夢に終わった、夢の終わり

hibana

夢に終わった、夢の終わり

 あの夢を見たのは、これで9回目だった。


 ガキの頃、10か11ぐらいの頃から毎年見るようになった夢だ。

 夢の内容は、大したものじゃない。どこか明らかに日本じゃない国の、小さな店にいる。そんな夢だった。

 不思議というほどではないけれど、随分とリアリティのある夢だった。店の中には棚がいくつもあって、雑貨や異国の香辛料、菓子などが並んでいる。日本でないからか、それとも店がかなり古いのか、建物自体見たことがない造りだった。2階建てのプレハブ小屋って感じだ。

 店の中ではなく外に階段があって、夢の中で俺はそれを一生懸命に上っている。どうも目線からして俺は子供のようだった。これは夢を見始めたときから、20歳になった今でも変わらない。小さな子供が何とか上がる階段は、錆びついた金属製だ。揺れるたび、ギシギシと鈍く音を立てた。

 店の2階は居住スペースのようで、俺は重たいドアを引いて開ける。それから部屋の中を探すけれど、そこに誰もいなくて俺は途方に暮れる。それでベランダの戸が開いて、誰かが俺の名前を呼ぶ。俺は嬉しくなって、その人に駆け寄って抱き着いて、それで――――


 目が覚める。どうしてだか無性に寂しくなって、俺は泣いている。いつもそうだ。

 とはいえ、昔から何度も同じ場所を夢に見る、というのは大して珍しいことじゃないはずだ。多かれ少なかれみんなそういう経験があるんじゃないだろうか。

 それに、俺がその夢を見るようになったのにはきっかけがあった。

 ある日の親戚の集まりで、酔っぱらった大人たちが出してきたアルバムに、一枚の写真が挟んであった。例の店の前で、少女が微笑んでいる写真だ。


 それを見たじいちゃんが、「篠孝しのたかが撮った写真だ」と言った。いつも寡黙なじいちゃんが突然口を挟んだので、みんな驚いた。

 じいちゃんというのは、母方のじいちゃんだ。名前は彰孝あきたか

 それで、篠孝というのはこのじいちゃんの弟だ。俺たちが生まれるずっと前に亡くなったらしい。

 俺たちはシノじいちゃんに会ったことはないけど、話はよく聞いたものだった。これがまた随分変わった人だったらしく、高校卒業してすぐ輸入品屋で働き始め、そのツテを利用して自分の店を持ったと思えばいつの間にか海外で商売を始めていたって話だ。残念ながら若くして亡くなってしまったが、俺や従兄弟たちは『シノじいちゃん』と呼んでなんとなく親しみを覚えていたし、生きていればぜひ会いたかったと感じていた。


 そんなシノじいちゃんが撮った写真を一目見たその日から、俺はあの夢を見るようになった。なぜそんなにあの写真が記憶に残ってしまったのかはわからない。ただ不快な夢でもないし、一年に一度程度のことなのであまり気にならなかった。

 一度だけじいちゃんにこの夢の話をしたことがある。じいちゃんはただ一言、「お前は篠孝によく似とるから、間違えられとるんかもしらんなあ」とだけ言った。それだけが少し引っかかっていた。


 そんなじいちゃんも一昨年死んでしまった。

 20歳の俺は時間を持て余した大学生で、だからついに9回目にしてそれを決意した。あの写真の場所に、夢で見る場所に、行ってみようじゃないかと。


 母さんには「大丈夫なの? あんた、初めての海外がそんな得体のしれないとこで」と言われたが、俺の決意は固かった。

 旅費は決して安くない。おまけに、行ってみてこの場所にたどり着けなければ骨折り損だ。それでも俺は行ってみたかった。そして夢見の後の、あの何とも言えないせつなさの訳を知りたかった。


 飛行機で空の上を6時間。そういやシノじいちゃんは飛行機が落っこちて死んだんだよなぁ、と縁起でもないことを考えてちょっと怖くなったりしながらも、俺は無事にその地にたどり着いた。目指すべきざっくりした地域はわかっていたので、現地のバスに揺られてその場所を目指す。バスは徒歩よりちょっと速いくらいで、周りの景色がよく見えた。途中、露店で売っていたよくわからないパイみたいなものを食べたりした。肉の味付けが濃くて美味かった。

