【短編】ムゲンテンセイ~血闘同盟~

まけない犬

【短編】ムゲンテンセイ~血闘同盟~

 白い空間――無限の虚無が広がる世界。

 何もないはずのこの場所には、いつからか「家」があった。

 簡素な作りの家。白い世界の中で、そこだけが異質な温もりを持つ。


「ああ……もうそんな時期か」


 “彼”は目覚め。


 “彼”は静かに立ち上がる。


 何度繰り返したかも分からない。

 その度に何かを残し、その度に何かを失ってきた。


 それから間もなく。

 最初からそこにいたかのように、“彼女”が家の扉を開ける。


 ふわり、と空気が変わった。

 白い空間に咲いた一輪の花のように、“彼女”の存在はあまりに鮮烈だった。


 長く流れる髪は、夜の闇と月光を編んだような色合いをしている。まっすぐに見つめる瞳は、吸い込まれそうな深い青。それでいて、そこにはどこかこの世のものではない冷ややかさがあった。


 彼女の纏う衣は、空間そのものと溶け合うような純白。光を受ければ透けるほどに儚げでありながら、その存在感は揺るぎない。


 しかし、彼にとってはもはや幻想の世界の住人ではなかった。


 彼女は微笑んだ。


「おかえり、キミ。今回は少し早かったわね」


 彼女はゆっくりと息を吐いた。

 この白い空間は、すべてが静かで、すべてが虚無だ。それなのに、彼の意識は間違いなくそこにある。

 彼は呟いた。


「……できれば、眠ったままでいたかったな」


 彼女は微笑んだ。


「ふふ、相変わらずね」


 彼女の声は穏やかだったが、その響きにはどこか“悪戯”めいたものが混じっていた。

 彼がどれほど疲れていようと、彼女にとってはそれすら“ただの流れ”に過ぎないのだろう。


「キミ、本当に嫌なら“消滅”する方法もあるのよ?」

「軽く言ってくれるな……"誰"のせいでこうなったと思ってる?」


 彼は短く笑う。冷たく、しかしどこか諦めを含んだ音だった。

 彼女は、小さく肩をすくめた。その仕草は、まるで自分には責任がないと言わんばかりだ。


「何千年も前のことよ? まだ根に持ってるの?」


 彼女はくすくすと笑った。ほんの些細な失敗を指摘されたかのように。

 彼は視線を落とす。確かに“昔”なら、選べたかもしれない。それでも、今の彼には――


「……昔なら、"消える"こともできたかもしれないな。今は……背負いすぎた」


 言葉にすることで、改めて自覚する。

 彼は“もう、何も捨てられない”のだと。


 すると、彼女は小さく首を傾げ、唇に指を当てる。

 何か考え込むような仕草――だが、その目にはすでに答えがあるようだった。


「ふふふ、そう思い込んでるだけじゃないの? ……それともワタシのこと?」


 彼女は、ほんの少しだけ微笑を深めた。


「……どういう意味だ?」


 彼女はその質問には答えずに言った。


「それだけじゃない。キミは“消える”ことに怯えてる」


 彼は何も言わなかった。

 その沈黙を、彼女は楽しんでいるかのように見えた。


 ふと、彼は辺りを見回す。


「……また、しばらくここで過ごすことになるのか?」

「そうね。次の転生者が来るまで、あと数日か、数週間か、もしかしたら明日かもしれない……本来なら、キミもすぐに送りだすところなんだけどね?」


 彼女はわざとらしく首を傾げ、どこか楽しげに微笑む。


「なら、さっさと転生させればいい」

「それじゃ、つまらないじゃない?」


 彼は静かにため息をついた。


「……本当に、お前は性格が悪いな」

「自覚はあるわよ? キミのこと、ずっと見てきたんだから」

「モルモットとして?」

「キミにそんな可愛げがあるのかな?」


 家の中は、転生の待機時間を過ごすための空間として整えられていた。

 簡素な家具、温かな明かり、そして何度目かも分からない二人のためのテーブルと椅子。


「どうせ転生するまで時間があるし、お茶でも飲む?」

「……まあ、仕方ないな」

「クッキーの残り物があったはずだけど、どこにやったかしら?」

「……何時のだ?」

「うーん、前回のキミが転生したときだから……五十年前?」

「……それ、食べられるのか?」

「さあ?」


 彼は思わずこめかみを押さえる。


「お前、本当に女神か?」

「どうかしらね? キミの前では、ただの“転生を見送る人”かもしれないわよ?」

「……お前の言葉は、時々、妙に意味深で気に入らない」


 静かな白い空間で、二人の時間がゆっくりと流れ始める。

 それが永遠には続かないことを、二人とも知っていながら。



***



 街の喧騒は、ここには届かない。


 昼下がりの陽光が差し込む屋敷の廊下は、静寂に包まれていた。

 大きな屋敷の中に人の気配はほとんどなく、風に揺れるカーテンのはためく音すら、ひどく遠く感じられる。


 祭りの日。


 街では色とりどりの飾りがかけられ、屋台が立ち並び、熱気に包まれている。

 けれど、この屋敷は祭りの喧騒とは無縁だった。

 普段は主人の周囲に仕える「宮」たちも、今日は珍しく外出している。


 ただひとり、ミズリスだけが屋敷に残っていた。

 長い水色の髪をなびかせながら、彼女は静かに廊下を歩く。


 黒を基調としたメイド服は、無駄のない仕立てでありながら、その動きに合わせて優雅に揺れる。

 細く長い耳が僅かに動き、遠くで響く太鼓の音を捉えた。

 彼女はエルフの血を引く存在――そして、屋敷のメイド長でもある。


 屋敷の主は不在だった。

 だが、“若さま”は、いつもと変わらず書斎にいた。


 静寂の中、ページをめくる音だけが響く。


 使い込まれた革装の表紙、分厚いページ。

 それは、大人でも理解に苦しむほどの難解な歴史書だった。


 しかし、それを手にしているのは、幼い少年の姿をした若さまだった。


 黒髪の短い前髪が、伏せがちな瞳に影を作る。

 その黒い瞳は年齢にそぐわないほど冷静で、書物の内容を確かめるように淡々と追っている。

 それでいて、ただ活字を流し読んでいるようにも見えた。


 その仕草には、幼さよりも「疲れ」の方が滲んでいた。


 陽の光が差し込む窓辺で、彼は無造作に椅子へ腰掛けている。

 読むことに没頭しているようでいて、その仕草はどこか気怠げで――まるで、“時間を潰している”かのようだった。


 ミズリスは、その光景をしばし見つめた後、静かに声をかける。


「……若さま、少しはお休みになられては?」


 優しく響く声。


「……もうそんな時間?」


 黒の瞳が、ゆるりとミズリスを見上げる。

 彼女は小さく微笑み、窓の外へと視線を向けた。


「はい。そろそろ、お祭りの山場でしょうね」


 遠くから、かすかに笛の音が響いている。

 それは、屋敷の静けさとはあまりに対照的だった。


「みんな、楽しんでるかな?」


 若さまは、ふっと呟くように言った。


「ええ、きっと。若さまが”せっかくの祭りなんだから、たまには楽しんでおいで”と仰ったので……皆、遠慮なく出かけました」


 ミズリスは静かに微笑む。しかし、その微笑みの奥には、ほんのわずかな呆れが滲んでいた。


「……まったく、素直に遊びに行くものですね」


 彼女自身は祭りに行かなかったが、それを惜しむ様子はない。

 むしろ、わずかに肩をすくめる。


「誰かひとりくらい、残るかと思ったのですが」

「ミズリスは、行かなくてよかったの?」


 その問いに、ミズリスは少し目を細めた。


「私は、屋敷のメイド長ですから」


 当たり前のことを言うような、落ち着いた声音。


「それだけ?」


 若さまの問いに、ミズリスは一瞬言葉を探し、そして苦笑する。


「……素直に遊びに行った皆に、少し呆れていました」


 どこか照れくさそうに。しかし、隠そうともせずにそう言う。

 若さまは、それを聞いた瞬間「クスッ」っと微笑んだ。


 ――その瞬間。


 屋敷の空気が変わった。

 遠く、青天の空に雷鳴が落ちた。澄んだ青空に、あり得ないはずの稲光が走る。


「……来るね」


 若さまは読んでいた本を静かに閉じた。

 時折、訪れる望まぬ来客。だが、落ち着いた様子で椅子から立ち上がる。


 ミズリスの瞳が鋭さを増す。


「……ええ」


 彼女は長い水色の髪を風に揺らしながら、静かに手を構えた。

 異質な気配が、すぐそこに迫っていた。



  ***



 雷鳴が遠くで唸る。


 青天の空にぽつりと黒い雲が生まれ、ゆっくりと広がっていく。

 風が止まり、空気が重くなる。

 ミズリスは静かに目を細めた。

 足を止め、僅かに耳を動かす。風の音、揺れる木々の葉擦れ。そして――ひとつ、新たに加わった足音。


 誰かがこちらへ向かってくる。

 屋敷の正面――門のあたりで足音が止まる。

 そして、静かに言葉が落ちた。


「……ここか?」


 低く感情の読みづらい声音。中性的な響きが、乾いた空気に溶ける。

 ミズリスはゆっくりと視線を向ける。


 門の外。黒衣の人物が、そこに立っていた。


 フードを深く被り、顔は影に隠れている。

 しかし、その気配は遠目からでも、尋常ではないと分かった。


 場違いなほど落ち着いた佇まい。周囲を探ることなく、ただ真正面を見据えている。

 目的を持ってここに来た者の空気――それはまだ明確な「敵意」ではなかった。

 だが、ミズリスには分かる。来訪者が「ひとり」ではないことが。

 魔力の匂いが、微かに漂う。

 かすかな波のように揺らぎながら、屋敷の周囲に広がっている。


(……随分と周到ですね)


