秘密の場所

はろ

秘密の場所

『私たちの、秘密の場所で待っています』


 そんなメッセージを残して、彼女は消えた。今住んでいるマンションがもうすぐ更新時期なので、彼女との同棲を前提に一回り広い2LDKに賃貸契約をした週末のことだった。

 昨晩から何となく様子がおかしいなと思ってはいたが、今朝目が覚めたら、化粧道具とか下着とか細々と俺の部屋に持ち込んでいたものと一緒に、綺麗さっぱりいなくなっていたのだ。

 何が原因かは皆目見当がつかないが、怒っているのだろうという気はする。女の子はなんで、みんな何の前触れもなく唐突に怒り始めるのだろう。以前、姉ちゃんにこの問題について話を振ったら『それは何もかもお前が悪い』と言われた。

 悪いなら悪いで――俺だって悪いところを直そうという気が無いわけでもないので――はっきり口に出してどこが悪いのかちゃんと言ってほしいと思う。出来れば、溜め込まないで、小分けにして。


 そのようなわけで、俺は今、おそらく可及的速やかに『秘密の場所』に行かなければならない状況にある。彼女はそこで俺のことを待っており、つまり俺がそこに現れなければ、多分俺たちの関係は今日で終わるのだろう。

 それは嫌だ。彼女のことは好きだし、彼女は簡単に別れるのは惜しいと思うほどにいい女だからだ。美人で、スタイルが良くて、簡単なことですぐ笑って、細かいことによく気がつく。俺なんかにはもったいないと心の底から思えるくらい、素晴らしい人だ。それに、現実的な話をすれば――一人で暮らすには家賃的にも面積的にも相応しくない部屋を、借りてしまったばかりだし。

 だから俺は今すぐ『秘密の場所』に行かなければいけない……のだが。


「いや、どこだよ。全然分からん」


 街中をあちこち駆けずり回ったあと、俺は呆然と呟いた。

 彼女と付き合い始めてからもうすぐ半年になるし、その間俺たちは一緒にいろんなところに行った。インスタでバズってためちゃくちゃ並ぶカフェとか、インスタでバズってためちゃくちゃ混んでるバーとか、インスタでバズってためちゃくちゃ入園料の高いテーマパークとか……。

 彼女のようにいつでも完璧に身綺麗にしているタイプの女性とこれまで付き合ったことがなかったから、俺は一緒にどのような場所に行くべきなのかわからなくて、常にSNSにその判断を委ねていた。正直俺にはその良さがさっぱりわからない場所も多かったが、彼女はいつも『あ、ここ、インスタで見たかもー』と嬉しそうにしていたし、あながち間違ってはいなかったと信じている。

 つまり俺と彼女にとっての『秘密の場所』となると、それはそれらのインスタ物件のうちどれかではないかと思うのだ。デート中、俺の意識は隣の彼女の顔と胸にばっかり集中していたが、おそらく彼女の方は個々の場所にちゃんと感じるところや思うところがあって、そのどれかを『私たちの秘密の場所』にしたのではないかと思う。あるいは、デートの最中に、二人の間でそれっぽい会話が交わされていた可能性もある――残念ながら、俺のほうにその記憶はさっぱりないのだが。多分、俺のこういうところがだめなのだろう。

 こんな俺と、彼女がなぜ付き合うことになったかと言えば、驚くべきことに彼女の方から声をかけられたことがきっかけだった。出会いの場は、奥歯の虫歯の治療のため通っていた駅前の歯医者。彼女はそこで歯科衛生士として働いており、三ヶ月ほどの通院が終了するという日に、俺は彼女に食事に誘われたのだ。見るたびに綺麗な人だなと思っていたから、その時は驚嘆して歓喜すると同時に、もしや美人局かなんかなんじゃないかと疑った。そして幸い、やがてそうではないことがわかった。

 俺は、朝から彼女と行った場所を一つ一つ巡った。夜営業の店には入ることは出来なかったが、相変わらず馬鹿みたいに並んでいるカフェの行列までいちいちチェックして、必死に彼女を探した。しかし、彼女はどこにもいなかった。