 さて、ここからはほとんどヒントがない。地元の人たちに聞いて回るしかない。それにしても寂れた村だった。




 なんだか妙に高い空を見ながら俺は、母さんとのやり取りを思い出していた。

「篠孝叔父さんはねえ、こっちに帰って来るつもりだったのよ」

 そうなんだ、と俺は相槌を打つ。「叔父さんはずっと海外に行ってたから、私もあんまり会ったことないけどね。でもお父さんとはよく会ってたみたいよ、仲が良かったからねえ。あの事故があった時にはお父さんすごく気落ちしちゃって大変だったんだから」と言いながら母さんは頬杖をついた。母さんの言う“お父さん”とはもちろんじいちゃんのことだろう。

「久しぶりにこっち戻ってきた叔父さんが、お父さんにあの写真見せて言ったらしいの。『俺は日本に戻って、この子供と暮らそうと思う。この子供を娘にするんだ』って」

「そんなことできんの?」

「さあ。でもその根回しを色々するために、一旦こっちに戻ってきたみたい。それでまた、向こうに行くときに……」

「飛行機事故で?」

「そうそう」

 運の悪いことだ。

 それで俺は、じいちゃんが言った『お前は篠孝によく似とるから、間違えられとるんかもしらん』という言葉の意味がなんとなくわかった気がした。

 だから母さんに「シノじいちゃんの骨とかってない? 持っていきたいんだけど」と言ってみた。母さんは『あんたバカねえ』というような顔で俺を見て、「あんたバカねえ……」と実際に口に出す。

「骨持って飛行機乗るのなんか、大変よ、あんた。許可が出るかどうか」

「あー」

「そもそも叔父さんの骨なんてないわよ。見つからなかったんだから」

「そういえばそっか」

 30年前、飛行機はバラバラになりながら海に不時着した。ほとんどの人は助かったけど、何人かは見つからなかった。その、見つからなかったうちの一人がシノじいちゃんだ。だから骨なんてないのだった。

 腕組みしながら俺は「じゃあ形見ならなんでもいいよ。なんかないの?」と言ってみる。母さんは困った顔で、「お父さんが生きていれば何かあっただろうけど……」とため息をついた。




 俺が付け焼き刃の異国の言葉で話しかけると、村人は快く応じてくれた。治安の面でかなり心配していたのだが、この辺りの人々はみんな朴訥としたいい人ばかりだった。

 ある人が俺の見せた写真を見、それから俺を見て、「シノ……」と呟いた。髭の立派な年配の男性だった。俺は頷いて、ここで店をやっていた篠孝という人は俺の祖父の弟であることを説明した。彼は一瞬どこか遠くを見てから、店まで案内してくれた。村人に声をかけ始めてから実に3時間後のことだった。俺は丸一日かけても見つからないということも覚悟していたので、非常に運が良かったと言える。


 店は、夢で見たままの趣でそこにあった。俺はどうしてだかそれがと信じて疑っていなかったが、よくよく考えればシノじいちゃんが死んでから30年くらい経っているし、更地になっていてもおかしくはなかったなと思った。この辺りは廃墟ばかりで、建物を取り壊す余裕がないのかもしれない。

 案内してくれた男性は、『じゃあこれで』という仕草をして去っていった。シノじいちゃんの話を聞いてみたかったが、俺の拙い言葉で相互に理解し合えるかわからない。ひとまず俺は店に入ってみることにした。

 厳密に言えば不法侵入ということになるのだろうが、俺は一応親族だし許されるだろうか。いや、シノじいちゃんが亡くなっているしこの建物(土地?)の所有者が誰になっているかわからないので微妙かもしれない。


 古い戸を開ける。立てつけが悪く、人が入れる隙間を作るのに苦難した。ようやく半分くらい開いて、俺は滑り込むように中に入る。

 暗くて、ひんやりしていた。さすがに電気は通っていないだろうし、何が起こるかわからなかったから電気のスイッチらしきものには触らなかった。

 店内はどことなく砂っぽくじゃりじゃりしている。たくさんの棚にはさすがに商品は置かれておらず、代わりに埃がうっすら溜まっていた。鉄が錆びて黒くなっていてちょっと触ったら崩れてしまいそうだ。これも触れずに見るだけにする。

 俺は一旦外に出て、階段を見た。この階段は崩れないだろうかと一瞬考えたが、おっかなびっくり上がってみることにする。


 夢の中同様に、2階のドアは少々重たいが開いた。元々土足で入る設計なのだろう、日本的な玄関はない。そういえばこの建物にはカーテンもない。ここに来るまでに見てきた建物にもカーテンは見当たらなかった気がする。

