【キツネ対寄生虫】仙台巨獣大戦

さいとうばん

【キツネ対寄生虫】仙台巨獣大戦①

 レッドとシルヴィーが、いつ出会ったのかは誰も知らない。

 〈宮城キツネパーク〉のフェンス越しに寄り添う二匹が写真に収められたのは半年ほど前のことだ。

 パークは宮城県白石市にある、百匹近いキツネが放し飼いされている珍しい施設だ。中でも燃えるような赤毛の雄ギツネ、レッドはパークの人気者だった。

 ある日レッドの姿が見当たらず、スタッフが探したところ二匹を偶然撮影したのだ。

 相手のシルヴィーは野生の、雌のギンギツネで、輝くような銀の毛並みからその愛称がつけられた。

 フェンスで隔てられた美しい二匹のキツネは、すぐにネットの話題になった。

 誰もが二匹をカメラに収めようと試みたが、警戒心の強いシルヴィーは、カメラを向けた途端に逃げ出してしまうのだ。

 いずれにせよ、実らない恋だった。野生のシルヴィーには寄生虫がいる可能性があり、衛生上パークには絶対に入れることができないのだった。


「まるでロミオとジュリエットね」

 ボスは二匹の写真を見つめた。そしてコンビニに買物を頼むかのような気軽さで私に言った。

「動画が欲しいわ。青葉さん、行ってくれる?」

 この妙齢の、高級スーツを着た、イタリアンチェアーに身を沈めている、動物撮影プロダクション〈株式会社アニマリズム〉の女ボスは、私が断れないのを知っているのだ。

 私はしがないフリーの映像カメラマンで、仕事を断ろうものなら次から仕事が回ってこないことを重々承知していた。それに駆け出しのカメラマンとして、話題になる画を撮りたい野心もある。

 私はポンコツの4WDに荷物を積んで、その日のうちに東京から宮城県に向かった。安ホテルに一泊し、翌日早朝から〈宮城キツネパーク〉に取材を申しこんだ。


「青葉くるみさん、ですね」

 対応してくれたスタッフは、黄色いジャンパーを着た、ニ十歳そこそこの女性だった。

「江戸川浩子です。よろしくお願いしますね」

 浩子さんに案内されて、レッドとシルヴィーが撮影されたという場所に向かう。

 パークは森の一画をフェンスで囲っただけの、ほぼ自然そのままの状態だった。そこで黄色や銀色のキツネたちが駆けまわったり、じゃれあったり、丸くなって眠っていたりと思い思いに過ごしている。

 キツネたちは珍しそうに私を見上げたが、すぐに興味を失ってスヤスヤと眠り始める。ここの主役はキツネたちで、人間はその間を歩かせてもらっているに過ぎない。

「撮影は自由ですが、商業目的で使用する場合はパークの認可を取ってください。それからカメラは出しっぱなしにせず、撮影が終わったらすぐにしまってください。でないとキツネに奪われます」

「じゃあ、パークにカメラをセットするのは……」

「論外ですね」

 どうやらパーク内でシルヴィーを待つのは無理なようだ。

 案内された場所はパークの裏側だった。フェンスの向こう側には数歩先も見通せない森が広がっている。シルヴィーはその奥に住んでいるのだ。

 私はポケットからデジカメを出して、動画モードで撮影を始めた。

「キャウキャウキャウ!」

「クウーンクウーン!」

 たちまち数匹のキツネが群がってきた。私の太ももをよじ登り、カメラに噛みつこうとする。

 撮影はあきらめるしかなかった。私はカメラをポケットにしまい、浩子さんと一緒に引き返した。

「レッドとシルヴィーが目撃されたのは、何時ぐらいですか?」私は聞いた。

「確か、パークが閉まったあと……夕方六時ごろですかね」

「レッドに合うことは?」

「呼んだりしても来ないので……エサやり場には来るかもしれないですね」

 エサやり場は来場者が直接、キツネにエサを与える場所だった。売店で専用のエサを購入し、フェンスで囲われた場所に入ると同時に、キツネたちがわれ先にと駆け寄ってくる。

 なけなしのお金で買った数袋のエサをバラ撒いたとき、遠くにひときわ目立つ、真っ赤な毛並みのキツネの姿が見えた。

「あれが、レッドです」浩子さんが指さした。

 レッドは写真よりもハンサムに見えた。キリッとした目鼻立ちにスマートな体。レッドは遠巻きにこっちを見ていたが、やがてひとかけらのエサを咥えると、その場から立ち去った。