 ミズリスは内心で呟きつつも、表情は変えない。


「ここは私邸です。来訪の目的をお聞かせ願えますか?」


 黒衣の人物――フレイアは、小さく笑った。

 それは愉快そうでも、挑発的でもない。ただ、何かを確かめるような微かな歪み。


「……門前払いか?」


 ミズリスの指が、見えないほどわずかに動く。

 フレイアはそれに気づいたのか、わざとらしく肩をすくめる。


「礼儀正しいな……なるほど、ここの"主"はメイドに番犬の真似ごとまでやらせるのか?」


 ミズリスの瞳が、微かに鋭さを増す。


「ご用件を」


 短く、無駄のない声音。

 しかし、フレイアはそれには応えず、代わりに少し首を傾げる。


「“あるじ”は、どこにいる?」


 ミズリスの視線が、一瞬だけ揺れた。

 フレイアはそれを見逃さなかったかのように、ゆっくりと一歩踏み込む。


「……なるほどな。探るつもりはなかったが、わかりやすいな」


 その瞬間、屋敷の敷地を覆う空気が変わった。風が吹き抜け、庭の草木がざわめく。戦いの気配が、じわじわと満ちていく。


「"いま"はここにいないよ」


 穏やかに響いた声。

 それは、妙に気怠げで、まるで他人事のような軽さを含んでいた。


 ミズリスがわずかに目を見開く。彼女の隣に、いつの間にか若さまが立っていた。

 彼女ですら、その気配に気づけなかった。しかし、当然の様にそこに居る。


 フレイアは、一瞬、視線を細めた。


「……は?」


 乾いた声が漏れる。意識を集中させていた気が一気に削がれるほど、目の前の存在が“想定外”だったのだろう。

 黒衣のフードの奥で、わずかに首を傾げる。


「なんだ、そのガキ?」


 ミズリスの表情が、静かに引き締まる。


「若さま。下がってください」


 淡々とした声。だが、その内には明確な意思が込められていた。

 若さまはちらりとミズリスを見た後、ゆっくりと視線をフレイアへ戻す。


「平気だよ」


 その声音は、どこまでも飄々ひょうひょうとしていた。

 フレイアの唇が僅かに歪む。


「いない? それは困るな。こっちは“主”に用があって来たんだが?」

「……ご主人様はいま、屋敷にはおりません」


 ミズリスが即座に答える。だが、その声音は先ほどよりも僅かに硬い。

 フレイアはゆっくりと肩をすくめる。


「じゃあ、呼び戻せ」


 その言葉にミズリスの瞳が鋭さを増した。


「それはできません」


 即答、拒絶。

 フレイアはその反応を見て、愉快そうに喉を鳴らす。


「へえ……できない? そりゃあどうして?」


 ミズリスは何も答えない。ただ、その指先が微かに震えていた。

 フレイアはそれをじっくりと眺めると、一歩踏み込む。


「……クックック。本当に……素直だな?」


 フレイアの声に、ほんのわずかな熱が混じる。

 一歩、足が動く。それだけで、空気が変わった。


 風が吹き抜け、庭の草木がざわめく。

 その場を満たしていた静けさが、今まさに崩れ去ろうとしていた。


 そして――最初の火花が散る。



  ***



 爆ぜる炎ファイアーボール

 空気が焼ける。


 轟音とともに、紅蓮の火球が一直線に放たれた。狙いは正確。迷いはない。

 それは、問答無用の“狼煙”だった。


 シュゥッ――


 炎が水に飲まれ、ジュッと蒸気を上げながら霧散する。まるで最初からそこにあったかのように、ミズリスの前に展開された水の幕。

 彼女は動じない。長い水色の髪を揺らしながら、一歩、踏み込む。


「問答は、ここまで……というわけですね」


 静かな声音。けれど、その瞳には冷えた鋭さが宿る。

 フレイアが、わずかに首を傾げた。


「まぁ、それくらいはやるよな」


 まるで当然のように、特に落胆した様子もなく呟く。

 最初の一撃で決着がつくなどとは、端から思っていなかった。

 むしろ――確認したかった。


 “ちゃんと”戦える相手かどうか。


 炎を消されるのも、余裕の表情を見せられるのも、織り込み済み。


「……なるほど、水か」


 フレイアは、軽く首を傾げた。

 炎を消されたことに驚いた様子はない。むしろ、僅かに唇を歪める。


 “精霊魔術”――人間が長い年月をかけて体系化した、最も洗練された魔術体系。

 それは“自然の精霊たち”と契約し、厳密な理論と術式によって魔法を最適化するもの。

 エルフの“自然魔術”が“精霊の意思と調和する”ものであるなら、精霊魔術は“精霊を従わせる”ものだった。


「……やっぱり面白いな。お前たちの“昔のやり方”ってやつは」


 フレイアは低く笑う。そして――詠唱を開始した。その声は、ほんのわずかに愉悦を滲ませていた。

 ミズリスが一歩、地を蹴る。水の魔力が揺らぎ、彼女の周囲に霧が立ち込める。


 しかし――そこで、違和感が走った。


 ――視線。

 肌が粟立つような、僅かな違和感。フレイア以外の何者かが、確かにいる。

 けれど、その存在はあくまで遠く、まるで"観戦している"かのようだった。


(……見ている?)


 ミズリスの眉がわずかに寄る。何か仕掛けてくるわけではない。ただ、様子を伺っている。


「気にしなくていい。こいつら、ただの観客だからな」


 フレイアが薄く笑う。まるで、ミズリスの動揺を楽しむかのような口ぶり。


(……やはり、承知の上……)


 ミズリスの警戒は解かない。しかし、次の瞬間――フレイアが詠唱を開始した。


「燃え上がれ、焦熱の槍バーンランス


 フレイアの口が動いた、と思った瞬間には、炎の槍が宙に生まれていた。

 通常、魔術は詠唱と共に発動する。だが、フレイアの詠唱は違った――。


「――ッ!」


 速い。

 それは、呟きではなく、“思考と同時に形となる”速度。聞き取れないほどの圧倒的な情報量が、瞬時に術式を組み上げる。


「……これが、“高速詠唱ファストキャスト”」


 ミズリスは静かに目を細めた。

 通常の魔術師が数秒を要する術式を、フレイアは一瞬で完成させる。まるで、詠唱が“言葉を介さずに”流れているかのように――。

 炎の槍が、ミズリスの頭上から襲い掛かる。それは既に、ただの火球ではない。精霊魔術の理に基づいた、現代魔術の攻撃――高度な術式が重ねられた一撃。


「――“ナー・ユルファ”!」


 エルフ語の詠唱が響く。

 自然魔術は、精霊との対話の延長にある。だからこそ、その詠唱は "呪文" ではなく、"呼びかけ" に近い。

 風が水を運び、空気がそれを包む。自然の流れを組み、そこに自身の意志を織り込む。

 ミズリスの魔術が、大気と一体となり、火の槍を包み込んだ。


 ジュッ――!


 炎が裂かれ、霧散する。だが――その直後。


 バチッ――!


 水と炎がぶつかり合った瞬間、雷光が走った。

 フレイアが口元を歪める。


「聞きなれない……なるほど……エルフ語か」


 フレイアは、まるで “興味深い実験”を見るような目でミズリスを見た。


「詠唱で"予測"めない……悪くない。だけど……遅いな」


 その瞬間、雷撃が弾けた。


 バチバチッ――!


 水を纏ったはずの空間が、突如として雷の網に焼かれる。

 ミズリスは咄嗟に後退した。


 (雷……!)


 フレイアの魔術は“炎”だけでは終わらない。水の魔術では、雷に対して圧倒的に不利。

 そして、相手は 「雷火の魔術師」と呼ばれるモノ――水を打ち破る“策”を、既に持っている。


「さっきのは様子見だ。こっからは……少しはマシな手を使ってやる」


 フレイアの口元が僅かに歪む。その瞬間――


 雷が奔った。


 ゴォォッ!!


 火と雷が絡み合い、強烈な熱波を伴って襲い掛かる。


 複合魔術。


 単なる火でも、単なる雷でもない。炎が電流を帯び、まるで意志を持った獣のように唸りながら迫る。


「――ッ!」


 ミズリスは即座に水の防御を展開。しかし、雷の魔力がそれを突き破り、空間を焼いた。


(速い――!)


 詠唱の隙を突かれる。魔術の相性も悪い。

 そして、敵は迷いなく畳み掛けてくる。ミズリスは、一瞬の判断で水の刃を展開し、迎撃に転じた。


 バシュッ!!


 雷火の奔流が水の刃を弾き、再び圧を増して襲い掛かる。


 防ぎきれない――!


 次の瞬間――!


 若さまが、前に出た。


「――ッ!」


 ミズリスの瞳が大きく見開かれる。若さまは微動だにせず、そのまま雷火の直撃を受けようとしていた。


「ダメです、若さま!」


 ミズリスの体が、ほぼ反射的に動いた。水の魔力が最大展開され、若さまを庇う形で盾となる。


 ズガァァァン!!!


