【キツネ対寄生虫】仙台巨獣大戦③

 翌日も早朝から森に駆虫剤が散布され、その後自衛隊による捜索が行われた。

 無反動砲が到着し、その他にも89式自動小銃の使用が許可された。準備は万端というわけだ。

 結局、それらの装備は一度も使われることなく終わった。

 ──巨大化した動物はすべて死んでいたのだ。

 私たちが見たものと同じ巨大シカは、ブラボー隊が最後に目撃した場所で、その子供とおぼしき十メートル級のシカと一緒に息絶えていた。その他、五メートル程度に成長したイノシシ──こんなのが人里に下りたら大変なことになるところだった──が数頭、二十メートルのハクビシンが一頭、そして数えきれないほどのお化けネズミどもが、すべて腹に穴を穿たれた状態で見つかった。

「──つまり、これらの動物の腹を食い破った寄生虫が、まだ森の中に潜んでいると?」

「うむ。まだ油断はできないが、根気よく駆虫剤を散布すれば根絶できるだろう」

 冷汗をぬぐう高島先輩に、先生は言った。

 一日がかりで回収された大型動物たちは、川原子ダムのほとりに集められ、世界中から集まった学者たちが夜を徹して研究に当たっている。時期的に腐敗の可能性が高いため、近いうちに焼却処分される予定だそうだ。


 シルヴィーはすっかり元気を取り戻していた。

 彼女は自分からダムに下りてきて、広々とした草原に寝そべり、鼻先でレッドと戯れている。 

 ここまでくると、さすがにマスコミにも隠せなくなった──あの巨体は周囲から丸見えなのだ。

 ダム周辺の報道規制が解かれると同時に、記者と見物人がどっと押し寄せた。彼女の姿が全国のテレビに映し出され、お茶の間を賑わせた。

 案の定、ボスから電話がかかってきた。

『どうなってるの? テレビ局に出し抜かれてるみたいじゃない』

「大丈夫です。私は捜索隊に同行したんですよ? とっておきの映像が撮れましたから」

 私は自信満々に電話を切った。こんな気分でボスと話せたのは初めてだ。

 ──そう、私のカメラにはシルヴィーが大イタチと戦う、ド迫力の映像が収められている。

 このままボスに渡してしまうのも惜しい気がする。どこかのテレビ局に高く売りつけるか、自分で動画サイトにアップしてもいい。そうすれば──ああ、夢が広がる!

 そんなことを考えながらダムを歩いていると、浩子さんと先生を見つけた。

「どうかしました?」

 私が声をかけると、浩子さんは無邪気にじゃれ合うレッドとシルヴィーを見つめて言った。

「以前はフェンスで隔てられていたのに……今はあの大きさが、レッドとシルヴィーを隔てているんですね」

「……」

 そのとおりだった。

 どれだけ愛し合っていても、レッドとシルヴィーは抱き合うことも、子供を産むこともできないのだ。

「自然は時に、残酷なことをしますね……」

 私にはそれくらいしか言えなかった──が、先生は驚くべきことを言った。

「私には、アロが自然なものとは思えんがね。宿主を巨大化させ、ひとしきり暴れさせたあとで宿主は死ぬ。体外に出た成虫は駆虫剤で簡単に駆除できる──あまりに都合がいいと思わんか?」

「……どういうことです?」

「例えば、ある町にアロを放ったとする。そいつはネズミやペットを巨大化させ、町を破壊する。食糧を食いつくし、人間も襲うだろう。そうして無人の町になったところで、次に到着する人間がやることは、死骸の処分と駆虫剤を撒くことだけさ。それで町はそっくり手に入る。ミサイルより金もかからず、途中で迎撃されることもない。破壊されるインフラも、ミサイル攻撃に比べたら微々たるものだ」