 古びた店の塗装の剥げたU字型カウンターに座り、セルフサービスのお冷をすする。まだ真冬なのに、俺は汗だくだった。

 夕方近くになって俺はついに精根尽き果て、彼女の働く歯科の近くにある個人経営の牛丼屋に入っていた。老人に近い年齢のおじさんが一人でやっている、盛りが良くて、味の染み込んだ木綿豆腐がごろごろ乗っているのが特徴の、インスタ映えとは対極にあるような牛丼を出す店だ。彼女と付き合うようになってからというもの、どういうわけか足が遠のいてしまっていたが、本当のことを言えば、俺はこういう店が一番好きだった。

 思えば朝から何も食っておらず、ひどく空腹である。牛めし大盛り卵つき、と店の奥に向かって向かって叫ぶと、おじさんが牛めし大盛り卵つきぃ、と復唱する声が聞こえる。

 もうお手上げだ、何も思いつかない。あるいは、昨晩のやりとりの中にヒントはないかと思って――そのうちのどれが彼女を怒らせてしまったのだろうかと考える。俺と彼女は部屋で配信のドラマを観ていて、動画のサブスプリクションサービスはアマプラで十分か、それともNetflixも契約すべきかでささいな口論になった。どうでもいい話ではあったが、同棲を予定しているだけあって、そういう細かい生活スタイルもすり合わせておきたいという気持ちがあったのだ。アマプラだけでいいじゃんという俺に、彼女は珍しくNetflixも観れたほうがいいよ、としつこく主張してきて……けれど、それがそこまで怒るようなことだろうか?俺だって、べつに特別強い言葉を使ったつもりもないし……。

 そうして悩んでいるうちに、あっという間に牛丼が運ばれてくる。目の前にどん、と置かれたそれはよだれが溢れるような醤油の良い香りをさせていて、俺は手早く箸を割る。と同時に、俺の脳裏に一つの光景が蘇った。昨晩、彼女と見ていたドラマの内容。いわゆるグルメドラマというやつで、美女ではないが愛嬌のある感じの女優が、あちこちの店で食事する様子を坦々と映すだけのものだ。

 その中で女優が食べていたのが、これによく似た牛丼だった。牛丼は美味そうだったが、正直女優の食べる姿はそれほど食欲を煽るものでもなく――そのときふと、俺は以前この店でよく見かけていた、ひとりの女の子のことを思い出した。

 彼女は整った顔はしていたものの化粧っ気はなく、ボサボサの髪に常にくたびれたスウェットを着て、いつも一人でこの店に来ていた。おじさんにぶっきらぼうに俺と同じ牛めし大盛り卵つきを頼み、箸を口でくわえて荒っぽく割ると、清々しいほどに豪快に運ばれた丼をかき込んでみせる。そこには色気などみじんもなく、何なら少し下品ですらあったかもしれないが、その生々しさが、なんというか……すごく、良かったのだ。なんか、そそられた、あらゆる意味で。凝視するのは失礼だろうと思いつつ、俺は常に彼女に目が釘付けになっていた。

 そのドラマを見ながら俺は彼女のことを思い出し、そしてなぜか、目の前の恋人に対して少し後ろめたい気持ちになった。どこか、浮気をしているような気分になったからだろう。だから、なんとなく、取り繕うようにこう言った。


「牛丼かき込んで食うような女の子、正直引くわ」


 あのとき、そういえば彼女は、奇妙に沈黙していた。怒っているというのとも違うが、何か息を詰めて、悲しげにしていたというか……。あれは一体なんだったのだろう。

 そう思いながら、牛丼を食おうと丼を持ち上げたところで、俺は気がついた。U字型カウンターの真向かいに、あの彼女が座っている。相変わらずくたびれたスウェットを着て、化粧っ気のない顔で、空っぽの丼を前に置いて――。

 そのとき、俺はやっと気が付いた。泣きそうな顔でこちらを見ている彼女の顔が、あまりにも見慣れたものであることに。

 恐らく間抜けな驚愕の表情を晒しているだろう俺に、彼女は呆れたように笑いかける。そして、こう呟いた――『やっと気付いてくれた』と。

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