 雷火が直撃する。

 水の壁が弾け、爆風が屋敷の庭をえぐった。土煙の中、ミズリスの影が崩れる――。

 雷火の直撃を受け、膝をつくミズリス。フレイアはその様子をじっと見下ろす。


「……たかがメイドではないか」


 フレイアの声には、少しの驚きと、ほんの僅かな嘲笑が混じっていた。

 煙の中、ミズリスは肩で息をしながらも、なお若さまを庇うように立ち塞がっていた。


「……っ」


 膝が、震える。視界が、霞む。それでも、ミズリスは前に立ち続けた。

 フレイアが、ゆっくりと一歩を踏み出す。


「……さて。次は……?」


 フレイアの瞳が、若さまを射抜く。

 ――この戦いは、まだ終わらない。



  ***



「ガキ……“父上”を呼んでこい。死ぬぞ、そいつ」


 フレイアが静かに告げた。声音は淡々としていたが、その底には確かな圧があった。

 ミズリスは肩で息をしながら、それでもフレイアを睨みつける。


「……っ、私が、若さまを……」


 庇うように立つ彼女の足が、微かに震えた。ダメージが深い。ここまでの魔術の応酬で、すでに限界が近い。

 しかし、退くわけにはいかない。若さまを、守るために。


「それは、できないよ」


 若さまの声が響いた。ゆったりとした、どこまでも飄々とした声。


「……なんだと?」


 その声音には、僅かに驚きが混じっていた。この状況で、"父を呼ぶ"という選択を拒む――?

 若さまは、ミズリスの肩にそっと手を置いた。彼女が反射的に振り向く。


「……ミズリス、まだ立てる?」


 その声音は優しかった。突き放すものではない。

 ただ、彼女の意志を確かめるような問いだった。

 ミズリスは、荒い呼吸の中、僅かに頷く。


「……はい」


 若さまは、目を細めると、ゆるりと視線をフレイアへ向けた。


「ねぇ? "女の人"。引いてくれない? いまなら"まだ間に合う"よ?」


 言葉は静かだった。だが、その一言が場の空気を微かに変えた。

 フレイアの瞳が細められる。


「"勘"がいいな……ガキ」


 そう呟いた直後、フレイアは無造作にフードを外した。


 隠されていた銀髪が、さらりと風に揺れる。鋭く整った輪郭、しなやかな眉、そして僅かに唇を歪めた表情――戦場の中でも、その存在感は揺るがない。


 若さまは、それを見ても特に驚いた様子はなかった。

 まるで「最初から知っていた」とでも言わんばかりに、穏やかに微笑む。


「……詠唱を隠すつもりは、もうないんだね?」


 フレイアの唇が、微かに歪む。


「魔術師はな、表情を隠すもんだ。詠唱を予測まれたら、不利になるからな」


 フードの中に潜ませていた指先が、ゆっくりと解放される。


「……でも、もういい。お前ら相手に、そんな小細工は必要ない」


 その仕草には、もう"隠す"という意識がない。


「で? 何か言ったか? 聞かなかったことにしてやる"父親"を呼べ」


 鋭い眼光が若さまをとらえる。


「メイドがどうなってもいいのか?」


 問いかけ。

 そして、それに対する若さまの答えは――


「どうでもいいわけがないよ」


 言葉に迷いはなかった。静かに、けれど確かな意思を込めて。


「でも、呼ばない」


 そう言うと、若さまはゆっくりとミズリスの前へと歩を進めた。

 ミズリスの瞳が、驚きに揺れる。


「……若さま?」


 それは、あまりに自然な響きだった。


「僕が、ミズリスを守る」


 フレイアの瞳が、わずかに細まった。


「……冗談か?」


 その言葉の裏に滲むのは、確かな苛立ちだった。

 だが、若さまは相変わらずの飄々とした態度を崩さない。


「ううん。本気だよ」


 フレイアの指先が、わずかに動く。


「……そうか」


 次の瞬間――雷撃が奔った。


 バチィッ――!


 青白い閃光が炸裂する。空気が弾け、稲妻が地を焼いた。

 若さまの体が、弾かれるように吹き飛ぶ。


「若さま――!」


 ミズリスが即座に駆け寄る。

 だが、その動きを見透かしていたかのように、フレイアが手をかざした。


「――動くな」


 ゴッ!


 雷火の奔流が放たれる。

 ミズリスは咄嗟に防御を展開し、己を包むように水の障壁を張る。


 ズガァァン!!


 爆風が弾ける。衝撃でミズリスの足が僅かに沈む。


(まずい……っ!)


 ミズリスは歯を食いしばる。

 すでに消耗が激しい。回避も防御も、限界が近い――。


 だが、それでも。


「……まだ、下がれません」


 ミズリスは立ち上がる。若さまを庇うように、その前に立つ。

 フレイアが、それを見て、僅かに目を細めた。


「……なんだよ、それ」


 淡々とした声音。

 だが、その奥には確かな苛立ちが滲んでいた。


「庇って、庇って……で、それでどうする? そのまま焼かれて終わるか?」


 嘲るような口調。

 しかし、その手は止まらない。

 フレイアは、ふと視線を横へ流した。若さま、ミズリス――どちらも、立っている。


「……どっちもか」


 フレイアが、ほんのわずかに首を振った。


「"若さま"、お前は死ぬぞ」


 バチッ、と雷が弾ける。


「……メイド、お前もだ」


 今度は炎が揺らぐ。


 どちらも、庇い合おうとする。

 どちらも、譲らない。

 フレイアの指が、ゆっくりと上がる。


「どっちが先に焼けるか……試してみるか?」


 その瞬間、雷と炎が絡み合い、フレイアの手の中に凝縮される。

 今度こそ――本気の一撃が、来る。



  ***



 ゴゴゴゴ……ッ!


 雷と炎が絡み合い、フレイアの掌の上で脈動する。

 赤と蒼の光が収束し、まるで生き物のようにうねりながら形を成していく。


 ――収束完了。放つのみ。

 ミズリスの背筋が強張る。


(……防げない)


 確信に近い絶望。この一撃は、今までの比ではない。

 先の攻撃で削られた今の自分では、到底防ぎきれない。


 それでも。


「……っ!」


 ミズリスは一歩、前に出た。

 傷ついた身体を引きずりながら、若さまを庇うように腕を広げる。


「ミズリス……?」


 若さまの声が、背中越しに響いた。


「……これだけの魔術、さすがに"今のあなた"には耐えられません」


 苦しげな息遣い。それでも、ミズリスの意志は固い。

 フレイアの口元が、僅かに歪む。


「……本当にバカだな、お前」


 指先の魔力が、臨界点に達する。


「もういい」


 フレイアの瞳が冷たく輝く。そして、撃ち放たれた。


 ――その瞬間。


「ごめんね、ミズリス」


 ――静かな声が降りた。


 次の瞬間、ミズリスの背後で、何かが「解放」される気配がした。


「……っ!!」


 背筋に戦慄が走る。彼女は、気づいてしまった。

 若さまの指先が、自身へと向かって伸びていることを。


「若さま……?」

「……"水の力"……返してもらうね」


 静かに。

 けれど、それは「決して覆せない命令」のように響いた。

 ミズリスの肢体が、ビクリと震える。脳が本能的に拒否する。それだけは、駄目だ。


「……それは……」


 けれど、若さまは優しく微笑んだままだった。


「大丈夫だよ」


 そして——。


 ズ……ッ


 ミズリスの"胎"から、何かが引き剥がされる感覚。

 それは 今まで彼女が"預かって"いた大切なモノ。


 そして――。


「……あぁ……っ!」


 思い出してしまう。

 "彼が"忘れていたはずのもの。

 "彼が”……"自我を保つために"……"力"と共に切り離した"記憶"の一部。

 "宮"である"彼女達"が守るモノのひとつ。


 それを"返還かえ"すという事は――。


 苦しみ。


 孤独。


 絶望。


 喪失。


 "彼"が、思い出してしまう。果てしない“痛み”を。


 全身が震えた。涙が、止まらなかった。


 (ああ、また……)


 これが。彼が抱え続けるもの――決して癒えることのない" 永遠の痛みペイン”。


「……もう大丈夫だよ、ミズリス」


 若さまの声は、変わらず穏やかだった。その背後で、空気が震える。

 雷と炎の奔流が、若さまへと襲い掛かろうとしていた。


 ――だが。


 ――次の瞬間。


 ズガァァァン!!!


 世界が、一瞬で塗り替えられた。


 雷と炎の奔流が、絶対の破壊としてふたりへと襲い掛かる。

 けれど、それを迎え撃つように――水が奔った。


 ドゴォッ!!!


 ぶつかり合う衝撃。空間が震え、暴風が周囲を切り裂く。


「……っ!?!?」


 フレイアの瞳が驚愕に染まる。

 自分の放った雷火の奔流が、まるで壁に叩きつけられたかのように霧散する。


 否――違う。


 "打ち消されたカウンタースペル"のだ。


「……なっ……」


 フレイアは、咄嗟に視線を前へ向ける。

 そこに立っていたのは――若さま。


 ではない。


 黒い髪が、風に揺れる。

 黒い瞳が、静かにフレイアを見据える。


 ただそれだけ。


 なのに。


 先ほどまでの"子供"ではなかった。


 青年、大人――。


 黒い瞳が、深淵を宿している。

 それは、戦いに生き。戦いに飽き。戦いに疲れながらも、いまだ逃れられない。

 ”男”はそんな表情かおをしていた。


「……嘘、だろ……?」


 無意識に、フレイアの喉が震えた。

 若さまの足元に、微かな水の魔力が揺らめいている。

 それは ミズリスから引き剥がされた"力"。


「……"俺"に会いたかったんだろ?」


 若さまが、静かに呟く。

 たったそれだけで、フレイアの肌に粟立つ感覚が走る。


「……な、んで……?」


 ありえない。ありえない。

 なぜ、こいつが水の魔術を、こんな精度で操れる!?