「……本当は、レッドを彼女に合わせたくないんです」浩子さんが言う。「パークのキツネは定期的に寄生虫の検査をしていますし、栄養状態にも気を使っています。寿命は八年から十年ほどあります」

「シルヴィーみたいな野生のキツネは?」

「三年程度といわれています。病気やケガがありますから……先にいなくなるのは彼女のほうです。そのときレッドがどれだけ悲しむか……」

「……」

 早くも気持ちが揺らぎ始めた。こんな話を聞かされて、レッドとシルヴィーを撮影しろというのか?

 それでもこれが私の仕事なのだった。


 浩子さんにお礼を言って、昼過ぎにパークをあとにした。

 車を走らせ、パーク裏手の道に停める。オレンジ色のベストにバッテリーを突っこみ、体中に虫よけスプレーを吹きつけて、胸のストラップにハンズフリーで撮影できるアクティブカメラを固定する。ミラーレス一眼を首にかけ、最後にトレイルカメラが入ったバッグを手にして、森に足を踏み入れた。

 藪をかき分けて進むこと十数分、昼間に案内されたフェンスの裏側に出た。トレイルカメラを出し、適当な木の幹にストラップで固定する。間隔を開けて合計三台のカメラを設置した。

 これで二十四時間、動物が通るたびに自動で撮影が開始され、スマホでも確認できる。電池も一ヶ月は交換不要だ。文明の進歩に感謝するほかないが、こんなことで仕事が終わるなら、動物カメラマンという仕事など存在しない。

 私はさらに奥まで進むことにした。シルヴィーがこのあたりに出没するのなら、近くに巣穴があるかもしれない。アクティブカメラをオンにし、よけいな音を立てないよう慎重に歩いていく。

 一時間ほど散策し、そろそろ戻ろうかと思ったそのとき、藪から飛び出してきたものがあった。

「……!」

 ギンギツネだ。全身は鮮やかな銀の体毛に覆われ、耳と顔、そしてフサフサとした尻尾は黒い。ギンギツネはパークにも多くいるが、これほど銀と黒のコントラストが美しい個体はいない。

 ──間違いない。シルヴィーだ。その口には、三十センチはあろうかというネズミが咥えられている。

 ほんのニ、三秒だっただろう。シルヴィーは私の姿を認めると、あっという間に藪の奥へ消えた。

 胸のアクティブカメラに納まっていることを祈りながら車に戻り、映像を確認した。

 シルヴィーの姿はしっかり納められていた。幸先のよさに感謝すると同時に、しくじったという思いがよぎる。これでシルヴィーに警戒されてしまった。しばらくはパークに寄りつかないかもしれない。

 考えても始まらない。私はホテルに戻り、ゲン担ぎにキツネうどんで夕食を済ませる。あとはビールを飲みながら野球中継でも見ることにした。わが愛する〈東北イーグレッツ〉は目下二連敗中だった。


 シルヴィ―の警戒を解くため翌日から森には入らず、することもないので仙台まで出かけた。

 場所は〈イーグレッツ〉の本拠地、〈ボールパーク仙台〉だ。

 〈ボールパーク仙台〉は遊園地を併設した複合型球場で、大型の観覧車がひときわ目を引く。観覧車から眺める球場は絶景だったが、肝心の試合は三連敗を喫し、私の心は暗くなった。

 何の進展もないまま無意味な数日が過ぎ、〈イーグレッツ〉がまさかの六連敗を数えたころ、ようやく動きがあった。しかしそれは、私が思っていたようなものではなかった。

 ある朝、いつものように七時ごろ目を覚まして、スマホで映像を確認すると、パークのフェンスにブルーシートがかけられていた。昨夜まではこんなものは無かったはずだ。

 ──何があった?