 おそらくここでシノじいちゃんは生活をしていたはずだ。トイレと一体になったシャワールームに、小さなキッチン。透明な硝子のテーブルに、椅子が二脚。ベランダには物干し竿と、簡易なベッドがある。

 俺はベランダへ向かう戸に手をかけた。


 不意に、風が吹いた。この国に足を踏み入れてから初めて感じた風だった。


 俺はいつの間にか、部屋の隅で一人の少女が駆けてくるのを見ていた。少女はシャワールームやキッチンを覗きながらやって来る。それからベランダの向こう側に人影を見つけ、嬉しそうに顔を綻ばせた。

 少女がベランダの戸を開ける。そこに寝そべっていた若い男性の肩を揺らす。シノ、シノ、と呼ぶ。シノじいちゃん――――篠孝は笑いながら起き上がり、少女の名を呼んだ。さくら、と。異国の少女にそのような名をつけたのは彼以外にいないだろう。

 少女はきゃあきゃあと笑いながら篠孝を家の中に引っ張り込む。篠孝はキッチンに立って、パンと卵を焼いた。それを二人で座って食べて、一階に降りていく。

 店を開け、篠孝はレジの丸椅子に腰かける。少女は店の前に椅子を持っていって、すまし顔で客引きをする。

 夕方、茜色に染まった中で篠孝が飲み物を少女に手渡し、“来ねえなぁ、客”というようなことを言う。少女は大人ぶった口ぶりで“この辺りには人がいないもん”と言った。

 それから青く降り積もるような夜が訪れ、帰ろうとする少女を篠孝が呼び止める。

 二階の居住スペースまで少女を連れて行き、寝室を見せた。大人用のベッドの横に、少し小さなベッドが置かれている。今日からここがお前の家だよ、と篠孝が言った。どうやらサプライズだったらしく、少女が“いいの?”と信じられない様子で篠孝の顔を見ている。

 それで、篠孝とその少女は寝食を共にすることになった。

 遠くのランドリーまで洗濯をしに行って、帰りに雨に降られたりした。雨が止めば、湿度の低いこの国では濡れてもすぐに乾いてしまう。2人はベランダに立って、雨上がりの空を見上げていた。

 夜中まで電気のついているような建物がないから、夜は星が綺麗だった。篠孝がでたらめな星座を教えたりして、そんな時間が少女は大好きだった。

 2人は朝一緒に起きて食事をして店をやって、“今日もお客さんは来なかったね”と笑い合って暮らしていた。

 その様子を俺は見ていた。


 ある日、篠孝が言った。数日だけ母国に帰る。それで戻ってきたら、今度はお前を連れていく。向こうで一緒に暮らそう、と。

 カレンダーに赤く丸を付け、この日に帰ってくると篠孝は言った。それまでいい子で待っていてくれ、と。

 その日は、一年に一度、俺が例の夢を見る日だった。そうか、約束の日だったのか。


 少女はずっと待っていた。カレンダーの過ぎた日にバツをつけ、約束の日を待っていた。

 その日が過ぎてからも、ずっと待っていた。いつか店の戸を開け、“遅くなって悪かった”という声がするのを待っていた。

 篠孝は少女に食料を残していったし、“もし足りなかったら店の商品を食え。生きるためならなんでも食え”と言って行ったが、少女が商品に手を出すことはなかった。じいちゃんに褒められたかったんだな、と俺は思う。