「……どうした? "俺"に会いに来たんだろ?」


 "若さま"は、どこまでも飄々とした声音で言う。

 けれど、その瞳は冷たい。


「……"女の人"」


 フレイアの肩が、ビクリと震えた。


「……もう一度、言う」


 若さまが、ゆっくりと手を上げる。

 水の波紋が広がり、その場の空気すら凍てつくかのような冷たい圧が生まれる。


「"まだ間に合う"」


 フレイアは 本能的に悟った。


「"最後の忠告"だ」


 ――これは、今までの戦いとは別格だ。

 目の前の存在は、たった今までの "若さま" では ない。


(……まさか……こいつなのか?)


 フレイアの背筋を、未知の戦慄が駆け抜けた。


「永久筆頭魔術師」


 フレイアは絞り出すように言った。



  ***



 ――ギィン!


 鋼が閃く。フレイアは、ためらいなく剣を抜き、そのまま斬りかかった。

 雷火の魔術ではない。純粋な剣技による、一撃必殺の斬撃。


 だが――。


 それは、何も捉えなかった。

 ミズリスを抱えたままの若さまが、ほんの半歩、軽やかに退いた。

 剣閃は彼の目の前を掠め、虚空を裂く。


 ――スッ。


 まるで、最初からそこにいなかったかのような動き。


「……は?」


 フレイアの瞳が、驚愕に見開かれる。目の前で確かに狙いを定めたはずの剣が、何も捉えなかった。

 それだけではない。

 若さまは、悠然とした足取りでミズリスを抱えたまま庭のベンチへ向かっていた。

 フレイアは咄嗟に追撃しようとする――だが、その足がわずかに鈍る。


(……何をしている?)


 目の前で敵が完全に背を向けている。本来なら、この一瞬の隙に叩き斬るべきだ。

 それなのに――フレイアは、ほんの僅かに剣を握り直した。


 ――隙が、ない。


 ミズリスを抱えているはずの若さまが、まるで戦闘を続けているかのように、完璧な重心を維持したまま歩いている。


(……ありえない……こんな状態で、動けるのか?)


「待て!」


 フレイアが、思わず声を荒らげる。

 しかし、若さまはその言葉には応えず、静かにミズリスをベンチへ横たえた。


「……わかさま」

「……少し、休んでいてくれ」


 穏やかに囁き、彼女の髪をそっと撫でる。その仕草には、一切の焦りも警戒も感じられない。

 完璧な間合い。完璧な余裕。フレイアの手が、一瞬だけ震えた。


「……ふざけるな」


 抑えきれない苛立ちとともに、フレイアの指先が光を帯びる。


 しかし――。


「――"血闘"の儀礼はどうした?」


 若さまの静かな声が、空気を凍らせた。

 フレイアの手が、ピタリと止まる。


「……なんだと?」


 睨みつけるような視線。だが、若さまは肩をすくめながら、淡々と続ける。


「ここには"血闘"をしに来たんだろ? 街のチンピラと同じでいいのか?」


 フレイアの表情が、一瞬だけ歪んだ。

 確かに――これまで彼女は血闘同盟の正式な儀礼を通して、並み居る"筆頭魔術師"を屠ってきた。

 少なくとも、この場に来るまでは。


 しかし、今の彼女の動きは――。

 目の前の男に対する焦りと警戒。それが、"血闘"の誓約すら忘れさせた。


「……チッ」


 舌打ちをしながら、フレイアは剣を鞘へ戻す。

 血闘同盟に属する者は、戦いの前に必ず"誓約"を交わさねばならない。


 それは、魔術師としての掟であり、"血闘(統)"を成すための唯一の証明。

 魔術に精通し、おのが力をもって雌雄を決する――それが"血闘"の本質。


「……我はフレイア。証人なき"血闘"において、我が力を示す」


 フレイアは短く宣誓すると、手の甲に微細な魔力を灯らせる。

 儀式の証として、魔力の波紋がかすかに広がった。


「これでいいな?」


 フレイアは肩をすくめる。

 簡潔に、簡略に。それが今の血闘同盟の主流だった。

 余分な儀礼を省き、戦闘に集中するために洗練されたもの。


(……くだらない形式フォーマットは、今の時代にはもう必要ない)


 そう思いながらも、フレイアは誓約を終える。

 そして、若さまへ視線を向け、僅かに笑った。


「……オマエの番だぞ、"永久筆頭魔術師"様」


 皮肉たっぷりの口調。

 しかし――。


「違うな」


 若さまの声が低く響く。その瞬間、空気が変わった。


「――証人なき決闘において、我が"血"をもって誓う」


 ゴォッ――!


 突如として、周囲の魔力が奔流を描いた。まるで、大地の下に潜んでいた魔力が一斉に呼応したかのように、空間全体が震える。


「な……ッ!?」


 フレイアが思わず息を呑む。風が止まり、空気が密度を増した。

 若さまの足元から波紋のように魔力が広がり、空間全体が一瞬にして"異質"へと変化する。


「これが……本来の"血闘儀礼"……?」


 フレイアの喉が僅かに震えた。

 "血闘の場"が成立する。


「――我が名のもとに、ここを"戦場"とする」


 若さまが静かに宣言する。


「命など望むべくもなく、その"血"――術の深淵へと捧ぐ……」


 まるでこの場が魔法陣アルカナの内部になったかのように、周囲の魔力が安定した。

 外部からの干渉を阻害する。"血闘陣"は、純粋に二者の力で決着をつける場となる。


「……なんだ、これ……?」


 フレイアは、拳を握りしめる。目の前の儀礼には、現在の簡略化されたものとは違う、"本物の重み"があった。

 まるで――自分が今までやってきた"血闘儀礼"が、"安っぽい模倣品"のように感じられてしまうほどに。


「……流石……本家のラスボス様だな……」


 フレイアは、無理やり笑った。

 だが、その目の奥には、明らかに動揺が滲んでいた。


「……お前、歴史オタクか?」


 皮肉めいた口調で吐き捨てる。

 血闘同盟は、設立からすでに千年以上の歴史を持つギルドだ。

 かつて隆盛を極めた時代には、魔術師たちの修行と決闘の場として確固たる地位を築いていた。

 しかし、時代とともにその形は薄れ、今では原型を知る者もほとんどいない。


(……その儀礼を、ここまで完璧に再現できるなんて……)


 フレイアの眉が僅かに寄る。

 "血闘"の歴史に詳しい者はいても、"実践"できる者など、現代にはほぼ存在しないはずだ。


「クククク……相当"練習"したんだな。"永久"筆頭魔術師ってそういうことか?」


 フレイアは焦りを隠すように言葉を紡ぐ。


「さぁ、どうだかな?」


 若さまに焦りはない。



  ***



 ――バチッ!


 大気が裂け、雷が弾けた。


 赤と蒼の閃光が絡み合い、地を這うように奔る。

 フレイアの放った雷火の奔流が、一直線に若さまへと襲いかかる。


「燃え上がれ――雷炎乱舞インフェルノストーム


 詠唱の余韻すら必要とせず、雷火の柱が走る。

 その一撃は、フレイアがこれまでの血闘で培ってきた "勝ち筋" そのものだった。

 火の熱量で防御を無理矢理こじ開け、その隙に雷撃を叩き込む。


 "これで仕留めてきた"。


 これまでの戦いでは――だが。


 「……禁術か?」


 若さまが軽く息を吐いた。次の瞬間――水が弾けた。


 ゴォォッ!!!


 奔流が逆巻く。

 まるで青い龍が顕現したかのように、水の魔力がフレイアの雷火の流れを捉え、逆流するように絡みついた。


「な――っ!」


 フレイアの魔術が、呑まれた。

 それまで炎を燃え盛らせ、雷を纏っていた奔流が、まるで力を吸い取られたかのように霧散する。


 そして、消える。


 フレイアの目が驚愕に見開かれる。


「……は? "雷火"が……消えた?」


 それは、あり得ない。雷火の奔流は、単なる二属性の融合ではない。

 お互いの魔力を燃料とし、増幅しながら持続する、"暴力的な繁殖魔法"。


 消えるはずがない。


「……ちょっと待てよ? 禁術は、発動したら消えないはずだろ?」


 フレイアの指が震えた。これは血闘同盟の禁術"魔力焦土マナスコーチ"の応用だ。

 本来なら、発動した時点で相手の魔力場に喰らいつき、抑え込む効果を持つ。

 それが、いとも簡単に "霧散"した。


(何かのカラクリか? それとも――)


 フレイアの心に疑念が生まれる。


「……チッ」


 疑念を振り払うため、フレイアは舌打ちし、瞬時に次の手を打つ。


「なら、これならどうだ? ……魔力沸騰マナボイル!」


 瞬間、フレイアの魔力が爆発的に増大する。


 これも、血闘同盟の禁術の一つ。

 自身の魔力を短時間の間、何倍にも引き上げ、一撃必殺の出力を生み出す魔術。

 その代償として、術者の体力を激しく削る。


 だが――勝負を決めるには、これが最適。

 フレイアは、炎と雷を"過剰強化"し、相手に叩きつける。


「"過剰魔力増幅オーバーブースト"! ――耐えられるかよ!」


 圧倒的な熱量を纏った火球が、雷の渦を引き連れながら一気に降り注ぐ。


 一発ではない。十発、二十発、それ以上。

 全てが高密度のエネルギーとなり、若さまを焼き尽くさんと襲い掛かった。


 ――そして、その一瞬の間に、フレイアは見た。

 目の前の男が、淡々と、手をかざすのを。


水天鏡ステインミラー


 青白い波紋が、宙に揺れた。


 ――刹那。


 フレイアが放った全魔力が、"吸い込まれる"ように水面へと溶け込んだ。


「なッ……!?」


 驚愕に満ちたフレイアの表情をよそに、若さまは指を軽く弾く。


「……返すぞ」


 ――バシュンッ!!