「誰かが戦争のために、あの寄生虫を創ったっていうんですか!」浩子さんが激昂して言った。「だとしたら、絶対に許せない……!」

「いやいや、そういう見方もあるというだけのことだよ……今の話は忘れてくれ」

 浩子さんの剣幕に、先生はあわてて否定したが、私には興味あるネタだった。

 あのお化けネズミが、野性のノネズミではなく都市にいるドブネズミだったことは、アロが自然発生したものではないということの裏づけではないだろうか。

 一方で、何らかの実験で生まれたというのならば、実験体にドブネズミを使うというのもありえない。しかし、たまたま流出した卵をドブネズミが口にしたのなら……考えれば考えるほどキリがない。

 いずれにせよ確たる証拠はない。この話は私の胸にとどめておくことにした。

 それよりも私の映像をどうするかだ。いっそこれを機に、買取契約ではなく著作権契約を結ぶか──。

「──ああ、いたいた」

 突然、肩を叩かれた。高島先輩だ。

「何ですか?」

「青葉、シルヴィーとイタチの映像撮っただろ。あれどこにある?」

「えっ、何で?」

「『何で』じゃねえよ。自衛隊の公式活動記録だ。個人が持ってていいわけねえだろ」

「はああ?」

「おまえならそのくらいわかってると思ったがな。まあ雀の涙ぐらいの協力金は出るだろう。でなきゃ没収したうえに罰金だ。好きなほうを選べ」

「……」

 私は震える手でカメラからメモリーカードを抜いて、先輩に渡した。

「おう、サンキューな。じゃあおまえも仕事頑張れよ」

 先輩はさっさと行ってしまった。どうしよう。ボスにどやされる……。


『──そう』

 その夜、暗い気分でボスに報告すると、そっけない返事が帰ってきた。

『レッドとシルヴィーなら他社でも報道してるし、ニュース的な価値はないわね。ご苦労様。今回の仕事は終了でいいわ。お金は振りこんでおくから』

 北極を裸で歩いてもここまで冷たくはないという口調だった。

「すみません……個人的にもう少し粘ってみます」

『あらそう? いいのが撮れたら教えてね。それと念のため、その高島さんの所属を教えてくれる?」

「所属……ですか?」

 私は先輩の所属を教えてから電話を切った。

 愛する〈イーグレッツ〉は悪夢の九連敗。私は三本目の缶ビールに手を伸ばした。


 〈イーグレッツ〉が〈ボールパーク仙台〉に帰ってきた。

 私はギャラを軍資金に、〈イーグレッツ〉の勝利を見届けるまで仙台に居座ることに決めた。

 昼は川原子ダムへシルヴィーの様子を見に行く。彼女は寝そべって、どこからか寄贈された大量の生肉を食べながら、レッドと戯れているだけで特に動きはない。

 夜はエンジ色の応援ユニフォームを着て、カメラを手に〈ボールパーク仙台〉に足を運んだ。

 ──十連敗。私の心は悲しみを通り越して、無の境地に至りつつあった。


 そして翌日のデーゲーム、ついに奇跡が起きた。

 その日は宿敵〈北海道ファイヤーズ〉相手に〈イーグレッツ〉の打線が爆発、四回裏までに6―0でリードを奪っていた。ツーランホームランが飛び出し、会場が歓喜の足音で揺れる。

 五回表、〈ファイヤーズ〉の攻撃。ビールの売り子さんが来ないので、私は席を立って売店に向かった。さすがにこの点差で逆転されることはない……はずだ。

 球場横の遊園地では子供たちがエアクッションで跳びはね、巨大な観覧車がゆっくりと回転している。

 何もかもが素晴らしい気分だ。映像を取り上げられたことも、ボスの小言も忘れてしまう。

 だって、今日は〈イーグレッツ〉が勝つから!