 私はすぐに深夜の映像を確認した。

 問題の映像は深夜二時を過ぎたあたりのものだった。そこには人間の子供ぐらいの大きさの動物が、フェンスに噛みつくような動作をしているのが映っていた。

 シルヴィーでないことは確かだ。大きさからして考えられるのはクマか──と思ったとき、その動物は長い尻尾を跳ね上げた。毛が無く、体の半分ほども長さがある。

 こんな尻尾のクマはいない。いるとすれば──と考えたが、そんなバカなと首を振る。

 ありえない。これが私の知っている動物ならば、この大きさはありえない。

 その動物はフェンスにこじ開けた穴から、パークの中に潜りこんでいった。

 次に映像が映ったのは、そいつが穴から出てきたときだった。今度は顔がはっきりと映っていた。

 カメラに反応して光る目。小さな耳。そして長く突き出した前歯。

「ネズミ……?」

 私はしばし呆然とした。こんな巨大なネズミがいるものか!

 どうにか気を取り直して、急いで着替えを済ませると、車でパークへ向かった。


 パークの正門には、手書きで『臨時休園』のサインがかけられていた。

 渋るスタッフを強引に拝み倒して、浩子さんを呼んでもらう。黄色いジャンパーを着た彼女は、困惑したように言った。

「青葉さん……? 申し訳ありませんが、今日は、ちょっと……」

「どうしても、見てもらいたい映像があるんです!」

 事務室に案内してもらい、数名のスタッフと一緒に例の映像を見てもらう。スタッフの一人は、泣きはらしたように腫れぼったい目をしていた。

「……」

 映像を見終えたスタッフたちも、私と同様にしばらく言葉を失っていたが、やがて浩子さんが噛みしめるように一言もらした。

「こいつの……仕業なんですね」

「何か、あったんですか」

「……こっちへ」

 浩子さんのあとについて、パークの奥へと進んでいく。心なしかその足取りは重かった。

 やがて数名のスタッフが集まる場所へとたどり着いた。

 すすり泣く声。鼻をすする音。うつむいたスタッフの肩に手を回すもの──異様な雰囲気だ。

 その足元に転がっているものを見て、私は心臓を握りつぶされた気分になった。

「──!」

 バラバラに引き裂かれ、骨が露出した二匹のキツネの死骸。

 食い荒らされた肉片と内蔵があちこちに飛び散っている。死臭が漂い、胸がむかついた。

 こんなときに映像を撮れるのがプロのカメラマンなのだろうが、私はとてもそんな気になれなかった。

「……他に被害は?」それだけ聞くのがやっとだった。

「今のところは……ただ、キツネたちがみんな隠れてしまって、正確にはつかめていません」

「レッドは、無事ですか?」

「それも、まだ……」浩子さんはしばらく考えていたが、急に思い出したように言った。「映像の続きは見られますか? あの穴から逃げた子がいるかもしれません!」

 どうして私はすぐそれに気がつかなかったのか。すぐにスマホの映像を確認する。

 あのお化けネズミが出て行ったあと──午前四時ごろの映像に、フェンスの穴から飛び出していくキツネの姿が映っていた。

「──レッド!」

 叫びたい気持ちを抑えるように、浩子さんは口を覆った。しかしすぐに、気を取り直して言った。

「とにかく、警察を呼びましょう」


「──これは、事件にはなりませんねえ」

 やってきた警官は、映像を見るなり言った。

「ええっ?」浩子さんは呆気にとられた。「金網を食い破るようなネズミが、森の中にいるんですよ!」

「しかしねえ。人間のしたことではないし、警察の出番ではないですよ……まあ、害獣駆除なら市役所に相談するといいと思いますよ」

「そんな……」

