はぎとられたから、はぎとった。

マスケッター

一、わずらわしい挨拶

 四月になったばかりなのに、昼下がりを迎えて急に冷えこんできた。


 これから大学二年生になる……そして、西日本の実家から、首都圏に引っ越した日々を数えても同じ年数になる……吾妻あがつま 華魅はなみは、自宅のアパートで一人、読書をしながらインスタントコーヒーをちびちび飲んでいる。その瞬間だけは、爪先から膝に至る冷気がどうにか遠ざけられた。


 冷えるといえば、ここは二階だ。窓からは、ちょうど今、ベランダ越しに鳩が飛んでいるのが見える。


 高校時代までは、もっぱらスカートをはいていた。今は、スラックスにしている。暖房は、光熱費を節約したいのでぎりぎりまでつけない。その代わり、分厚い靴下をはいて膝かけを膝に敷いていた。


 インスタントコーヒーは、親から仕送りでもらった品々の一つだ。大学生とはいえ、二十歳前の女子が一人暮らしをしていると、親としては何かと世話を焼きたくなるらしい。ありがたくも、少しだけくすぐったくなるような気持ちだ。


 実家から持ってきた私物のなかには、他人からすればガラクタ同然の品もある。チョコレートを入れていた厚紙の小箱に、ちょこんと収まっている赤茶色の小石がそれだ。三角形をしており、親指の爪くらいな大きさをしている。幼稚園のとき、どこかの川原で、幼馴染の男の子が拾ってくれた。


 そこから恋愛云々といけば、それこそ古典的な恋愛小説だが、彼はとっくに家族ごと引っこしている。それどころか、名前もろくに覚えてないし、小石自体も忘れていた。


 ずっと時間がたって、大学受験のときに……現役合格しているが……たまたま部屋を掃除していて見つけたのだ。捨ててもよかったが、ゲンが悪くなると思ってやめた。むしろ、お守りにしようと判断して、箱に入れた。


 合格を踏まえて、吾妻は改めてこの小石が気に入り、わざわざ荷物に含めたのである。


 小石の御利益というのでもないだろうが、一年生の単位はすべて取ったし、新学期にはまだ日がある。積ん読を解消するつもりだった。


 今読んでいる本は、現実の日本から転生した主人公が、転生先で婚約破棄された令嬢になるという物語だ。その後、元婚約者をはるかにしのぐ地位の青年と知りあった。と、いうところで玄関の呼び鈴が鳴った。


 本にしおりを挟み、吾妻はたちあがった。数歩先にある、壁に密着した防犯カメラつきのインターホンのスイッチをつける。


 人なみな背丈をした、若い男性……吾妻よりは歳上のようだが……が、じっとこちらを眺めていた。むろん、直接にはインターホンとむかいあっているだけなのだが。


 小太りで、あまり人好きのしない表情をしている彼は、安物ブランドの私服を着ていた。少なくとも運送業者や戸別訪問とは違う。そして、右手には大きめのビニール袋を下げていた。


「はい」

「こんにちは。私、このアパートの一◯一号室に先日引っ越してきましたかのとと申します。ご挨拶代わりに、カップ麺ですが蕎麦そばを持ってきました」


 礼儀正しくはあるものの、低く、うなるような声音だった。


「お気持ちだけで。ありがとうございます」


 吾妻からすれば、わずらわしい近所づきあいは、相手の老若男女に関係なく願い下げだ。


「わかりました。どうも」


 あっさりと、かのとは引きはらった。


 彼が回れ右し、インターホンを切ろうとしたとき。


 防犯カメラの画像が、ガラリと変わった。どこか、薄暗い山奥で、大きな……吾妻の背丈くらいな……岩がある。岩は赤茶色をしており、ボールペンやシャープペンの先端を横に膨らませたような形をしていた。具体的にどんな岩なのかはわからないものの、一瞬にしてその重々しい存在感は彼女の記憶に刻みつけられた。むろん、まともな神経なら、想像さえできないほど異常な現れ方をしたことも大いに預かっていた。


 それだけではない。インターホンを通じて、低くうめくようなハミング音が流れてきた。さらには、岩の表面を、黒々とした無数の小さな羽虫がはい回るようになった。ハミング音に混ざるように、羽虫は鳴いた。ぎいいい、とか、がぢぢぢ、とか、そんな鳴き声に思えた。


 吾妻は、虫はそれほど苦手ではない。しかし、この唐突極まる映像と音声は、不気味を通りこして何者かの敵意さえ感じさせた。


 数秒か、十数秒か。身じろぎ一つできなかった吾妻の耳に、自分の部屋にあるのと同じインターホンの音がかすかに聞こえた。同時に、防犯カメラの画面からは、岩などきれいさっぱり消えた。いつもの廊下と壁だけだ。


 新たなインターホンは、音の小ささからして、隣の部屋のそれに違いなかった。当然ながら、かのとは、ここ二階の住民一人一人に同じ挨拶をしないとおかしい。


 それより、さっきの幻は何だったのか。


 念のために、インターホンのスイッチを二、三回つけたり消したりしてみた。何の問題もない。


 自分でも知らないうちに、ノイローゼになっていたのか。大学生活は順調そのもので、人間関係のトラブルなど一つもないのに。


 かのとが悪質ないたずらをした可能性もなくはない。しかし、動機がさっぱりわからない。そもそも吾妻は、このアパートの何号室に誰がいるかなど、一切関心はないし知りもしない。挨拶はおろか、顔をあわせたことすらない。かのとがいるらしい、一◯一号室など、存在すら忘れていた。何故なら彼女は二階にいて、一◯一号室は一階だからだ。


 いや、それ以前に、かのとの挙動には怪しい点がなかった。どのみちかのとを疑ったところで、身体検査でもしないかぎりは白黒つかない。


 いくら考えても、まともな解明には至らなかった。不気味なのは当たり前にしても、気のせいということにして忘れるほかない。


 同級生や親に相談しようかとも思ったが、過剰に心配されたり干渉されたりしても困る。実害はなかったのだし、無視が妥当だろう。


 吾妻は、そこまで思案してようやくインターホンから離れた。読書の続きをしようかとも思ったが、気が散って楽しめない。コーヒーも完全に冷めていた。どうせ予定もないし、昼寝する。自堕落な結論ながら、結論のつかないことであれこれ悩むよりはましだろう。


 着のみぎのまま、吾妻は部屋の明かりを消してベットに横たわった。すぐ眠りにつけたのは、まだしもの幸いだった。

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