 雷火の奔流が、フレイアの元へ逆流する。

 まるで、自身の攻撃が "そのまま"跳ね返されたように。


 フレイアは咄嗟に身を翻す。

 奔流に抗うように回避する――だが、一歩遅れた。


「ぐッ……!!」


 ――ドンッ!!!


 雷火が地面を穿つ衝撃が、体に叩きつけられ、フレイアは吹き飛ばされた。

 地面を転がり、土煙が舞う。


 "魔力焦土マナスコーチ"も、"魔力沸騰マナボイル"も、通用しない。

 有利属性である"雷火"ですら封じられる。


 "水"だけで。"水"だけで。"水"だけで――


「……なんで、水だけで……?」


 理解が追いつかない。

 炎だけなら別だが、雷火は水に対して、基本的に有利な属性だ。

 なのに、"この水"は、何でも打ち消すように振る舞う。


「……それに……おまえっ……詠唱はどうした!」


 フレイアの高速詠唱ファストキャストは速いだけ。詠唱を圧縮するが、速いだけ。


「必要ない」


 対して"若さま"の魔術には詠唱そのものがない。


概念ルール無視かよっ! ふざけるなっ! ならば、これはどうだっ!」


 フレイアが空を指さし、高らかに宣言した。

 これまでの高速詠唱ファストキャストとはちがって、長い詠唱を口ずさむ。


絶対有利属性領域ドメイン――展開っ!」


 瞬間、空間が捻じれる。

 炎と雷の輝きが渦を巻き、周囲の大気が赤と金の閃光に包まれていく。


 若さまは感嘆に似た声を上げる。


「ほう」


 体感温度が急上昇し、空気そのものが火花を散らす。

 領域の中心にいるフレイアの姿が、より強く煌めいた。


絶対有利属性領域ドメイン……か」


 若さまは小さく呟くと、ゆっくりと視線を上げた。

 "絶対有利属性領域ドメイン"――それは、一定の範囲を自身の有利な属性に染め上げ、その空間内で発動する魔術を爆発的に強化する血闘同盟の秘儀。


「使えるなら、なぜ最初から使わない?」

「お前の言う通りだっ! 最初からこうすれば良かったよ!」


 フレイアが腕を振り上げると、領域全体に雷が奔る。

 視界の全てが彼女の支配下にあり、ここでは水魔法など、まともに機能しない。


「悪いが、お前の"水"は、もう通用しねぇぞ」


 圧倒的な魔力が、空間を歪ませる。これが彼女の確信――"水"にとって、最も不利な戦場。


「さすがに、これは不利だな」


 若さまは肩をすくめた。だが――その目には焦りがない。

 まるで、この状況ですら"当然の展開"として受け止めているかのように。


「……その余裕……いつまでもつかな?」


 フレイアが笑みを浮かべる。

 絶対有利属性領域ドメインは発動後、発動者以外には決して上書きも、消去もできない。この領域にいる限り、彼女の炎と雷は絶対的な優位を持つ。


「どうせ、知ってるんだろ?  "絶対有利属性領域ドメイン"は絶対だってことを」


 彼女は勝利を確信しながら、再び詠唱に入る――だが。


「……ああ、知ってるさ」


 若さまの指が、すっと空間をなぞる。まるで、"何か"を操作するように。


「上書きもできない。消すこともできない……だったらこうすればいい」

「――は?」


 フレイアが目を見開く。


 ――ザァァァァァッ!!


 空間が、波打った。

 先ほどまで燃え盛っていた火炎の渦が、まるで最初から"存在していなかった"かのように静まり返る。


「そんな、バカな――!?」


 驚愕に満ちたフレイアの声。

 その足元を見れば、大地が青く染まり、静かな波紋を描いていた。


「なんだ? なにが起きた? なにをした!」

「さぁ……な?」

「なっ!」


 若さまが軽く指を鳴らし言った。


「大丈夫か? この属性で?」


 水属性有利の絶対有利属性領域ドメイン


「くっ!」


 フレイアの声が漏れた後、"絶対有利属性領域ドメイン"は霧散した。


 フレイアは目を見開き、思わず息を呑む。自身で展開する"絶対有利属性領域ドメイン"で自身が不利になる。

 そんなことゆるされるはずがない――彼女は自ら展開した領域を、自ら閉じた。


「……っ!」


 彼女の身体が、一瞬震えた。何が起きたのかはわからない。

 しかし、若さまが"何か"をしたことだけは察していた。


「お前、何者だよ……」


 フレイアの声が震えた。

 若さまは、ただ微笑んでいた。


「……フレイア。さっき、最後の忠告といったが……あれは嘘だ」


 怪訝にする彼女の前で、若さまは静かに語った。


「そろそろ良いだろう? 退いてくれたら嬉しい」


 まるで教師が生徒を諭すような声音。あまりにも――余裕 。


「……チッ」


 フレイアは歯を食いしばり、拳を握る。

 雷火の魔術は無効化された。禁術も通じない。


 なら――


(剣で仕留める!!)


 次の瞬間、彼女は迷いなく剣を抜いた。


雷閃ボルトスラッシュ――斬り裂けッ!!!」


 ――バシュッ!!!


 青白い雷が弾けた。

 フレイアの剣が、光の残像を引く。一点を貫くように狙いを定め、猛然と突き進む。


 迷いはない。


 魔術が通じないなら、剣で仕留める。

 それが、血闘同盟の魔法剣士スペルブレードとして、数多の魔術師を屠ってきた彼女の戦い方だった。


 だが――。


「……」


 若さまは微動だにせず、それを見ていた。


 スッ――。


 剣が、虚を斬った。


「……ッ!? どこに……」


 フレイアの目が、一瞬で惑う。

 消えた? いや、違う――"避けられた"。

 若さまは、たった半歩、僅かに重心をずらしただけで、その斬撃を紙一重で回避した。

 それも、まるで"最初からそこにいなかった"かのような自然な動作。

 フレイアの戦闘経験が、即座に警鐘を鳴らす。


(この動き――体術ですら"そう"なのか!?)


 普通、回避には"大きな動作"が伴う。剣の軌道を読んだ上で、最適な位置へ身体を移す。

 それは、訓練を積んだ戦士なら当たり前にできることだ。

 だが、この"回避"は違った。

 まるで、刃がそこに届かないことを知っていたかのように、最小限の動きで"外した"だけ。


「……ッ、この……!」


 フレイアは即座に二撃目を放つ。


 ――が、その瞬間。


「"遅い"な」


 若さまの言葉が、静かに響いた。


 ――カツッ。


「は?」


 フレイアの剣が振り下ろされる直前、彼の手には"一振り"のペンがあった。


 ――チィンッ!!!


 音が鳴った。


 ペンの先端が、刃の"側面"に触れただけで、斬撃が逸れる。


「なっ……!?」


 フレイアの体がわずかに流される。重心を狂わされた一瞬。若さまの足が、静かに動いた。


「痛いぞ」


 ――ズンッ!!


 次の瞬間、フレイアの腹部に"手刀"が突き込まれる。

 鋭い衝撃。一瞬、息が詰まり、フレイアの身体が数歩後退した。


「ッ……!!」


 それでも、彼女はすぐに体勢を立て直し、間合いを取る。


「なんだっ! なんなんだソレはっ!」

「……ディス・イズ・ア・ペン」


 若さまは一切のおふざけなしに言った。


「ペン"一本"で、剣を捌いた……だと?」


 剣の軌道を"正確に読み切り"、最小の力で受け流す。

 ペンにはわずかな魔力の凝縮が行われている。


 だが――ただ、"それだけ"だ。


(……ありえない……!!)


 フレイアは、再び刃を構えた。雷火の魔力を込め、剣速をさらに上げる。


「ふざけんなよ……!!」


 ――ギィンッ!!


 文字通り、電光石火の斬撃が放たれる。

 若さまは、それを迎え撃つように、ペンを指で軽く回し――。


 ギィン! キィン! ギャリンっ!


「――ッ!?」


 ペンだけで、全ての攻撃を弾きかえす。


「……ありえねぇ……」


 フレイアは、信じられないものを見るような目をした。


「剣速を上げても……これではな」


 若さまが、肩をすくめる。


「……"雷"を纏った剣は、動きが単調になるんだ。知らなかったのか?」

「……何?」

「雷の魔力は、"強制的に軌道を補正する"性質がある。結果として、"剣筋が読まれやすくなる"」

「そんな馬鹿な……!」

「加えて、"火"を組み合わせると――さらに、軌道が安定する」


 フレイアの剣は、"雷火の魔力"によって強化されていた。だが、それは"安定した出力"を得るための技術。

 つまり、"軌道のブレがない"。


「だから、簡単に止められる」


若さまは、淡々と語る。


「そんな話があるもんかよっ!」


 フレイアは、まるで理解が追いつかないというように剣を握り直した。


「……ふざけるなっ! ふざけるなよっ!」


 若さまは、ペンを回し続けながら微笑んだ。


「そう落ち込むな」


 その言葉に――フレイアの背筋が凍る。


(――"こいつ"は……!!)


 フレイアは、思わず後退した。

 剣が、通じない。魔術も、通じない。"ペン一本"で、すべてを捌かれた。


 ――まるで、"戦いの次元が違う"。


("こんな化け物"が……血闘同盟にいたってのかよ……!?)


 そう思った瞬間。


 ――バシュッ!!