「申し訳ない、お力になれず。署には報告しときますんで」

 警官は引き上げていった。あとにはただ、途方に暮れたスタッフたちが残された。

 その間、私は映像をボスに送り、電話で指示を仰ぐことにした。

『──そうね。とりあえずはこのネズミを追いかけてくれる?』

 言うと思った。言われなくてもこのまま東京に帰るつもりはない。

『それともちろん、レッドとシルヴィーの行方も追ってね』

 鬼かよ。

「それじゃあ、誰か一人増援を──」

 言いかけた途端、電話が切られた。もう少しでスマホを床に叩きつけるところだった。


 やがてスタッフたちも動き出した。市役所に向かうもの、いつもどおりキツネのエサを準備するもの──しかし、もっともやりきれないのは、殺されたキツネを処理するスタッフだろう。丁寧に死骸を拾い集め、ダンボールに収めている。動物専門の火葬業者に依頼をするそうだ。

 そこに一人、気になる人物がいた。白髪頭で白衣を着た、初老の男性だ。

「あの……」

 声をかけると男性は振り向いた。見知らぬ私に戸惑ったようだったが、すぐに「ああ!」とうなずくと立ち上がった。

「君かあ。ネズミの映像を撮ったカメラマンというのは。私のほうから会いにいくつもりだった。まだ映像を見せてもらっていないのでね」

「あなたは?」

「志村だ。ここの委託で獣医をしているが、話を聞いて飛んできた。早速だが、例の映像を見せてもらえるかな」

「はい、構いませんが……それは?」

 先生が手にしているポリ袋には、何か黒い塊が入っている。先生は興奮したように言った。

「ネズミの糞だ。こんなデカイやつは見たことがない!」


「……」

 例の映像を見終えた先生は、しばらく何かを考えていたようだったが、やがて口を開いた。

「ノネズミじゃない。ドブネズミだ。森より水源の近くにいるはずだが、いったいどこから……そうか、すぐ近くにダムがあったな」

「このままでは今夜あたり、またネズミが襲ってくるかもしれません」浩子さんが不安そうに言う。

「それについては、罠を仕掛けようと思っている。夜までには用意しておこう」

 志村先生はその日の夕方に、トラックで罠を運んできた。シカでも捕れそうな大型の箱罠だ。

 動物学者でもある先生は捕獲用に狩猟免許を持っている。もっともドブネズミなら捕獲に免許は不要だが……。

 フェンスに空いた穴の内側に罠を仕掛け、中に鶏肉を置く。他のスタッフが帰ったあと、私と浩子さん、そして先生の三人で交代しながら、スマホでトレイルカメラの映像を監視した。

 動きがあったのは深夜二時ごろだった。ソファーで仮眠していた私は、浩子さんに起こされた。

「青葉さん、来ました!」

 私と先生も一緒になって、スマホの映像に目を凝らす。

 フェンスの穴のあたりに動く影があった。罠に首を突っこんで、鶏肉の匂いを嗅いでいるようだ。奥まで進んで肉を咥えると同時に、扉が閉まる仕組みだ。

 私たちは固唾を飲んで見守った──が、ネズミはそれ以上前進することはなく、首を引っこめると、フェンス沿いに移動を始めた。

「気づかれた?」

「まずいな。他から侵入するかもしれん」

 私は用意しておいた野球のバットに手を伸ばして立ち上がった。

「追い払いましょう。浩子さん、パークの電気を!」

 私と先生が事務室を出ると同時に、パークの照明が灯った。

「キャウン! キャウン!」

 異変を感じ取ったキツネたちが、吠えながらいっせいに身を隠す。

「どこだ……どこに行った?」

 私は走り回ってネズミの姿を探したが、フェンス付近は照明の当たらない場所も多い。片手にバットを握ったまま、もう一方で暗闇に向けてフラッシュライトのスイッチを入れた。