 ──突然、場内にサイレンが鳴り響いた。

「……何?」

 あたりを見回していると、場内アナウンスが聞こえてきた。

『──ご来場の皆様、本日の試合は中止とさせていただきます。係員の指示にしたがい、すみやかにご退場いただくようお願いいたします。繰り返します……』

「待て待て待て!」

 私は自分の席へと急いだ。スコアボードは五回表、ツーアウト。

 後攻がリードしている場合、五回表が終了しないと試合は成立しない。つまり、ここで終わればノーゲーム。〈イーグレッツ〉の勝利はパー。

「ふざけるな! あとワンアウトぐらい待てねえのかよ!」選手の一人が叫ぶ。

 私も観客も同じ気持ちだ。誰一人席を立とうとせずに、場内に怒声が飛びかった。

 ──不気味な飛翔音が聞こえてきたのは、その時だった。


「何だ、あれは……?」

 空気を震わせて上空から飛んできた巨大なそれは、観覧車にしがみつくようにして止まった。

 前脚の鎌を転輪に食いこませ、目も触角もない吸盤状の口を覗かせる。

「──アロ!」

 わが目を疑った。つい先日、数十センチのものを目にしただけでも信じられないのに、こいつは十数メートルにまで巨大化している。しかも、翅による飛行能力まで備えて……。

「うわーっ!」

 一瞬にして場内はパニックに陥った。観客は折り重なるようにして逃げまどい、われ先にと球場の出口へ殺到する。私はといえば、カメラを手にして観覧車へと向かった。

 係員が観覧車を停止させ、下のほうの乗客は降りてきていた。しかし、全高三十数メートルの観覧車だ。大部分の乗客は車内に閉じこめられたままだ。

「誰か、助けてくれーっ!」

「降ろして! 降ろしてーっ!」

 助けを求める声が聞こえたが、今のところはどうにもならない。アロは支柱ごと転輪にしがみついていて、これ以上回すことができないのだ。

 そして、アロのお尻から突き出している長い針──おそらく吸盤が変形したもの──の先端からは、薄黄色の粘液がボタボタとこぼれ落ちていた。

「うえっ、糞?」

 私は不快な気分になりながらも、粘液をズームで拡大した。

 何か粒状のものが太陽の光を受けて光っている──その正体に気づいて、背筋が凍りついた。

「糞じゃない。あれは……卵!」

 冗談じゃない。量からして何千、何万という数だ。あんなものが飛び散ったら……!

 私のスマホが震えた。高島先輩からだ。

「……もしもし、先輩?」

『青葉か。おまえのことだからどうせ球場にいるんだろう?』

「よくわかりましたね……って、何なんですか、あれ!」

『今から三十分ほど前、森の中から出現した。志村先生の話じゃ、生き残ったアロが共食いを繰り返して、あの大きさになったって話だ……それより青葉、状況を報告しろ』

「私はもう、民間人なんですが」

『ああ、そうだったそうだった──で、状況は?』

「……巨大なアロが一匹、観覧車に止まっています。まだ数十名の観客が車内にいます。早く来てください」

『今、向かっているところだ。場内の様子は?』

「グラウンドからは避難したみたいですが、何しろ二万人ぐらいいましたからね。周囲は大混雑です。観覧車のまわりも人だかりができてますね」

『それはまずいな。何とか追い払え』

「追い払えったって……どうやって?」

『おまえにまかせる』

 電話は切れた。私もキレそうになった。どいつもこいつも無茶言って!

 ──私はハンカチを出して鼻と口を覆うと、わざとらしく咳きこみながら言った。

「ううーっ! ゲホ、ゲホ! く、苦しい!」視線が私に集まる。「ガスだ! あの虫からガスが出てる! 早く逃げないと!」

 私が一目散に駆け出すと、他の人たちもあわてて走り出した。

「うわーっ!」

「に、逃げろーっ!」

 数分後、観覧車のまわりから人影が消えた。もちろん私はもとの場所で撮影を再開した。


 ようやく、先輩の部隊が到着した。二十名ほどの隊員と、志村先生も一緒だ。

「先輩! 志村先生!」

「青葉、どんな様子だ?」

「さっきから動きませんね……卵を産んでるみたいです」

「卵を? なぜ、こんなところで……」

「アロは寄生虫だ。宿主に卵を産みつけるのが目的だ」先生が言う。「アロには目も触角もない。動くものの音や振動を頼りに宿主を探す。おそらく観覧車を動物と判断したんだろう」

「それは好都合だ。今のうちに駆虫剤で処理してしまおう」

 先輩はそう言うと、観覧車に向かって声をかけた。

「みなさん、安心してください。あなたがたは全員助かります! だからしばらくの間、なるべく動かず、声も立てず、そいつを刺激しないでください!」

 駆虫剤散布用のヘリが近づいてくる。ヘリが観覧車の上空に差しかかろうとした時──アロは突然、四枚の翅を広げた。翅を震わせる音とともに、猛烈な風があたりを襲う。

 立っていられないほどの風圧だった。私たちはその場に倒れ、上空のヘリもバランスを崩した。

 何より最悪なことに、風圧で観覧車全体がグラグラ揺れ出した。いつ倒れてもおかしくない!