 突然、フレイアの手元が弾けるように光った。


「!?」


 見れば、彼女の手甲に刻まれていた 魔術刻印タトゥーが発光している。


(しまった……不意打ち用に仕込んでたやつが……!)


 魔術刻印タトゥー――これは、"事前に刻んでおいた魔術を発動できる"技術。

 無詠唱キャストレスで攻撃ができるため、奇襲に向いている。


(かまわん! 都合がいい!)


 本来、彼女が得意とする属性は"雷火"。


(――不意打ち用に"氷"を刻んでおいた……!)


 対雷・対火を想定されやすい彼女の魔術の中で、"氷"という属性は意表を突く。そして、何より刻印による魔術は――高速発動が最大の強み。


 詠唱なし。術式の展開なし。ただ刻印に魔力を流せば、自動的に魔術が発動する。

 魔術刻印タトゥーより四つの氷刃が放たれる。


「これなら防げねぇだろ!!」


一瞬の隙をつき、フレイアは勝利を確信する――が。


「……魔術刻印タトゥーか」


 ――シュッ。


 若さまが、右手を軽く振るった。

 すると、ペン先から光のインクが飛び散るように、空中にいくつかの魔術文字ルーンが描かれる。


 小さく、短く、簡潔に。


「なっ……!?」


 フレイアの瞳が驚愕に見開かれた。

 空中に描かれた僅かな魔術文字ルーンが、広がっていく。

 術式そのものが、自己を拡張するために、術式を記述していく。

 やがてそれは魔方陣アルカナと呼べるものまでに広がった。


「おい……嘘だろ……?」


 魔術刻印タトゥーの強みは"事前に刻んでおく"こと。

 だが、目の前のこれは――術式そのものが術式を刻みながら展開していく。


「ちょ、待てよ……こんなの聞いたことねぇ……!!」


 魔方陣アルカナ魔術刻印タトゥーのその先、自己記述型魔方陣オートアルカナ――。


「――閉じるぞ」


 若さまが、指先を軽く払う。


 バシュッ!!


 自己記述型魔方陣オートアルカナが完全に展開されると同時に、"氷の魔術"を飲み込み閉じた。

 消されたのではない。"閉じられた"のだ。


「……嘘だろ……?」


 フレイアは呆然としながら、握った拳を僅かに震わせる。


魔方陣アルカナが勝手に育つ……?)


 同時に肩も震えている。


(こんなの、私の魔術刻印タトゥーが"時代遅れ"みてぇじゃねぇか……!!)


 焦りが、心の奥底に染み渡る。

 ――しかし、それを認めるわけにはいかない。


「……ッ!!」


 フレイアは即座に後退し、次の攻撃の準備に入る。彼女にはまだ、奥の手があった。


 だが――。


「来るか」


 若さまの呟きが響いた瞬間。


 ドォン――!!!


 遠方の木立の影から、魔力の奔流が放たれる。

 その奔流は"血闘陣"によって阻まれた。


「やれやれ、さすがにか……」


 若さまがわずかに肩をすくめる。


「乱暴なノックだな。入りたければ、入ればいい」


 若さまがそう言うと、血闘陣が静かに霧散する。

 もはや、戦いのルールなど意味をなさないとでも言うように。


 フレイアの仲間が、戦場に介入する。


 ――カツン、カッ、カツ。


 硬質な靴音が三つ辺りに響いた。

 フレイアの仲間たち――血闘同盟の分派に属する実力者たち。


「……クソが」


 フレイアは忌々しげに舌打ちする。


「なんのつもりだ? "血闘"を汚すな」


 フレイアの仲間たちは順番に、しかし、淡々と口にする。


「汚す? "子供"と"大人"の遊びのように見えたが?」

「フレイア、貴様が長の座にいるのは仮の話だ」

「本家の打倒は我々の悲願、"血闘"? ……くだらん」


 彼らの態度には、一切の敬意というものが見られない。

 若さまが口を開く。


「……本来の"ルール"であれば、この時点で終わりなんだがな……」


 若さまが展開していた血闘陣は既に消えている……が。

 本来は無理に干渉すれば"血闘"の掟にしたがい排除される、その際に無事であることは保証されていない。


「くだらんと言っている」


 闘いは終わりの筈だった。だが、そんなルールを守る者たちでもない。


 ――ブン。


 三人それぞれが、魔力を解放し、空中に魔方陣アルカナを記述する。


 最初のひとりが地面を蹴り、魔力を解放する。


「来い――"魔王の落胤ダークロードヘリテージ"!」


 異形の巨獣が地面を割り、大気を震わせながら姿を現した。

 四本の腕、赤黒く脈動する肌、牙を剥き出しにした魔物。


「フッ、我も行くぞ」


 次の男が掲げた杖の先に、淡い光が灯る。


「顕現せよ――"無貌の観測者フェイスレスオブサーバー"!」


 空間が裂け、光と影が絡み合うようにして、人の形をした魔法生命体が現れる。

 その目は虚ろで、だが、確かな敵意を持って若さまを見据えていた。


「戦場に華を添えよう」


 次の女が腰の剣を軽く抜き、魔力を込める。


「舞え――"人造の戦乙女ハンドメイドヴァルキューレ"!」


 空間が弾けるように揺れ、一体の戦士が生み出される。

 それは精巧な人形のような存在だったが、宿る魔力は本物の剣士と遜色ない。


 三体の使い魔が、主の命を待つかのように佇む。


「……さすがにこれで終わりだな」


 三人の魔術師、三体の召喚獣がそれぞれ不敵な笑みを浮かべる。


「さぁ、どうする?」


 その問いに若さまは、目を細めながら静かに答えた。


「召喚獣を使役する、魔術師の基本中の基本だったな」


 彼はフレイアに視線を戻す。


「そのお嬢さんに引っ張られて、そんなことも忘れちまっていた」


 彼はさらに続ける。


「……では、俺もそれにならおう……」


 彼は思案するように顎に手を当てた。


「とはいえだ……"いま"は水属性しかまともに使えないんでな……だが、水属性の魔術には、こんなものもある」


 彼は、ゆっくりと指を噛み、一滴の血を地面に落とす。


 ――ゴゴゴゴゴゴ……ッ!!


 大地が震え、空間が捻じられ、重力そのものが歪む。

 黒い霧が噴き出し、あらゆる光を吸い込むかのように広がっていく。


 その中から――何かが"出てきた"。


「形なき王、"ケイオース"よ――」


 詠唱する若さまの声は、どこまでも静かだった。

 発せられる言葉は空間に溶け込んでいく。


「――古き盟約により力を貸せ」


 ――ズォォォォォン!!!


 闇が凝縮され、一対であり百対でもありえる、"存在自体"がおぼろげな、"眼"が浮かび上がる。


「……"混沌の儀式ダークサヴァント"!」


 次の瞬間、すべてが反転したかのように、"闇"が奔る。


「な、なんだ……これは……!?」


 フレイアと、フレイアの仲間たちは、初めて"本能的な恐怖"を感じた。

 彼らの召喚獣も――震えている。


 純粋なるエネルギー。

 形を持たぬ、"エネルギー"そのものが"意思"を持つ。

 闇と混沌の王、その力の一片が"召喚"された。


「なんだ? 何を"召喚"んだ?」


 フレイアの唇が震える。


「なに……さすがにこの人数。ちと魔力が足りなくてな」


 若さまの笑顔が闇に沈む。


「"知人"にすこしばかり、用立ててもらったんだ……」


 使役ではない、純粋なるエネルギーの"召喚"。

 本来、魔術とはエネルギーを"対価"に行われるもの。魔力で魔力を生みだす。

 フレイヤと三人の魔術師たちには、その発想が、その概念が理解できなかった。


 混沌とした形容のしがたい闇の揺らぎが若さまを包んでいる。


 三人の魔術師が、間髪入れずに襲いかかる。

 召喚獣と共に詰め寄る者、遠距離から雷撃を放つ者、奇襲に回る者――。

 

「まとめてかかってくるか。まあ、当然だな」


 若さまは静かに呟いた。

 まず、一番近くに詰め寄る女魔術師が疾駆する。魔力を纏った斬撃が、迷いなく若さまの頸を狙う――が。


 水が揺らいだ。


 ドンッ!!!


 女魔術師の体が、一瞬で吹き飛ばされる。水の奔流が彼女の足を捉え、流れるように弾き飛ばしたのだ。


「ぐっ……!」


 続けて、雷撃が降り注ぐ。最も遠くにいた男が詠唱し、雷蛇が地を這うように襲いかかる。

 だが、若さまは一歩も動かず、代わりに彼の足元から水の波紋が広がった。


「――水天障壁ステインウォール


 青白い壁が弧を描き、雷撃を呑み込むように分解する。


「チッ、何だその術は!」


 男が叫ぶと、三人目が、後方で結界を展開する。


「なら、これならどうだ!  魔王の落胤ダークロードヘリテージよ、暴れ喰らえ!!」


 巨獣が咆哮し、腕を振り下ろす。大地が揺れ、衝撃が走る。

 が――若さまの姿は既にない。


「――なっ?」


 巨獣の攻撃が空を斬る。

 次の瞬間、結界内にいる男、その横に若さまが立っていた。侵入を拒むはずの結界が何の意味も成していない。


「邪魔するぞ」


 その言葉と同時に、彼の掌が男の腹へと突き刺さる――。


 ドグッ!