「ギギーッ!」

 突如として、フェンスの向こうにいる巨大なネズミと目が合った。

「うわーッ!」

 間近に見ると本気で気味が悪い。思わず叫びながらバットを振る。フェンスが音を立てて揺れた。

 ネズミは一歩退くと、再びフェンス沿いに逃走する。私はまたも走り回るハメになった。

 モグラ叩きのような追跡を三度ほど繰り返したあと、ようやくネズミは森へ消えていった。

「こんなことを毎晩繰り返していたら、身がもたないな……」

 私を追いかけてきた先生が、息を切らせて言った。先生の歳を考えれば無理もない。

「やはり市役所に相談して、猟友会に頼んでみては……」

 合流した浩子さんも言う。その意見に反対する理由はなかった。


 事務室で夜明けまでひと眠りしたあと、浩子さんは市役所に、志村先生はご自身の病院に戻った。

 私もホテルに戻り、午後になってからパークで落ち合ったとき、浩子さんはしょんぼりした顔だった。

「ネズミの駆除に、猟友会は紹介できないそうです……」

「そんな! あの映像も見せたんでしょう?」

「『判断できない』って言われました……」

「まあ、しかたない。猟友会も相手がネズミでは動かないだろう」

 志村先生は予想していたのか、さほど驚いてはいない。私は先生が手にしている、大型のボストンバッグが気になった。

「その荷物は?」

「くくり罠だよ。今度は森に入って、ネズミが通るルートに仕掛けるつもりだ」

「ご一緒します」私は言った。

「私も行きます!」浩子さんも口をそろえる。

「それじゃあ、これを渡しておこう」

 先生は小型の消火器のようなものを机に置いた。クマの顔が印刷されている。

「クマよけスプレー……?」

「ネズミにも効果はあるだろう。もちろんあくまで最終手段だ。なるべく接触は避けたい」

 私たち三人は車でパークの裏手に行き、森に入った。私にはわからなかったが、先生にはネズミが通った獣道がわかるようだ。一キロほど進んだところで、先生が足を止めてかがみこんだ。

「あったぞ。奴の糞だ」

 以前パークの中でも見かけた、黒い塊が確かにある。

 先生はその場所にシャベルで穴を掘り、くくり罠を埋めると、近くの木にワイヤーを固定した。ネズミが罠を踏めば、足を挟まれてワイヤーで逆さ吊りになる仕組みだ。一カ所だけでは効果が薄いので、もう何カ所か仕掛ける必要がある。

 さらに獣道をたどって、しばらく進んだころ──。

「……うっ?」

 私たちはそろって鼻を覆った。異様な悪臭がする。わずか数メートル先の、不自然に開けた場所からその臭いは漂ってきていた。

 そろそろと前に進むと、蝿の群れがブワッといっせいに飛び立った。

 ──そこは墓場だった。

 腐臭を放つ肉に蛆がたかり、白骨化した動物の骨が散らばっている。灌木が齧り削られ、周囲をバリケードのように囲んでいた。

「奴の巣か……」

 先生は顔をしかめながらも、近辺に罠を仕掛けようと手頃な木を探している。

 突然、右手の藪がガサガサと激しく揺れた。二匹の動物が争うような声が聞こえる。

「キャウッ!」

「ギギッ!」

 声はだんだん近づいてきていた。私はクマよけスプレーに手をかけて先生に聞いた。

「何か来ます……どうします?」

「ひとまず下がろう」

 私たちが引き返そうとしたときに、二匹が目の前に飛び出してきた。

 そのうちの一匹が誰なのか、真っ先に気がついたのは浩子さんだった。

「──レッド!」

 何てことだ。パークを逃げ出したレッドが、あちこち傷だらけになって必死に争っている。

 相手はまぎれもなく、あのお化けネズミだ。前歯から血を滴らせ、レッドに噛みつこうとしていた。

「このッ!」

 考えるより先に私は動いた。分厚いブーツの爪先でネズミの鼻っ面を蹴る。

「ギィーッ!」

 ネズミはすぐさま私に飛びかかってきた。噛みつかれる寸前でどうにか相手を蹴り飛ばす。腰からスプレーを抜いたが、あわてて取り落してしまった。

「青葉さん、ふせて!」

 浩子さんの声で地面にふせた。同時に浩子さんはスプレーを拾うと、安全装置を外してレバーを握る。

 勢いよく噴射された煙がネズミの顔面に直撃した。

「ギャアアアッ!」

 トウガラシの数十倍ものカプサイシンを濃縮したスプレーで、直接当たっていない私の鼻にも強い刺激が襲ってくる。ネズミもさすがに耐えられなかったらしく、驚くほどの速さで逃げ去っていった。

