第2話 人間の徳目と世評暴論

「トルキア」を聞きながら、ちょっと考えてみた。

茶飲み場の席で、戦国風に喩えると、今の世の中は「群雄割拠というけれど、誰も天下人の器に値しないんじゃないかなぁ。どんぐりの背比べってヤツじゃないの?」という感覚なんです。

時代順を整理せずに、ざっくばらんに評価すると、次の通りでしょう。

大友宗麟は、そもそもキリスト教徒であって、島津の兄弟は田舎者の域を出ない。毛利元就は城に籠るだけに過ぎず、長宗我部も立志の程度が低い。上杉謙信と武田信玄は競り合っている以上、地方で五分五分の戦いが精一杯、北条氏康は砂上の楼閣で、小田原の地震に揺れている。今川義元は、公卿の如き説教臭さで、伊達政宗は、目くらとして、評価を高めている。そもそも、千利休が政治に意見するのが悪かったのであって、黒田如水は、挙句の果てに軍師の座を放棄する始末の悪さ。信長に際しては、部下に討たれ、人望のなさに呆れ果てた。明智光秀など、この時代に生まれてくるのが、そもそもの誤りのようなもの。秀吉の金権政治で、もはや、日の本は腐り切っている。家康の二番煎じには、「守りの姿勢」に飽き飽きである。誰も彼も鉄砲のような軍備に惚れ込んだに過ぎない。ここは、ひとつ宮本武蔵が将軍となって、スペインを叩いて先手を打つべきであろう、等々。

こうした議論の全てを、ぼくは、耳を貸すことなく、語るに値しない暴論の一言で片付けている。

さて、昨今の政治状況はどうだろう。

冷静に振り返ってみれば、安倍殺害ののち、ウクライナの戦場に入った現職閣僚は、およそ、通算で5人だとカウントすれば十分である。(ちなみに、便宜上、木原氏はカウントから外している)

これまでの憲政史上、精密に分析したら存在するかもしれないが、現職の大臣級の人間が、戦争中にベトナムにもアフガニスタンにもイラクにも、正式に訪問したことはなかった。戦争が終われば、何度も訪れたことだろう。

現代日本の政治家は勇気がある、それ自体、重い事実として動かすことはできない。行動力は、むしろ、裏目に出るくらいだ。だとすれば、明治期に匹敵するとセピア色に考えるよりも、イギリスの宰相級が5人も肩を並べて存在していると考えるべきなのだ。ぼくの想定では、意外かもしれないが、ジョンソンさんがわかりやすいと思っている。

帝国主義として考えてみれば、フランスも難敵ではあるけれど、心の働きにとって、もっとも重要な勇気が足りない。だから、底意地の悪さは否めない。

人間の徳目として、勇気の次に努力する目標があって、景況感の悪さが指弾される。そして、最後に知恵が問われるのであるなら、この雲行きの怪しさを食い止めるには、ぼくが、新しく与えられたセキュリティの役目から答えることができるのは、知恵には、浅いものも悪意に基づくものも、猿以下のものもあって、勇気という徳目を基礎に置いた政界の自己評価を高めることである。

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