 男の体が弾けるように吹き飛ぶ。

 結界の壁に一度だけバウンドし、後方の木々を薙ぎ倒しながら転がった。


「……ッ!? 速すぎる……!」


 残る二人が動揺する間に、若さまは一歩踏み込む。


「さて、残りはふたりだな?」


 女が再び斬撃を放つ。だが、若さまの足元がふわりと揺れた。水が、滑るように流れる。まるで、地面そのものが水流へと変化したように――。

 女の足が滑った。


「しまっ――」


 その一瞬の隙に、若さまの膝が女の顎を捉える。


 ガッ!


 脳が揺れる音が響く。女の意識が霞み、膝から崩れ落ちる。


「――これで残りひとり」


 若さまが呟いた。最後に残ったフレイアの仲間は、後ずさる。


「く、くそ……!」

「どうする? まだやるか?」


 若さまが静かに問いかける。

 魔術師は、震える手で印を結ぼうとするが――若さまは、その所作を見逃さない。


 シュッ――。


 彼の指先が魔術師の手首を弾いた。


「なっ!?」


 印が崩れ、魔力が暴発する。

 直後、魔術師の体が後方に弾かれ、そのまま地面に倒れ込んだ。


「終わりだな」


 若さまが静かに言う。三人は圧倒的な差で、完全に制圧された。


「……くそったれ」


 フレイアは、剣を握り直す。仲間が敗北するのは、想定していた。だが、ここまで"完璧に"ねじ伏せられるとは思わなかった。

 違う、そう"思わないように"していた。


(……こいつ、ホントに人間かよ……)


 血闘同盟の筆頭魔術師を倒し続けた彼女ですら、次元の違いを感じていた。

 だが、それでも――。


「ここで終わるわけにはいかねぇんだよ」


 フレイアの体から、異質な魔力が溢れだす。


「"転生の記憶"……解放する」


 瞬間――彼女の体が"ぶれた"。


「……!」


 五つの残像が生まれたかのように、フレイアの姿が歪む。


転生技能チートスキル神速の行動ギア・オブ・ゴッド――!」


 転生者としてのスキル――五秒間、五つの行動を同時に実行する、絶対の瞬間強化。


「「「「「いくぞ……!」」」」」


 バチバチバチバチッ――!!


 フレイアの体が"五つ"に分かれる。

 それぞれの分身が、異なる動きを同時に取り、全方向から若さまを包囲する。


「コレは対応しきれねぇだろ!」


 三つの剣閃、二つの詠唱、五つの軌道。

 その全てがフェイントを交え、それぞれの意思を持って襲う。

 常識的に考えれば、全てを防ぐのは不可能――


 だが。


「……なるほど、お前も"転生の女神アイツ"の犠牲者か」


 若さまは一歩も動かず、呆れながら、ただ指先を軽く掲げる。


「"自己記述式"の応用だ」


 ――カチッ。


 その瞬間、空間にひとつの魔術文字ルーンが現れた。


 フレイアが五つの方向から襲い掛かる直前、

 ひとつの魔術文字ルーンは自己記述をはじめ、ひとつの魔方陣アルカナとなり、さらに五つに分裂する。

 さらに五つの魔方陣アルカナはそれぞれが意思を持ち、最適な行動に”自己を書き換える”


「は――?」


 彼女の五つの視界が、同時に"異変"を認識する。

 五秒間つづく五体同時攻撃を、魔方陣アルカナが精密に防御、迎撃する。

 まるで、意思をもつかの如く、己の役目きのうを書き換えて。


「なっ……!? そんな……!!」


 通常、一人の魔術師が、同時に複数の魔法陣アルカナを制御することは不可能。

 "同時制御"は、フレイアの"神速の行動ギア・オブ・ゴッド"が持つ優位性だったはず――。


魔法陣アルカナが、増殖して、勝手に動いてやがる……!?)


 フレイアの背筋が凍る。


 ズバァァン!!


 最初の分身が反撃され、消滅する。


 バシュッ!!


 次の分身が、魔法陣の迎撃波に打ち消される。


「……クソがッ!!」


 残る本体と三つの分身で、再度攻めるが――


 カチカチカチッ!


 残りの魔法陣アルカナが、"それぞれ担当する"攻撃を完全に封じる。

 戦いを初めて何度目か、フレイアの心臓が、強く脈打つ。


(……これが"こいつ"の領域か……!)


 彼女の転生技能チートスキルですら、完全に"凌駕されている"。

 転生技能チートスキルには転生技能チートスキルでしか対応できないはず――。

 だが、彼の行動が転生技能チートスキルだったのか、フレイアには判断がつかない。


「おまえっ! おまえも転生者チーターか!? 今のは転生技能チートスキルか!? そうなんだろう?」


 フレイアは悲痛の叫びをあげる。

 そうであってくれ、そうでなければならない、その思いが込められている


「ただの魔術スペルだ」


 フレイアは絶句する。


「なぁ、フレイア」


 若さまの声が静かに響いた。


「"次"はどうする?」


 フレイアは、握る剣の柄を強く噛みしめる。


(……クソッ……まだだ……まだ、終わらねぇ……!)


 フレイアは、一瞬の間に決断する。


 "最終手段"を使うしかない。


「――すべては等しく塵と同じ――」


 その詠唱を聞いた瞬間、フレイアの仲間たちが苦しげに呻く。


「ま、待てフレイア! それは……!」

「馬鹿な……まさか"あの禁術"を使う気か!?」


 "あの禁術"――それは、千年前に血闘同盟が封印したはずの魔術。

 かつて筆頭魔術師たちが、「使用禁止」の烙印を押すだけではなく、その術式を抹消した"はず"の禁術。


 意図的に"失伝"させたもの、悠久の時に消えた魔術。


「――魔力を喰らい、魔力を増幅し、戦場を制圧する――」


 詠唱が続くなか、彼女の仲間たちが苦しげな呻きを上げる。


 ゴゴゴゴゴ……!!!


 黒い魔力がフレイアの周囲に広がる。

 彼女の魔力が異常なまでに膨れ上がり、"仲間たち"の魔力を吸収していく。


「うああああああっ!」

「……悪いな、借りるぞ。"悲願"だものな……協力しろ」


 フレイアの目が、冷酷な決意を帯びる。


 バシュウウウウッ!!


 三人の魔力が"喰われ"、彼女の魔力に融合していく。


「う、うわぁああああああ!!」

「クソッ……やめろ……!!」


 バチバチバチッ――!!!


 フレイアの両手に渦巻く闇に、雷と炎が混じり合い、脈動を始める。


「……"失伝禁術:魔力喰らいマナイーター"だっ! さぁ、これならどうだよ?」


 若さまの顔が歪む。

 フレイアが叫ぶ。


「血闘同盟が封印した"千年前の魔術"だ……! 本家の筆頭どもはビビって使わなかったがな!」


 若さまが初めて警戒らしい警戒の所作を見せた。


「歴代の血闘同盟員で、誰ひとりとして制御できなかった――そう言われてるが、私ならできる!」


 フレイアの声が、微かに震えていた。

 しかし――若さまは、この先の展開を予見するかのように、静かに告げた。


「……お前、"それ"が何かわかって"詠唱つか"っているのか?」


 若さまの声は、冷たく響く。

 フレイアは鼻で笑った。


「わかっている!  本家では失伝した禁術だろう? だが、われわれは知っているっ!」


 若さまの眼差しは、どこまでも冷たかった。


「さぁどうする! どうするつもりだっ!」


 フレイアは虚勢を張るが、若さまは静かに首を振る。


「……違うな」


 ――ズブゥゥゥゥゥッ!!


 影が蠢いた。


「なっ……!?」


 フレイアの目が見開かれる。


 "失伝禁術:魔力喰らいマナイーター"は周囲の魔力を喰らうもの。

 その魔力をもって最大火力の雷火を放つ――はずだった。

 だが、"コレ"は"何か"が違う。


「まさか……?」


 黒い影が、不規則に揺らぎながら拡大する。


「ちょっと待て……これは……!!」


 フレイアの仲間たちの顔が、一瞬にして蒼白になった。


「ま、待てフレイア!」

「ぐっ……く、苦しい……!」

「おい……これ、何かがおかしい……っ!?」


 バチバチッ……!!


 空間が歪み、黒い波が奔る。影が生き物のように蠢きながら、フレイアの仲間たちへと伸びていく。


「……っ!?」


 叫ぶ間もなく、影が彼らの魔力を吸い上げる――それだけではない。


「ぎ、ぎゃあああああああ!!」


 肉体ごと喰われた、消えた。


「……っ!? まさか……」


 影が彼らの足元を這い、またたく間に彼らの身体を覆う。


「ぐ、うわああああ!!」

「た、助け――」


 一瞬。

 それだけで、彼らは影に呑まれ、消えた。


「そ、そんな! そんな筈は! そんなつもりはっ!」


 フレイアの呼吸が乱れる。


 ズズズズ……ッ!!


 影が拡大する。大気が軋む。

 それは、魔力を喰らうはずだった。


 しかし――影は、それ以上のものを喰らい始めていた。


「え……?」


 フレイアは息を呑んだ。


「な、なにこれ……っ!?」


 影が彼女の腕を這い上がる。その瞬間、"腕の感覚"が消えた。


「あ……?」


 右腕が、"無い"。

 フレイアが気づいたときには、影に飲み込まれた腕は、もう消えていた。


「う、うそ……だろ……?」


 影は、魔力を喰らうものではなかった。

 影が空気を、空間そのものを侵食し、喰らっていく。


「……クソッ……なんだこれは! なにが起きているんだっ!」


 ――ズズズ……。


 影がさらに広がる。次はフレイアそのものに襲いかかる。


「……ッ!!」


 彼女は即座に魔力を四散させ、距離を取ろうとする。


 ――だが。


「それじゃあ間に合わん」


 若さまの声が響いた。


 ――ズバァァァァァッ!!!