「レッドは? 無事ですか!」浩子さんが駆け寄ってくる。

 先生は傷ついたレッドを診ていた。噛まれた傷は深く、先生の手が真っ赤な血に染まる。

「まだ息はある。すぐに病院で手当をしないと……」

 レッドを抱きかかえた先生を先頭に、私たちはもと来た道を引き返した。

 数メートルも戻らないうちに、左右から何かが近づいてくる気配がした。

「あいつ、もう戻ってきたのか!」

「いや……」先生が顔を曇らせる。「あいつじゃない。他にも何匹かいる!」

「ええっ?」

 先生の言葉どおり、二匹のお化けネズミが姿をあらわした。一匹でも手に負えないのに!

 浩子さんが前方の一匹にスプレーを噴射すると、そいつは飛び跳ねるようにして逃げていった。

 これでスプレーは使い切ってしまった──あとは逃げるしかない。私たちは全力で駆け出した。

 もう一匹は警戒していたようだったが、私たちに攻撃手段がないと見たのか、猛然と追いかけてきた。

 どれだけ走ったところで、人間の脚でネズミにかなうわけがない。あっという間に背後に迫られる。

「うわーッ!」私は恥も外聞もなく叫んだ。

「ギギーッ!」

 次の瞬間、ネズミの体が宙高く跳ね上がった。仕掛けたくくり罠を踏んだのだ。逆さ吊りになったネズミがジタバタと暴れまわっているうちに、私たちはどうにか森を出ることができた。

「早く車に!」

 先生とレッドを後ろに、浩子さんを助手席に乗せた途端に、森からいくつもの影が飛び出してきた。一、二、三……五匹いる! あのお化けネズミどもが!