「ストップ、ストップ! 引き返せ!」先輩が無線で叫ぶ。

「学習したのか……ヘリの音がすると、駆虫剤が撒かれることを」先生の顔が青ざめていた。

「しかし、どうにかして奴を観覧車から離さないと!」

「考えられる手段はすべて試そう……ん?」

 先生の電話が鳴った。短い通話を交わしたあとで、先生は私たちに言った。

「江戸川さんからだ。シルヴィーが動き出したらしい……おそらく、ここに向かっている」

「シルヴィーが? どうして……」

「……彼女は本能的に知っているんだよ。自分がなぜ巨大化したのか──そして、その原因を彼女は許さないだろう」

「それじゃあ、アロを殺すために……!」

「大変だ!」先輩が叫ぶ。「シルヴィーが来るまでに何とかしないと、観覧車まで巻きこまれる!」

 先輩は無線を手にした。

「アルファより指揮所へ。シルヴィーの現在位置と移動速度の情報を求む。送れ」

『指揮所了解。現在確認中──シルヴィーは国道457を、時速約六〇キロで北上中。まもなく国道286へ入る。通信終わり』

 先輩はタブレットで地図を確認した。

「国道286からここまでおよそ四〇キロ……あと一時間もない」

「場内放送は?」私は言った。「アロは音に反応するんですよね? 場内アナウンスやサイレンを鳴らして、グラウンドに誘導するのは?」

「やってみよう」先輩がうなずいた。

 数名の隊員がグラウンドへ向かう。しばらくするとサイレンが鳴り、スピーカーから大音量で音楽が流された──〈東北イーグレッツ〉の応援歌だ!

 隊員の何人かが大声で歌い始めた。もちろん私もだ。

「『勝利はわれらにー、イー・グレーッ・ツーッ!』……ほら先輩も歌って!」

「俺は〈ファイヤーズ〉のファンだ。絶対に歌わん!」

「そんなこと言ってる場合ですか!」

 アロがもぞもぞと動き始めた──が、飛び立つ様子はない。

「ダメじゃないか!」先輩が私を睨みつける。

「そう言われても……」

「──見ろ!」

 先生が指さす先に──銀色の巨獣が姿を現した。


 球場の周囲はビル街だ。今は避難も完了し、閑散としている。

 私は道路に飛び出し、シルヴィーに向かって叫んだ。

「シルヴィー! 来ちゃダメッ!」

 しかし、シルヴィーは止まらない。私のいうことなど聞かないのだ。

 もしここに、レッドか浩子さんがいてくれたら──。

 そんな私とシルヴィーの間をさえぎるように、一台の軽自動車が急停車した。

「青葉さん!」

 運転していたのは浩子さんだ──助手席に置かれたキャリーには、レッドの姿もある!

 私は涙が出そうになった。

「浩子さん、シルヴィーを止められる? あの先の観覧車に、まだ人が大勢いるんです!」

 私が観覧車を指さすと、浩子さんはうなずいた。レッドと一緒に車から降りると、猛スピードで走ってくるシルヴィーの前に、臆することなく立ちふさがる。

「シルヴィー、止まって! まだ人が大勢いるの!」

「ワウッ!」

 浩子さんとレッドが同時に声を上げた。

 シルヴィーは人の言葉がわかったかのように──私にはそう見えた──立ち止まった。少し困惑したようにレッドと浩子さんを一瞥すると、それでも納得がいかないと言わんばかりに、観覧車を占拠しているアロに向かって吠えた。

「グルルル……キャウンッ!」

 ──アロが反応した。四枚の翅を広げ、体を震わせると観覧車から飛び立った。

 シルヴィーのところへ真っすぐ飛んでくる──アロは次の獲物を察知したのだ。

 観覧車が再び回り出した。まもなく乗客の救助も終わるだろう。

 私は心おきなく撮影を始めた。また取り上げられるかもしれないが──知ったことか!