 彼の手が影を捉えていた。


「っ……!?」


 フレイアは目を見開いた。


「お前の知識は浅すぎる」


 若さまは冷静に言い放つ。


「これが喰らうのは魔力なんかじゃない。もっと根本的なもの」


 フレイアが目を見張った。


「"存在"を喰うんだ」


 フレイアは混乱している。


「はっ……は……はっ! ははははは! 最高じゃぁないかっ! お前を喰らってやる!」


「……」


「ははははははっ!」


「魔術師が"魔術"に溺れるな」


 若さまが諭すように言った。


「最後に喰われるのは術者自身だ」


 フレイアの身体が、影に引きずり込まれそうになる。


「なんだ……なんで……うわぁあああ!」

「術を放棄しろ! フレイアっ!」


 彼女は焦り、もがく。


「できないっ! できないんだっ!」

「そうか……」

「たすけて! たすけてくれっ! 死にたくない! "消え"たくない!」

「わかった……じっとしていろ」

「!?」


 影が彼女の足元を絡め取り、身体を沈めようとする。


「……うわああああああああ!」


 その時、若さまは、静かに息を吐いた。


「……まだだ」


 フレイアの身体が、ずるりと影に沈みかける。

 彼は、指をかざした。


「フレイア……お前は……まだ"ここ"にいろ」


 ――バシュウッ!!!


「……我ながら、複雑な術式にしたものだ」


 フレイアの視界が揺らぐ。

 影の奔流が、自分の身体を呑み込もうとする瞬間――


 ――ドンッ!!!


 衝撃が走った。

 だが、それは外からではなく、"内側"から。


「何をした……?」


 フレイアは、自分の声が震えていることに気づいた。目の前の男が、ただそこに立っているだけ。

 なのに、周囲の影が、まるで"彼を避ける"ように引いていく。

 まるで、"この世界の理"が、彼にだけ違うルールを適用しているように――。


 間もなく、音もなく、影が霧散した。


「な……っ!?」


 フレイアは言葉を失う。


 彼は、ただ指をかざしただけだ。それだけで、"禁術の暴走"が終わった。


 否――違う。


 "終わらせた"のだ。

 "最初から存在しなかった"かのように、すべてを掻き消して。


「バカな……そんな……」


 フレイアは、呆然と足元を見つめた。そこにはもう、"影"はない。


(……嘘だろ)


 あれだけ世界を侵食していた影の奔流が、何一つ痕跡を残していない。

 まるで、悪い夢だったかのように。


「……」


 戦闘の緊張が解け、膝が震える。喉がカラカラに乾く。


「……こんなことが、あっていいわけねぇだろ……」


 フレイアは、声にならない呻きを漏らす。今までの戦いが、何の意味もなかったような虚無感が押し寄せる。

 そんな、彼女の前で、若さまは静かに言った。


「久しぶりなんでな……おもったより手こずった」


(なにがっ?)


 フレイアは状況が呑み込めない。

 しかし、すでに影はない。

 その"事実"を受け入れようとする。


「ばかっ! 何故だっ! 何故そんなことができるっ!」


 叫び声は震えていた。


「禁術っ! 禁術っ! 千年前の禁術だぞっ!」


若さまは、フレイアの瞳を真っ直ぐに見つめながら――淡々と答える。


「何故そんなことができるっ!」




「この術は俺が"創った"」




「はっ……?」


 フレイアは耳を疑った。

 この禁術は千年前に封印された。血闘同盟、最古の魔術。


 一説には創始者が自ら生み出したとされる。

 だとすれば――こいつは、


「血闘同盟の創始者……? おまえが……?」


 自らの言葉が、自らの胸に"音を立てて"突き刺さる。


(……何をした?)


 いや、違う。

 "何をしてきた"?


 目の前の男は、何を知り、何を創り、何を破壊してきた?


 "負けた"。


 違う。これは、負けたとか、そういう次元の話じゃない。


(……戦わせても、もらえなかった……)


 戦いではない。"処理"だ。

 頭をたれるフレイアを見て、若さまが言った。


「終わりだな」


 戦闘の狂騒が終わった今、フレイアの耳には、自分の心臓の音だけが響いていた。



  ***




 静寂の書斎に、炎の揺らめく音だけが響く。

 暖炉にくべられた薪が、ぱちりと小さな音を立てた。


 若さま――青年の姿のまま、机の上に積まれた古文書に視線を落としていた。

 手元には開かれた羊皮紙。魔術文字の記されたそれを、ゆったりとペンでなぞる。


「……やはり、この時代はこの術式が主流なのか……」

 

 呟く声は穏やかで、どこか懐かしさすら滲む。

 そんな静けさを壊すように、カーテンの奥から足音が近づく。

 小気味よいリズムで床を踏みしめ、淡い香水の香りをまとった気配が背後に立つ。


あるじさま」

「どうした?」


 彼が視線を上げると、ミズリスがそっとカーテンを開け、窓辺に立っていた。

 透き通るような水色の髪が、月の光を受けて揺れる。


 窓の外に目を向けた彼女は、微かにため息をついた。


「……また来ています」

「気づいてはいたけどね」


 若さま(――いまは主さまと呼ぶ)はペンを置き、肩をすくめる。


 窓の外、屋敷の門近く。

 影が一つ、壁にもたれかかるように立っていた。


 フレイア――かつて主さまに挑み、敗れた女。

 薄汚れた外套を羽織り、腕を組んでじっとこちらを見つめている。


「もう何度目でしょうか」

「何度目だろうな、数えてはいないな」


 ミズリスは不機嫌そうに眉を寄せる。


「いったい何が目的なんですか? まさか、まだ"血闘"を続けるつもりですか?」

「どうやらそうらしい」


 主さまは軽く笑い、指でこめかみを揉む。


「他の娘にそれとなく聞いてもらったんだが」


 彼は一拍置いて、柔らかな声で続ける。


「僕と再戦するために、隣町に宿を借りてるそうだ」


 ミズリスは絶句した。


「……あの人、正気ですか?」

「まあ……本気なんだろうな」


 若さまは苦笑しながら、再びペンを手に取る。


「本当に、しぶといね」

「呆れます」


 ミズリスは肩を落とし、窓から視線を逸らす。


「――そんなことより、今日の夕食は?」


 唐突な問いに、彼女は顔を上げた。


「……ビーフシチューですが?」

「……にんじん、入ってるかい?」


 即座に投げかけられた言葉に、ミズリスは表情を曇らせた。


「当然です。まさか、また避けるつもりですか?」

「苦手だからね」

「子供じゃないんですから、いい加減食べてください」


 ミズリスは呆れ顔で言うが、どこか微笑を含んでいる。

 青年の姿のまま、主さまが、こうして何気ない会話を交わしてくれることが、彼女にとっては嬉しかった。


「……僕が避けても、皿の中には入ってるからな」

「まったくもう」


 ミズリスはそっと肩をすくめる。



   *



 屋敷の庭先に、冷えた夜風が吹き抜ける。


 夜空には三日月。

 小さな燭台が揺らめく中、ふたりの女性が向かい合っていた。


「……いつまで、ここにいるつもりですか?」


 ミズリスが冷たく問いかけると、フレイアは腕を組んだまま、ふっと鼻で笑った。


「館の主と決着をつけるまでだ」

「決着なら、もうついています」


 ミズリスが静かに言うと、フレイアは忌々しげに眉をひそめた。


「……あんなもの、戦いとは呼ばない」


 彼女の拳がぎゅっと握られる。


「あの戦いで、私の仲間のうち二人は禁術に飲まれて消えたまま……生き残った一人も、どこかへ去った」


 フレイアの声には、かすかに苦渋が滲んでいる。


「つまり、分派われわれにとって、私はもう"敵"だ。行くあてなんて、どこにもない」


 それを聞いたミズリスは、軽く息を吐く。


「……そうですか……そうであれば…………夕食を一緒にどうです?」


 フレイアが怪訝そうに目を細める。


「ビーフシチューです……口にあうかは知りません」

「……どういう風の吹き回しだ?」

「主さまに言われたんですよ。"誘ってこい"と」


 ミズリスはやれやれと言いたげに肩をすくめた。


「……とはいえ、私はあなたの面倒をみる気がありません。でも、客人をもてなせない屋敷だとは思われたくないので」


 ミズリスはふと屋敷を振り返り、淡々と告げる。


「宿代も大変でしょう? 古い馬小屋のひとつが開いていますよ」

「……馬小屋だと?」


 フレイアが目を細めると、ミズリスは小さく口元を押さえた。


「あら、失礼。"物置"でしたね」

「……ふん」


 フレイアは少し考え、腕を組んだまま尋ねた。


「……シチューに、にんじんは入っているのか?」

「当然です」


 ミズリスが即答すると、フレイアは短く息をつき、身を翻した。


「なら、また来る」


 そう言い残し、彼女は屋敷を背に歩き出す。

 その背中に向かって、ミズリスがため息まじりに呟いた。


「……主さまと、同じことを言っているじゃないですか」


 夜風が吹き抜ける中、遠ざかるフレイアの姿を見送るミズリス。

 フレイアの足がとまる。


「そういえば……"主殿あるじどの"の名は何という?」


 フレイアは振り返ることなく問う。

 ミズリスは目を見開く。


「そんなことも知らずに"血闘"を?」

「悪いか?」

「無礼でしょう」

「そうか」


 ミズリスはため息をひとつ。


「主さまの名は……」


 ――今夜もまた、平穏な夜が訪れる。

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【短編】ムゲンテンセイ~血闘同盟~ まけない犬 @sizuto-inumochi

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