私は車のキーを回した──が、エンジンはくすぶるような音を立てるだけだった。

「ええいっ! このポンコツが!」

 あわててもう一度キーを回したが、その間に車はネズミに取り囲まれていた。

「きゃあっ!」

 浩子さんの声に振り向くと、助手席の窓からネズミが私たちを覗いていた。唾液にまみれた前歯がガラスに突き立てられ、ヒビを走らせる。

 そのとき──車が巨大な影に覆われた。

 次の瞬間、ネズミは何かに弾き飛ばされ、数メートル先の地面に転がった。

「……?」

 私たちは窓の外を見上げた。そして、言葉を失った。

 森から姿を現したのは、ネズミよりはるかに巨大な──十数メートルはある──一頭の獣だった。

 それは私たちにも見覚えがある、黒い顔と美しい銀の毛を持っていた。

 浩子さんが驚きの声を上げた。

「嘘……シルヴィー?」


 巨大なギンギツネの出現に、ネズミたちは色めき立った。

 シルヴィーは私たちの車をちらりと見ると、まるで追い払うかのように尻尾を振った。

「逃げろ……って言ってるの?」浩子さんが言う。

「とにかく病院に行かないと。町に私の病院がある」

 ようやく私のポンコツが動き出した。アクセルを踏み、アスファルトを焦がして急発進する。

 バックミラーには、逃げまどうネズミを次々と踏み潰し、口に咥えるシルヴィーの姿が見えた。

「先生、あれは一体……」私は我慢できずに聞いたが、先生は首を振った。

「そのことはあとで話そうと思う。まずはレッドの手術が先だ」


 先生の動物病院は白石駅から少し離れた場所にあった。

 三階建ての大型病院で、町医者のようなものを想像していた私は面食らった──あとで知ったことだが、大学の研究室も兼ねているそうだ。

 レッドは待っていた担架に乗せられ、手術室へと運ばれていった。私たちも一緒に院内に入ろうとしたところ、先生に止められた。 

「君たちはまだ入らないでくれ。森の中を移動してきたんだ。細菌や寄生虫が付着しているかもしれない──体を洗って、服も着替えてからもう一度来てくれ」

 そういう先生も全身泥だらけ、葉っぱだらけだ。これから別室で体を洗ってから手術だという。

 浩子さんを車に乗せ、ひとまず私のホテルに戻った。着ていた服と下着をまとめて洗濯機に放りこみ、シャワーで全身をくまなく洗う。服が乾くのを待ち、浩子さんがシャワーを浴びている間に、車のほうも手早く清掃する。ようやく出発の準備が整ったころには、陽はすっかり落ちていた。

 病院に着いたとき、すでに手術は終わっていた。受付に案内された先生の部屋へと向かう。

 先生は疲れた様子で椅子に深々と腰かけていた。

「先生……レッドは?」開口一番、浩子さんが聞く。

「手術のほうは問題なく終わったよ。あとはレッドの体力が持つか……」

「会わせてもらえませんか?」

 私が言うと、先生は二階の病室に案内してくれた。

 いくつかのケージで犬や猫たちが鳴いたり、走り回ったりしている。レッドは他から隔離されたケージで、全身に包帯を巻かれた姿で横たわっていた。

「眠っているだけだよ」心配そうな浩子さんに、先生が声をかける。

「今晩、泊めさせていただけませんか」

 浩子さんの言葉に先生はうなずくと、おもむろに私たちに言った。

「二人に見てもらいたいものがあるんだ」


 私たちは三階の部屋に通された。

 そこは研究室のようだった。白衣を着た数人が作業に没頭し、ケージでは何匹かのマウスが走り回っていた。ガラスで隔離された部屋では、一匹の動物が作業台に横たわっていた。

 その大きさからウサギか、あるいは猫かと思ったが、近づいた私は目を疑った。

「……!」

 それは実験用の白いマウスだった。体長数十センチはある。

「あのお化けネズミの糞から、見たこともない寄生虫が見つかった」先生が言う。「腹の中に多数の卵があった。卵をマウスに投与したところ、わずか一晩でその大きさに成長した。危険なのでやむを得ず処分したが……」

 先生がガラス瓶をテーブルの上に置く。中を見て私も浩子さんも顔をしかめた。

 ──体長四センチほどもある寄生虫の標本だ。

 頭部と肛門部に吸盤があり、目も触角もないところは典型的な吸虫だが、その胴体は──昆虫のような外殻と、短い六本の脚を持っている。一目で生理的な嫌悪を催した。

「こんな大きな虫が、あのお化けネズミの中にいたんですか?」私は聞いた。

「それは成虫だが、卵は二、三ミリほどだ。宿主の動物を食べるか、卵を持つ成虫を口にするか……何らかの方法で宿主の体内に入った卵は胃を通り抜け、腸内で孵化し、吸着する。おそらくは宿主から栄養を吸収すると同時に、ある種の成長ホルモンを分泌しているのだと思う──自身の成長にあわせて宿主を大型化させるんだ。ある程度の大きさに成長したところで、糞と一緒に体外に出る」

「じゃあ、あのネズミや、シルヴィーにも?」

 先生はうなずいた。にわかに信じがたい話だったが、あの巨大なシルヴィーの姿を見たあとでは否定のしようがない。

 私は特ダネをつかんだことにひそかに興奮していたが、同時にあることに気づいて背筋が凍った。

「……待ってください。ネズミや昆虫を食べる動物は珍しくないでしょう。他にもシルヴィーみたいに巨大化した野生動物が?」

「可能性はある」

「そんな……あのネズミだけでも手に負えないのに!」

 浩子さんが不安そうに口を覆うと、先生は続けた。

「幸い、この寄生虫自体はプラジカンテル──駆虫剤にほとんど抵抗力がない。森に駆虫剤を散布すればこれ以上の拡散は防げる。ただし、すでに寄生された動物は早急に駆除しないといけないが……」