 それで少女は徐々に弱って生きながら、それでも待っていた。動けなくなって、ぼうっと戸が開くのを待ちながら、泣いていた。約束が果たされる日を信じていた。


 そこまでだ。それで終わり。それ以上の物語は、ない。


 俺はハッとして、辺りを見渡す。あんなに色鮮やかだった部屋が、埃だらけで暗い。いつの間に夜になっていたのか、月明かりがベランダから差し込んでいる。


『どうして、わたしを迎えに来てくれなかったの』


 そこに、少女がいた。俺は一瞬たじろいだが、しかしこの娘に会いに来たのだと思い直して「こんにちは」と言ってみる。


『どうしてわたしを迎えに来てくれなかったの。約束したのに』


 そうだな。そうだよな。ずっと待ってたんだもんな。

 30年も、この場所で、たった一人で。

 もっと早く来てやれればよかったな。夢の中で追体験しただけの俺だってあんなに寂しかったのに、この娘はもっと寂しかったろう。


『あなたの国に連れて行ってくれるって約束したのに。あなたが教えてくれた言葉を、たくさん練習したのに』


『どうして。待ってたのに。約束したのに。嘘つき』


 俺は一瞬言葉に迷いながら、「ごめん」とひとまずシノじいちゃんの代わりに謝った。「でもたぶんシノじいちゃんも、嘘ついたわけじゃないと思う」と続ける。


「ごめんな、俺……あんたが待っている人じゃないんだ。シノじいちゃんは……死んだんだ、あの日。あんたを迎えに来る途中で、乗ってた飛行機が落っこちて死んだんだ」


 少女はたじろいで、『嘘つき』と俺を糾弾した。それでも俺は頭を振って「シノじいちゃんがあんたを騙したと思うか? 国に帰ったら気が変わって、あんたのことを忘れたって?」と膝を折りながら少女と目線を合わせる。

 それから俺は、小さな銀色の鍵を差し出した。




 シノじいちゃんの形見と言われ、母がぶつくさ言いながら持ってきたのがこの鍵だった。

「こっちで暮らすのに家を借りたのね、叔父さん。それで叔父さんがお父さんにね、『次は娘と一緒に帰ってくる。その時まで預かっててくれ』って言った鍵なんだって。それでお父さんはそのまま私に。『篠孝が帰ってきたら返してやってくれ』って。ほら、お父さんは叔父さんが生きてるって信じてたから」

 そういえばじいちゃんは酔っぱらうと『篠孝は死んでない。もっとちゃんと探せ』とよく言ったものだった。

「……こういうの、不動産屋とかに返さないとまずいんじゃない?」

「私に言わないでよ。もう何十年前だと思ってるの。今ごろ鍵変えて他の人が住んでるわよ」

 とにかく、形見と言ったらそれくらいしかないと母さんは言った。俺はそれを受け取って、はるばる異国の地まで持ってきていた。




 少女はそれを見て、訝しげに首をかしげている。

「シノじいちゃんが、あんたと暮らすために用意した家の鍵だ。本気であんたと暮らすつもりだったんだ。だから……許してやってくれないか」

 おそるおそる手を出した少女が、それを受け取った。

 瞬間、鍵穴の回るガチャリという音がした。


『この辺はなんにもないとこですよぉ、本当にいいんですか』


 桜の花びらが散っている。ふふ、と笑ったシノじいちゃんが『なんでもありすぎるくらいだ、この国は』と言うのが聞こえた。話している相手は不動産屋だろうか。『後悔しませんか?』と念押ししている。

『いいんだ。俺ぁ、あの桜が気に入った』

『桜ですか? そう珍しくもないと思いますけどねえ』

『せっかくこっちで暮らすんだ。本物を見せてやらねえとなぁ』

 不意に、シノじいちゃんがこっちを向いた。『なあ? さくら。おいで』と手招きをする。


『おいで、さくら。今日からここが俺たちの家だよ』


 少女は呆然としていたが、やがて“ああ、ああ”と声を上げて泣き出した。そうしてシノじいちゃんのもとに駆けていく。

 シノじいちゃんが一度だけ俺の方を見た。

『悪かったなぁ、世話かけて』と、俺に言う。俺は瞬きを一度して、「いいよ、別に。そっちに行ったら小遣いでもくれればそれで」と答えた。その時には俺の方が歳上だろうけど。


 夢の終わり。灰色の廃墟の中に戻っている。桜の花びらが落ちているのを、俺は拾った。鍵だけじゃ足りないかと思って、本の間に挟んできた押し花だ。確かにあの少女は、ちょうどこの小さな花びらによく似た娘だったなと俺は思う。


 俺は飛行機に乗り、日本に帰る。9度も見た夢がこれで終わりだと思うと、妙に寂しく思えた。俺はあの夢が嫌いじゃなかったな、と。

 日本を発った時には五分咲きだった桜が、満開になっていた。


 何もかも、夢だったのかもしれない。異国の地で白昼から見た幻だったのかもしれない。そのような救済を求めた俺の願望の表れだったのかもしれない。

 それでも俺は、この桜並木の下に手を繋いで歩いていく二人の姿を見る。

 一方は海の底で、もう一方は異国の小さな店の中でその生涯を終えた二人が。ただ一人を迎えに行きたかった、ただ一人を待っていた二人が、一つになってこの地を歩いていく姿を。

 そうして――――風が吹いて嵐のように舞う桜と一緒に、二人の姿は消えていった。

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