてあの奇妙な沈黙だけが残された。
時計の針がやけに大きな音を立てて進む。私は居心地悪く辺りを見回した。殺風景なワンルームだ。薄暗い照明の下、壁際には整理のついていない本棚とテレビ。その隣に、ぽつりと“それ”が立っていた。……人形。先ほど扉を開けた時にいたはずのトモミさんが腰掛けているソファとは反対の壁側に、別の人形がぽつんと立っているのだった。その姿は、不自然なほど部屋の空気から浮いて見えた。
私は一瞬ギョッとして、改めて妹さんの方を見た。ソファに座った彼女は依然として無表情で動かない。だが、“人形”はもう一体ある。そちらは明らかに装飾的な古い市松人形のようだ。艶のないガラス玉の瞳がこちらを見つめている気がする。
(サカキの趣味だろうか?)薄気味悪さを振り払おうと、私は壁際の人形へと歩み寄った。一メートルほどの高さ。日本人形のような古風な顔立ちに洋風の衣装という奇妙な出で立ちだった。先ほど路上で目にしたマネキンほど大柄ではないが、子供くらいの存在感がある。
私は恐る恐る手を伸ばし、その人形の指先に触れてみた。ひんやりと硬い。ただの人形だ。当たり前の結果に安堵しつつも、背後の妹さんの視線が気になり振り返る。しかし彼女もまた瞬きもせずこちらを見ている。私は人形と彼女を交互に見つめ、喉が渇いてごくりと唾を飲んだ。
――視界の端で、壁際の人形が瞬いたような気がした。
「……っ!」私は思わず心臓が跳ね上がり、後ずさった。人形など瞬きするはずがない。ただの気のせいだ――そう自分に言い聞かせようとする。しかし、酩酊した意識は合理的な判断よりも恐怖を優先した。私の首筋の痒みが一層鋭くなる。まるで皮膚の下を蟻が這うような、不快な痒さだ。
その時、台所から「ほら、お茶だよ」とサカキの声がした。私はハッとして振り向く。いつの間にか戻ってきていたサカキがお盆に急須と湯呑みを載せている。私は反射的に壁際の人形から身を離し、サカキの隣へと戻った。
湯呑みに注がれたお茶を一口飲む。熱い液体が喉を焼いたが、その熱さですら現実感を取り戻させてくれるように思えた。「ど、どうも……ありがとう」と私は礼を言う。サカキは苦笑しながら「いや、客人に酒臭いまま帰らせるのも悪いしな」と答えた。しかし彼も湯呑みに手を付けず、ちらりと妹さんの方を窺っている。
トモミさんは依然として無言だった。兄が戻ってきても、私が何を言っても、まるで石像のように動かない。その不自然さは、やはりどう考えてもおかしい。私はついに我慢できず、サカキの耳元に顔を寄せ小声で囁いた。「なあ、サカキ……」――言おうか言うまいか、躊躇った末に言葉を継ぐ。「彼女、本当に妹さんか? ……人形じゃないのか?」
サカキは一瞬ポカンとした後、「何言ってんだお前」と酔いの醒めたような声で返した。その反応を見る限り、彼自身は目の前の少女を本物の妹だと思っているようだった。私の問い自体が酩酊した冗談と受け取られたのか、サカキはくくっと笑う。「酔っぱらいすぎだろ、ノミヤ」
私はそれ以上踏み込めなかった。人形だなんて言い出したら正気を疑われるに決まっている。私は苦笑し、「……いや、なんでもない」とごまかした。だが違和感は拭えない。私は恐る恐るもう一度ソファの彼女に視線をやる。するとその時、ふいに彼女が首を傾けた。
「……お兄ちゃん?」蚊の鳴くような、小さな声が聞こえた。初めて耳にするトモミさんの声だった。サカキがはっとして振り向く。「どうした? トモミ」
妹は静かに立ち上がった。ぎこちない動きだった。まるで関節が錆び付いている人形が無理に動いたような……そんな滑稽さと禍々しさが同居する立ち上がり方だった。私は思わず息を呑む。
トモミさんはふらりとサカキの方へ歩み出る。彼女の足取りもまた奇妙に硬い。一歩、また一歩と兄との距離を詰める様は、無音のからくり人形を見ているようだった。
サカキは困惑し「お、おい、どうしたんだよ」と尋ねるが、妹は答えない。そして兄の目前まで来ると、不意にその胸に顔を埋めるように倒れ込んだ。
「トモミ!」サカキが驚いて妹の体を支える。私も立ち上がり様子を伺う。妹は兄の胸に顔を伏せたまま、小刻みに震えているようだった。声にならない嗚咽のようにも見えるし、笑っているようにも見える。私はどうしていいか分からず立ち尽くした。
「悪かったな、トモミ。本当に悪かった……」サカキが妹の頭をそっと撫でる。その表情は今にも泣き出しそうだった。妹は何も言わない。ただ兄の胸に顔をうずめ、震え続けている。私にはそれが感情の発露なのか、それともただの偶然の揺らぎなのかすら判断がつかなかった。
私は身の置き所がなくなり、「え、えっと。そろそろ失礼するよ」と切り出した。「今日は遅くまでありがとう。僕はこれで――」と立ち去ろうとする。サカキはハッと顔を上げ、「ああ、送ってやれず悪いな。気を付けて」とだけ言った。妹を抱き留めたまま、私を引き止めることはなかった。
私は逃げるように部屋を後にした。背後で扉が閉まる微かな音がしたが、振り返らなかった。ただ階段を駆け下り、夜の路上に飛び出す。
途端に冷たい夜風が酔い覚ましに吹き付けた。私は額ににじんだ汗を手の甲で拭い、荒い呼吸を整える。胸が騒ついていた。あれはなんだったのか? あの少女は本当に人間なのだろうか?
首筋の痒みがやけに現実的な感覚として蘇る。私は無意識にぽりぽりと引っ掻いた。指先に少し湿った感触が残った。掻きむしりすぎて血が滲んだのかもしれない。だがそんな痛覚さえ、今ははっきりとしない。頭の中が朦朧としている。私はフラフラと夜道を歩き出した。
さっきの部屋で見たものすべてが、アルコールの魔による幻であって欲しかった。サカキの妹がただ拗ねていただけであればどんなによかったか。だが理性の残滓は囁く。――お前ははっきりと見たはずだ、と。振り向けば、二階の右端の窓からこちらを見下ろす影があるのではないか。そんな妄想が胸を過る。
私は足早にその場を離れた。背後に視線を感じても、決して振り返らないように。視界の隅、電柱の陰が一瞬揺れた気がした。私の酩酊は覚めきらないまま、夜の街へと紛れ込んでいったのだった。
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