「それって……シルヴィーを殺すってことですか」

「……」

 浩子さんの言葉に、先生は力なくうなずいた。

「何を言ってるんですか! シルヴィーは私たちを助けてくれたんですよ? 先生も見たじゃないですか! それを……」

「私だって殺したくはない。しかしあの大きさだ。どれだけ食べるかわからない。放置しておいたら森の生態系は崩れてしまう。食物がなくなれば、人里で家畜も襲われるかもしれない……」

「それですよ、先生!」私は言った。「シルヴィーを殺してはダメです。彼女はあのネズミを餌にしているんです。彼女がいればあのお化けネズミを駆除できますよ!」

「彼女がそう都合よく、ネズミだけを獲ってくれるかどうか……」

 先生がそこまで言ったとき、にわかに階下が騒がしくなった。

 ──二階の病室で、動物たちが騒ぎ出したのだ。私たちは先生と一緒に、二階へ駆け下りた。

 ケージでは動物たちが窓に向かって吠えたり、唸ったり、怯えたように身を丸めたりしている。

「いったい何が……」

「見て!」

 浩子さんが窓の外を指さす。月明かりの下で、巨大な影がゆっくりと近づいてくるのが見えた。

「──シルヴィー!」


 シルヴィーはもはや動物とは呼べなかった。

 二本脚で立ち、背筋を伸ばし、前脚を振りながら歩く姿は、神話の巨人さながらだ。

 彼女は私たちのいる二階の窓を、金色の瞳で覗きこんだ。次の瞬間、窓ガラスを砕いた巨大な前脚が部屋へと伸びてくる。職員たちは言葉を失い、パニックに陥った動物たちはケージの中を駆け回った。

 ただ一匹──レッドを除いては。

 レッドはおぼつかない体でヨロヨロと立ち上がると、シルヴィーを見つめた。

 そして一声、「キャウッ!」と吠えた。

 ケージに伸びていたシルヴィーの手が止まる。その瞳には動揺の色が浮かんでいた。

「レッドが心配だったのね……」浩子さんが諭すように言った。「だけどシルヴィー、あなたはここにいちゃダメなの。レッドは心配ないわ。だから森に帰って。ここにいたらレッドも動物たちも怖がる。人に見られたらどんな目に合うかもわからないのよ。だから帰って。頭のいいあなたならわかるでしょ、ね?」

 シルヴィーはレッドを見た。レッドは何も言わなかった。シルヴィーの手がゆっくりとケージから離れていく。彼女は最後に一度振り返ってから、森に向かって駆け出していった。

 冷や汗がどっと流れ出た。私は大きく息をついてから言った。

「先生……これから、どうするんですか?」

「ふむ……まずは警察と、可能なら自衛隊にも協力を要請したい。森一帯を封鎖して駆虫剤を散布する。そのうえで巨大化した動物がいれば捕獲して、危険と判断すれば駆除する──もちろん、シルヴィーには手を出させない」

 先生は浩子さんに向かって、軽くうなずいた。

「寄生虫のことは公表してもいいですか?」

「明日まで待ってくれ。明日、正式に発表するつもりだ」


 病院に泊まる浩子さんと別れてから、私はホテルに戻ってボスに連絡した。

 すでに夜の十時近かったが、ボスは電話に出た。一連の顛末を報告している間、電話の向こうからは小粋なジャズが流れていた。どこかで飲んでいるのだろう、いい気なもんだ。

『わかったわ。明日の朝までに、今までの映像を十分程度に編集して送って。正式な発表と同時に公開するわ。字幕用の原稿もお願いね』

「了解です」原稿もかよ。

『それと、森が封鎖されたらメディアは入れないでしょうけど……』

「でしょうね。私も東京に帰ります」

『何とか潜りこんで』

「へっ? そんなことを言われても──」

 言いかけた途端、電話が切られた。もう少しでスマホを真っ二つにするところだった。

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