 アロは空中で静止したかと思うと、腹を前に突き出し、針でシルヴィーに襲いかかった。

 体内に直接、卵を産みつけようというのだ。おぞましすぎて寒気がする。

 シルヴィーは二本脚で立ち上がり、前脚で針を払いのけた。アロはふわりと浮き上がると、再び針で彼女を狙う。その針も避けられた時、アロは攻撃を切り替えた。

 前脚の鎌を振り上げ、アロは上空から切りかかった。シルヴィーの右肩に一筋、赤い線が走る。彼女はバランスを崩し、近くのビルに寄りかかった。そこに再び鎌が襲いかかり、コンクリートの外壁を傷つけた。

 状況はシルヴィーに不利だった。アロを叩き落そうと何度も前脚を伸ばしたが、空中に逃れられてしまう。その度に鋭い鎌が彼女の体を引っかき、傷を増やしていった。

「シルヴィー……」

 あまりの光景に、浩子さんが思わず目を覆う。

 自衛隊の大型トラックが到着したのはその時だ。観覧車からの救助が終わったらしい。

 荷台から隊員たちがいっせいに飛び出し、無反動砲を構えた。

「待て! 撃つな、撃つな!」先輩と一緒に降りた先生が呼び止める。「アロの体内には卵が残っている。爆発して飛び散ったら大変だ!」

「それじゃあ、どうすれば……」

 先輩が歯がゆそうにアロを睨みつけると、先生は言った。

「消防車を一台、借りられんか。駆虫剤の水溶液をアロに浴びせるんだ」

「すぐ準備します!」

 先輩はそう言うと、無線を手にした。

「アルファより指揮所へ。至急現場に消防車の出動を要請する……』

 その間にも、アロの攻撃は続いていた。鋭い鎌の一振りをかわすと、シルヴィーは球場に向かって走り出した。

「シルヴィー、逃げて!」浩子さんの悲痛な叫びがした。「このままじゃ殺されちゃう!」

「いや、殺しはせん」先生は苦々しく言った。「寄生虫は宿主を殺さん。動けなくしてから、生かしたまま卵を産みつけるんだ……」

「……」

 浩子さんの顔から血の気が引いた。通信を終えた先輩が、先生に報告する。

「……消防車自体はすぐに出動できるんですが、水溶液の用意に三十分ほど時間がかかるそうです」

「なるべく急がせてくれ。私たちも球場へ行こう」

 先生と先輩がトラックに乗る。私も浩子さんの車に乗って球場へ急いだ。


 シルヴィーは、無人となった観覧車を盾にしてアロの攻撃に耐えていた。アロはシルヴィーを狙って回りこもうとするのだが、その度に反対側に逃げられてしまっていた。

 このまま消防車が到着するまで、逃げきってくれればいいのだが……。

 ついにアロは追いかけるのをやめた。観覧車にしがみついたまま翅を広げ、凄まじい勢いで羽ばたかせる。背後にあるものをすべて吹き飛ばすほどの突風が巻き起こった。

「危ない!」

 トラックも車もこれ以上近づけない。私たちは二百メートルほど手前で停車せざるを得なかった。

 観覧車は支柱から大きく揺れ始め──やがて、ギーッと音を立てて倒れた。球場の外壁を破壊し、転輪が客席に落下する。

「キャーンッ!」

 シルヴィーは大きく跳び、倒れてくる観覧車から逃れたが、つまづいてグラウンドに倒れこんだ。

 ようやく風がやみ、私たちは球場へたどり着いた。崩れていない入口を探し、グラウンドに急ぐ。そこで目にした光景は吐き気を催すおぞましさだった。

 ──仰向けに倒れたシルヴィーを、アロが六本の脚で組み敷いていた。粘液にまみれた針を突き出し、彼女の下腹部を狙っている。さすがにこんな姿をカメラに収める気になれない。

「キャウッ! キャウッ!」

 彼女はもがき、尻尾を振って抵抗したが、その度にアロの翅が羽ばたき、風圧で彼女を押さえつける。体力が尽きるのは時間の問題だ。

「もう見てられない……!」

 浩子さんが絶望したように、顔を押さえてうずくまる。

 その時、ようやく消防車が到着した。外壁ギリギリまで接近し、放水砲を上空に向けると、先輩は待ちきれない様子で号令をかけた。

「──放水、始めっ!」

 放物線を描いて水柱が吹き上がる。それは狙い違わずアロの背中に降りそそいだ。

 しかし──。

「どういうことだ……」

 アロに変化は見られなかった。降り注ぐ駆虫剤をものともせず、シルヴィーに針を突き立てようとしている。先輩が消防隊員の胸ぐらをつかんだ。

「どうなってる! ただの水じゃないのか!」

「そ、そんなはずは……」

「抵抗力を、身に着けたんだ……」放心したように、先生がつぶやいた。「もうアロに駆虫剤は効かない……」

「そんな……」

 先輩の顔が苦渋にゆがんだ。倒れた観覧車に駆け寄ると、ガンガンと音を立てて鉄骨を蹴とばした。

「畜生! アロ、こっちを向け! シルヴィーから離れろ!」

 他の隊員たちも次々と加わり、鉄骨を蹴り始める。私も加わろうと駆け寄った。

 客席から支柱が折れた観覧車の昇降台が見えた。そこには薄黄色の卵が、背丈ほどの山になっている。

 私の冴えない頭の中で、何かが形になり始めた──それがはっきりとした形となって、私は客席から飛び出した。

 向かったのは浩子さんの車だ。ダッシュボードの下を覗きこむと、首から下げたカメラが床にぶつかりそうになる。結構な値段のカメラだ。私はあわてて首から外した。

 そして目当てのものを見つけた──発炎筒だ。

 同じものを自衛隊のトラックからも拝借して、私は観覧車の昇降台に戻った。

 客席からは相変わらず鉄骨を蹴る音が響いている。私はアロの卵の隣に立ち、大声で歌った。

「『打てよ走れよー、投げよ守れよー、勝利はわれらにー、イー・グレーッ・ツーッ!』」

「青葉、気でも狂ったか!」

 先輩が客席からいぶかしそうに私を見たが、私は気にせず言った。

「アロ、聞こえてる……? 卵焼きをごちそうしてあげる!」

 私は二本の発炎筒に着火し、アロの卵に放りこんだ。

 油でも含んでいるように、卵は瞬時に燃え上がった。炎の中で卵がパチパチ音を立てて爆ぜていく。

 この場所はグラウンドからは見えない。だけどアロが音や振動を頼りに動くのなら──何より、卵を産むことがアロの最大の目的なら!

 私は大声で歌いながら待った。もどかしいばかりの時が過ぎていく。

 やがて、メキメキと鉄骨を踏む音が聞こえて、巨大なヒルの頭が外壁越しに現れた。

 これでアロをシルヴィーから引き離すことができた──その時、とっとと逃げればよかったのだ。計画がうまく行って、私は気が抜けたようにその場に立ちつくしていた。ふとわれに帰った時には、アロの巨大な鎌が私を狙っていた。

「うわあああっ?」


「クゥオーン!」

 咆哮とともに、シルヴィーはアロに跳びかかった。左の鎌にがっちりと喰らいつく。

 アロは巨大な翅を羽ばたかせた。座席が吹き飛ぶほどの風が起こり、シルヴィーをぶら下げたまま宙に浮いた。しかし、そのまま飛んでいくほどの力はないようだ。フラフラとグラウンドに落下する。

 私がグラウンドに駆けこんだ時、アロはシルヴィーから逃れようともがいていたが、自由なほうの鎌を振り上げると、自らの前脚を切り落とした。シルヴィーの牙から逃れたアロは、今度こそ飛び去ろうと翅を広げた。

 次の瞬間──シルヴィーの首が一閃し、横ぐわえにしていた鎌がアロの胸に深々と突き刺さった。

「シューッ!」

 空気が漏れるような音がアロから発せられ、翅は力を失ったように閉じた。シルヴィーが突き立てた鎌に力をこめ、胸から腹にかけて切り裂くと、茶色い体液がゴボゴボとこぼれ落ちた。

 すでにアロの生命は尽きかけていたが──シルヴィーは鎌を引き抜き、アロの首を真横に掻き切った。

 鎌を捨てたシルヴィーは、皮一枚でつながっていたアロの首を食いちぎると、吐き捨てるように放り投げる。首は空高く放物線を描き、スコアボードに当たって外野席へと落下した。


 ──アロは絶命した。

 今しがた目にした光景に、志村先生も、浩子さんも、高島先輩もあぜんとしている。

「キャウン! キャウン!」

 静まり返った球場に、レッドの鳴き声が響いた。浩子さんがキャリーから出してあげると、レッドは嬉しそうに駆け出していく。シルヴィーはグラウンドに伏せ、優しい瞳でレッドを見つめていた。

 ようやく球場に歓喜の輪が広がっていった。私も胸を撫でおろし、カメラを構えようとして──浩子さんの車に置いてきたことに気づいた。

 たぶん、あの場で泣いていたのは、私だけだったと思う。


 巨大なアロの死骸はその日のうちに、脚一本残らず焼却処分された。

 その件に関して研究者たちから不満の声が上がったが、衛生上の問題として突っぱねられた。先輩いわく、上層部から速やかに処分するよう厳命があったとのことだ。

 シルヴィーは川原子ダムに戻り、傷が癒えるまでのんびり過ごしていたが、ある新月の夜、レッドと一緒に姿を消した。日に日に増える見物人に嫌気が差し、森に帰ったのだろうというのが公式見解だ。

 ──というのは建前で、実際はひそかに建設された森奥の巣穴に、レッドと一緒に暮らしている。そのことを知っているのは、先生と浩子さん、一部の研究者と自衛官、それに私くらいだ。

 問題は餌代だった──何しろ一日に二トンもの生肉が必要なのだ。

 そこで、クラウドファンディングで資金を調達することになった。もちろん、シルヴィーのことを公にするわけにもいかないので、表向きは『シルヴィーの森を守ろう』という名目だ。


「──その贈呈品にされているのが、私が撮ったシルヴィーとイタチの映像ですか」

 東京に帰ってきた私は、電話で先輩に愚痴った。

『いいじゃないか。おまえの映像がシルヴィーのためになるんだ』

「まあ、いいですけど……ギャラくらいは出るんでしょうね」

『ん……? 何を言ってるんだ。とっくにおまえんとこのボスに払ったじゃねえか』

「……はああ?」

『クラファンの件も、おまえのボスからの提案だ。あの人はすげえな。あっという間に上層部を説得して、映像の権利から何から、みんな持ってっちまった。ギャラの話ならボスに相談してくれ』

 私は電話を切った。もう少しでスマホにビールをぶっかけるところだった。

 ──うちのボスが話を聞いてくれるわけないじゃないか!

 もうボスの仕事は受けるもんか──と一瞬考えたが、駆け出しカメラマンの私に仕事を回してくれるところなど、そうそうあるもんじゃない。

 私はふて腐れてテレビを見た。わが〈イーグレッツ〉は連敗を脱し、〈埼玉レパーズ〉に11―2の圧倒的勝利を収めつつあった。自力優勝はすでに消滅しているが、プレーオフの進出にはまだ期待が持てる。下剋上で優勝することも夢じゃない。

 私も仕事で、いつか下剋上を──。


 電話が鳴った。番号を見て気が重くなる。

「もしもし、青葉です」

『青葉さん、仕事よ』

 ウンともスンとも言わないうちに、〈株式会社アニマリズム〉の女ボスは、居酒屋でビールを頼むかのような気軽さで言った。

『埼玉でニホンオオカミを見かけたって話があってね──』

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